1. 概要
ランベルト・ダ・スポレート(Lambertusランベルトゥスラテン語、880年頃 - 898年10月15日)は、9世紀末のイタリアにおいて、イタリア王(在位:891年 - 898年)およびローマ皇帝(在位:892年 - 898年)として統治した人物です。彼はカロリング朝の血を引くスポレート公グイード3世とアゲルツルデの息子として生まれ、父の共同統治者として若くして権力の座に就きました。その統治は、教皇庁との複雑な関係、東フランク王国のアルヌルフやフリウーリ辺境伯ベレンガーリオ1世といった外部勢力との絶え間ない軍事衝突、そして国内の貴族間の対立によって特徴づけられました。
特に、教皇フォルモソの死体を裁くという異例の「死体裁判」を主導したことは、彼の統治における最も議論を呼んだ出来事の一つであり、当時の政治的、宗教的混乱を象徴しています。ランベルトは、カロリング朝の伝統を継承し、「フランク王国の更新(Renovatio regni Francorumレノヴァティオ・レグニ・フランコルムラテン語)」という政策理念を掲げましたが、彼の死後、イタリアはさらなる政治的混乱と複数の王位請求者による争いの時代へと突入しました。彼の生涯は、中世初期のイタリアにおける帝国権力の不安定さと、権力維持のための過酷な政治的駆け引きを如実に示しています。
2. 生涯と背景
ランベルト・ダ・スポレートは、カロリング朝の血を引くヴィドー家の一員として生まれ、若くしてイタリア王およびローマ皇帝の位に就きました。彼の統治は、父の死後、母アゲルツルデの摂政のもとで始まり、当時のイタリアの複雑な政治状況と深く結びついていました。
2.1. 出生と家系
ランベルトは880年頃、サン・ルフィーノで生まれました。父はスポレート公でありイタリア王、ローマ皇帝でもあったグイード3世、母はベネヴェント公アデルヒスの娘アゲルツルデです。
彼の祖先はヴィドー家(House of Guideschiハウス・オブ・ギデスチ英語)に属し、父方の祖父はスポレート公グイード1世、祖母はベネヴェントのシコの娘イタでした。また、彼の曽祖母であるロンバルディアのアデルヒスは、カール大帝の息子ピピン・カールマンの娘であり、この血縁を通じてランベルトはカール大帝の曾孫にあたるため、カロリング朝との強い繋がりを持っていました。父方の伯父にはナント伯ランベルト1世がいます。
2.2. 初期統治と摂政
ランベルトは891年5月にパヴィーアでイタリア王として戴冠し、父グイード3世と共同で統治を開始しました。さらに892年4月30日には、ラヴェンナで教皇フォルモソによって、父とともに共同ローマ皇帝として戴冠しました。この戴冠は教皇が不本意ながら行ったものでした。
894年に父グイード3世が急死すると、ランベルトは唯一のイタリア王およびローマ皇帝となり、父が保持していたスポレート公およびカメリーノ辺境伯の位も継承しました。しかし、彼はまだ若かったため、その統治は強力な反ドイツ主義者であった母アゲルツルデの摂政のもとで行われました。
3. 主要な活動と統治
ランベルト・ダ・スポレートの統治は、イタリア王およびローマ皇帝としての地位を確立するための絶え間ない努力と、教皇庁や他の有力者との複雑な関係によって特徴づけられました。特に、教皇フォルモソとの対立や、死体裁判という異例の事件は、彼の統治の重要な側面を形成しています。
3.1. イタリア王位と皇帝即位
ランベルトは891年5月にパヴィーアでイタリア王として戴冠しました。その後、892年4月30日には、父グイード3世とともにラヴェンナで教皇フォルモソによって共同ローマ皇帝として戴冠しました。この戴冠は、教皇フォルモソが不本意ながら行ったものでした。父グイード3世は、ランベルトを共同統治者として正式に承認させるために、教皇に対し軍事的圧力をかけました。
ランベルトと父グイード3世は、教皇に対してピピンの寄進やその後のカロリング朝による教皇領への寄進を再確認する協定に署名しました。しかし、教皇フォルモソは当初、ランベルトへの帝冠授与を拒否していました。父グイード3世は、皇帝や王の息子を共同統治者として承認する法を制定しようとしましたが、これは成功しませんでした。
3.2. 教皇との関係と対立
ランベルトの統治期間中、教皇庁との関係は常に不安定でした。893年、教皇フォルモソはスポレート家の増大する勢力を恐れ、秘密裏にレーゲンスブルクへ使者を送り、東フランク王アルヌルフにイタリア解放とローマでの戴冠を要請しました。
894年に父グイード3世が死去した後、ランベルトと母アゲルツルデは帝位の教皇による承認を得るためローマへ向かいました。しかし、教皇フォルモソはアルヌルフの戴冠を望んでいたため、ランベルトらをサンタンジェロ城に幽閉しました。
896年にアルヌルフによってフォルモソは解放され、アルヌルフは教皇フォルモソによってイタリア王および皇帝として戴冠し、ランベルトは廃位を宣言されました。しかし、同年4月にフォルモソが死去すると、ランベルトとアゲルツルデは、彼らの影響下で選出された新教皇ステファヌス6世を説得し、フォルモソの遺体を裁判にかけるという異例の措置を取らせました。
898年1月、教皇ステファヌス6世が失脚し、ヨハネス9世が新教皇として即位すると、ランベルトの意に反してフォルモソの復権が宣言されました。ランベルトは同年2月にラヴェンナで教会会議を招集し、70人の司教が出席しました。この会議では、891年の協定が再確認され、アルヌルフの戴冠は無効、ランベルトの帝位は有効とされました。また、ヨハネス9世の選出が正当化され、フォルモソの復権も承認されました。さらに重要なことに、ロタール1世が824年に定めた「Constitutio Romanaコンスティトゥティオ・ロマナラテン語」(教皇選挙に皇帝の使節の立ち会いを義務付けるもの)が再確認されました。
3.3. 対外関係と軍事衝突

ランベルトの統治期間中、彼は東フランク王アルヌルフとフリウーリ辺境伯ベレンガーリオ1世によるイタリア支配の試みを阻止することに奔走しました。
893年、アルヌルフは庶子ツヴェンティボルトをバイエルン軍とともに派遣し、ベレンガーリオ1世と合流させました。彼らは父グイード3世を破りましたが、グイードの賄賂と疫病の発生により、その年の秋には撤退しました。894年初頭、アルヌルフは自ら軍を率いてアルプス山脈を越え、ポー川以北の領土を征服しましたが、その直後に父グイード3世が急死しました。
グイード3世の死後、ベレンガーリオ1世がパヴィーアを占領しましたが、ランベルトと母アゲルツルデはベレンガーリオの軍を追い出すことに成功しました。しかし、895年10月、アルヌルフは再びイタリアに侵攻しました。ランベルトは直接対決を避けましたが、アルヌルフはトスカーナの貴族たちの支持を集め、かつてランベルトの味方であったアダルベルト2世さえもアルヌルフ側に加わりました。896年2月21日、アルヌルフはローマを力ずくで占領し、教皇フォルモソを解放しました。
895年には、ランベルトの従兄弟であるグイード4世がビザンツ帝国からベネヴェント公国を征服しました。897年にラデルキス2世が復位した後、ベネヴェントにおけるランベルトの支配が承認されました。
897年10月から11月にかけて、ランベルトはパヴィーア郊外でベレンガーリオ1世と会談し、王国を分割する合意に達しました。ベレンガーリオはアッダ川とポー川の間の地域を、ランベルトは残りの地域を保持することとし、ベルガモは共有されました。この分割は889年の現状を追認するものでした。ランベルトはまた、ベレンガーリオの娘ジゼラとの結婚を約束しましたが、この同盟関係は後に破綻しました。年代記作家リウトプランドは、この分割について「イタリア人は常に二人の君主の下で苦しんだ」と述べました。
898年、ランベルトは依然としてベレンガーリオ1世と反抗的なトスカーナのアダルベルト2世との対立に直面していました。アダルベルト2世はパヴィーアに進軍しましたが、ランベルトはミラノ南部のマレンゴ近郊で狩猟中にこの情報を得て、ボルゴ・サン・ドンニーノでアダルベルトを奇襲し、捕虜としました。
3.4. 法令と行政
ランベルトは、カロリング朝の伝統に則り、父グイード3世の政策である「フランク王国の更新(Renovatio regni Francorumレノヴァティオ・レグニ・フランコルムラテン語)」を継続しました。彼はカロリング朝の慣習に従って勅令(capitularyカピトゥラリー英語)を発行した最後の統治者でした。
898年には、アリマンニ(arimanniアリマンニラテン語)が負う役務の搾取を禁じ、家臣のための封土を創設する法を制定しました。また、彼の宮廷では「Lex Romana Utinensisレクス・ロマナ・ウティネンシスラテン語」(ウーディネのローマ法)が編纂されました。
さらに、ランベルトは824年のロタール1世の「Constitutio Romanaコンスティトゥティオ・ロマナラテン語」(教皇選挙に皇帝の使節の立ち会いを義務付けるもの)を再確認しました。これは教皇ヨハネス9世によっても再承認され、教皇選出における皇帝の関与が再び確立されました。
3.5. 死体裁判(フォルモソ教皇裁判)
教皇フォルモソの遺体を巡る裁判は、ランベルトの統治期間中、最も悪名高く、歴史的に議論を呼んだ出来事の一つです。この事件は、当時のイタリアにおける極度の政治的・宗教的混乱と、権力闘争の過酷さを示すものでした。
- 背景**: 896年4月に教皇フォルモソが死去した後、ランベルトと彼の母アゲルツルデは、フォルモソが彼らを幽閉し、アルヌルフを皇帝に戴冠させ、ランベルトを廃位したことへの報復を企てました。彼らの影響力によって選出された新教皇ステファヌス6世を説得し、フォルモソの遺体を裁判にかけるよう仕向けました。
- 過程**: 897年、ステファヌス6世は、フォルモソの遺体を墓から掘り起こさせ、教皇の祭服を着せて、議会の玉座に座らせました。そして、生前のフォルモソが犯したとされる様々な罪状について、異例の裁判が行われました。審判官が罪を問うと、遺体の後ろに隠れた人物が、あたかも遺体が自白しているかのように指を動かすという、極めて異様な光景が繰り広げられました。
- 結果**: フォルモソの遺体は有罪判決を受け、教皇としての選出や彼が行ったすべての教会勅令、聖職者任命は無効とされました。遺体は祭服を剥ぎ取られ、祝福に用いられる右手の3本の指が切断されました。その後、遺体はローマ市中を引き回され、最終的にテヴェレ川に投げ捨てられました。
- 復権**: しかし、898年1月に政変が起こり、ステファヌス6世は失脚し、教皇ヨハネス9世が即位しました。ヨハネス9世は即位直後、ローマとラヴェンナで教会会議を招集し、フォルモソの復権を宣言しました。これらの会議では、ステファヌス6世による裁判と教令は不法であるとされ、破棄されました。また、ステファヌス6世によって廃位された聖職者たちは復権しました。
- 歴史的意義**: この「死体裁判」は、中世初期の教皇権と世俗権力の間の激しい衝突、そして政治的復讐のために倫理的・法的な規範が無視された極端な事例として、歴史上悪名高い出来事とされています。ランベルトがこの裁判を主導したことは、彼の統治が権力維持のためには手段を選ばない冷酷な側面を持っていたことを示しており、人間の尊厳や公正な司法原則が踏みにじられた事例として、後世に大きな批判を残しました。
4. 統治哲学
ランベルト・ダ・スポレートの統治哲学は、父グイード3世から受け継いだ「フランク王国の更新(Renovatio regni Francorumレノヴァティオ・レグニ・フランコルムラテン語)」という理念に深く根差していました。彼はこの政策を通じて、かつてのカロリング朝の栄光と行政慣行をイタリアに再確立しようと試みました。
彼はカロリング朝の伝統に忠実であり、その証拠に、フランク風の勅令(capitularyカピトゥラリー英語)を発行した最後の統治者となりました。このことは、彼が単なる軍事指導者ではなく、法と秩序に基づく統治を目指していたことを示唆しています。また、ロタール1世が824年に定めた「Constitutio Romanaコンスティトゥティオ・ロマナラテン語」を再確認し、教皇選挙における皇帝の立ち会いを義務付けることで、教皇庁に対する世俗権力の優位性を確保しようとしました。これは、教皇と皇帝の間の権力バランスをカロリング朝の伝統的な形に戻そうとする試みの一環でした。
5. 個人生活と家族
ランベルトの個人生活に関する情報は限られていますが、政治的な繋がりとしての結婚計画が知られています。彼はフリウーリ辺境伯ベレンガーリオ1世の娘ジゼラとの結婚を約束し、これにより一時的にベレンガーリオとの政治的同盟を強化しようとしました。しかし、この政略結婚の計画は最終的に破綻しました。
一部の史料では、彼の妻としてサンリス伯ピピン2世の娘アデルライードが挙げられていますが、この結婚がいつ行われたのか、またジゼラとの関係性については明確ではありません。ランベルトには男系の後継者がいなかったため、彼の死後、スポレート公国は弟のグイード4世に継承されました。
6. 死
ランベルトは898年10月15日に急死しました。彼の死に至る状況は不明確で、暗殺説と事故説の両方が伝えられています。
当時の一級史料であるリウトプランドは、ランベルトがミラノ南部のマレンゴ近郊で狩猟中に死亡したと記しています。リウトプランドは、マギヌルフの息子ウーゴによる暗殺の可能性を示唆していますが、この説については断定を避けています。しかし、他の史料では、フィデンツァのボルゴ・サン・ドンニーノで、競争相手が送った刺客によって馬から落とされ、暗殺されたと具体的に述べられています。
ランベルトの遺体は回収され、パヴィーアからピアチェンツァへ運ばれて埋葬されました。リウトプランドは彼を「elegans iuvenisエレガンス・ユウェニスラテン語」(優雅な若者)かつ「vir severusウィル・セウェルスラテン語」(厳格な人物)と評しています。
彼の墓碑銘(ラテン語のエレジア詩)には、以下のように記されています。
Sanguine præcipuō Francōrum germinis ortus
Lambertus fuit hīc Caesar in Urbe potēns
Alter erat Cōnstantīnus, Theodōsius alter
Et prīnceps pācis clārus amōre nimis
フランク族の血統から傑出した血筋に生まれし者
ランベルトはここに皇帝として、ローマ市に強大な権力を握りしめた
彼はもう一人のコンスタンティヌスであり、もう一人のテオドシウスであった
そして平和をこよなく愛し、その名声はあまりにも高かった
7. 評価と遺産
ランベルト・ダ・スポレートの統治は、彼の死後も続くイタリアの政治的混乱の時代に大きな影響を与えました。彼の行動は、カロリング朝の伝統を維持しようとする努力と、権力闘争の中で見せた冷酷な側面の両方から評価されます。
7.1. 肯定的評価
ランベルトは、カロリング朝の行政的・法的慣行に深くコミットしており、フランク風の勅令(capitularyカピトゥラリー英語)を発行した最後の統治者として知られています。これは、彼が混乱の時代にあっても、帝国の伝統と秩序の維持に努めたことを示しています。
年代記作家リウトプランドは、彼を「elegans iuvenisエレガンス・ユウェニスラテン語」(優雅な若者)であり「vir severusウィル・セウェルスラテン語」(厳格な人物)と評しており、彼の人物像に一定の敬意が払われていたことがうかがえます。また、彼の墓碑銘には「もう一人のコンスタンティヌスであり、もう一人のテオドシウスであった」「平和をこよなく愛し、その名声はあまりにも高かった」と記されており、彼が帝国の役割を果たす上で平和を志向し、一定の評価を得ていたことが示されています。
7.2. 批判と論争
ランベルトの統治における最も重大な批判点は、死体裁判を主導したことです。この事件は、教皇フォルモソの遺体に対する復讐と、政治的権力固めのために、人間の尊厳や基本的な司法原則が踏みにじられた極めて異例かつ悪名高い出来事として記憶されています。彼のこの行動は、権力闘争において極端な手段を用いることを厭わない冷酷な側面を浮き彫りにしました。
また、リウトプランドが「イタリア人は常に二人の君主の下で苦しんだ」と述べたように、ランベルトの治世は、アルヌルフやベレンガーリオ1世との絶え間ない権力闘争によって特徴づけられ、イタリア全土に慢性的な政治的混乱と不安定をもたらしました。彼と父グイード3世が混乱に乗じて帝位を獲得したことは、その後のイタリアと神聖ローマ帝国の帝位を巡る多くの諸侯の反発と争いの原因となりました。
7.3. 後世への影響
ランベルトの死は、イタリア王国(regnum Italicumレグヌム・イタリクムラテン語)とローマ帝国(imperium Romanumインペリウム・ロマヌムラテン語)をさらなる混迷へと陥れ、複数の王位請求者による激しい争いが勃発しました。彼の死後数日のうちに、ベレンガーリオ1世がパヴィーアを占領し、イタリア王位への主張をさらに強めました。
スポレート公国は弟のグイード4世が継承しましたが、グイード4世も後に殺害され、その後スポレート公の地位とイタリア南部地域の覇権はアルベリク家やマロツィアの家系へと移っていきました。ランベルトの死は、イタリアが長期にわたる政治的断片化と混乱の時代へと突入する転換点の一つとなり、統一された中央権力の確立が困難であることを示しました。