1. 概要
リッキー・スバグジャ(Ricky Subagjaインドネシア語)は、インドネシア出身の元バドミントン選手であり、史上最も偉大なダブルススペシャリストの一人と評されています。1996年のアトランタオリンピック男子ダブルスで金メダルを獲得したのを筆頭に、世界バドミントン選手権大会で2度、アジア競技大会で2度、バドミントンワールドカップで3度優勝するなど、輝かしいキャリアを築きました。特にレキシー・マイナキーとのペアは1990年代を通じて圧倒的な強さを誇り、30以上の国際タイトルを獲得しました。
引退後はスポーツコメンテーターやテレビプレゼンターとして活動し、2009年には世界バドミントン連盟(BWF)によってバドミントン殿堂入りを果たしました。彼の功績は、インドネシアのバドミントン界に多大な影響を与え、スポーツを通じて国民的英雄としての地位を確立しました。また、彼は国民民主党や民主党から立法選挙に出馬するなど、社会貢献への意欲も示しています。
2. 生涯と個人的な背景
リッキー・スバグジャは、インドネシアのバドミントン界を象徴する存在として知られていますが、彼の生い立ちや家族関係もまた、彼のキャリアと人生を形成する上で重要な要素でした。
2.1. 生い立ちと幼少期
リッキー・スバグジャは、1971年1月27日にインドネシア西ジャワ州バンドンで、本名Ricky Achmad Soebagdjaインドネシア語として生まれました。幼少期からバドミントンに情熱を傾け、その才能はすぐに開花しました。身長は172 cmで、右利きでした。彼は若くして国際舞台で活躍し始め、その後のプロとしての成功の基礎を築きました。
2.2. 家族と個人的な関係
リッキー・スバグジャは、元競泳選手のエルサ・マノラ・ナスーションと結婚していました。彼の家族や個人的な関係については公にされる情報は限られていますが、スポーツ界における彼の地位は、公私にわたる彼の人間性を形作る上で重要な役割を果たしました。
3. バドミントン選手としての経歴
リッキー・スバグジャは、ジュニア時代からその才能を発揮し、プロ転向後は数々の国際大会で歴史的な成功を収めました。
3.1. ジュニア時代
リッキー・スバグジャは、1980年代後半にジュニアの国際舞台で活躍を始めました。特にインドネシアのジャカルタで開催された「Bimantara世界ジュニアバドミントン招待選手権」(1987年~1991年)では、数多くのメダルを獲得しました。
年 | 大会 | 種目 | パートナー | 対戦相手 | スコア | 結果 |
---|---|---|---|---|---|---|
1987年 | Bimantara世界ジュニア | 男子ダブルス | イマイ・ヘンドラ (インドネシア) | チェ・サンボム、アン・ジェチャン (韓国) | 11-15, 14-17 | 銅メダル |
1987年 | Bimantara世界ジュニア | 混合ダブルス | リリック・スダルワティ (インドネシア) | アーディー・ウィラナタ、スシ・スサンティ (インドネシア) | 15-7, 7-15, 9-15 | 銀メダル |
1988年 | Bimantara世界ジュニア | 男子シングルス | - | 呉文凱 (中国) | 11-15, 3-15 | 銅メダル |
1988年 | Bimantara世界ジュニア | 男子ダブルス | アラス・ラザク (インドネシア) | Yudi Yudono、Darma (インドネシア) | 15-8, 15-6 | 金メダル |
1988年 | Bimantara世界ジュニア | 混合ダブルス | リリック・スダルワティ (インドネシア) | チェ・ジテ、パン・スヒョン (韓国) | 15-12, 15-7 | 金メダル |
また、1987年にはIBFジュニア国際大会の一つである「Duinwijckジュニア」男子ダブルスでヌヌン・ムルディヤント(インドネシア)と組み、トーマス・オルセン、フレデリク・リンドクイスト(デンマーク)組を12-15, 15-8, 15-6で破り優勝しました。
3.2. プロ時代
プロ選手として、リッキー・スバグジャは1990年代のバドミントン界を代表する選手の一人となり、特に男子ダブルスでその名を馳せました。
3.2.1. パートナーシップとプレースタイル
リッキー・スバグジャは、1993年の世界バドミントン選手権大会でルディ・グナワンとペアを組み、優勝しました。しかし、1990年代のほとんどの期間において、彼のレギュラーパートナーは同じインドネシア出身のレキシー・マイナキーでした。スバグジャが「速く動き、速く打つ」プレースタイルを持つ一方、マイナキーも同様に「速く、強打」する選手であり、二人はお互いの長所を最大限に引き出し、この10年で最も成功したチームを形成しました。彼らは共に30以上の国際タイトルを獲得し、バドミントンの主要な選手権すべてを少なくとも一度は制覇するという偉業を成し遂げました。
3.2.2. 主要国際大会での実績
リッキー・スバグジャは、以下の主要国際大会で数多くのメダルを獲得しました。
- オリンピック**
リッキー・スバグジャは、1996年アトランタオリンピック男子ダブルスでレキシー・マイナキーとペアを組み、金メダルを獲得しました。決勝ではマレーシアのヤップ・キムホックとチー・スンキット組を5-15, 15-13, 15-12で破る熱戦を繰り広げました。また、1992年バルセロナオリンピックと2000年シドニーオリンピックでは、準々決勝で敗退しました。
年 | 大会 | パートナー | 対戦相手 | スコア | 結果 |
---|---|---|---|---|---|
1990年 | オランダオープン | バグース・セティアディ (インドネシア) | ヨン・ホルスト=クリステンセン、トーマス・ルンド (デンマーク) | 10-15, 4-15 | 準優勝 |
1991年 | カナダオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ラジフ・シデク、ジャラニ・シデク (マレーシア) | 11-15, 12-15 | 準優勝 |
1991年 | USオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ラジフ・シデク、ジャラニ・シデク (マレーシア) | 13-18, 15-13, 3-15 | 準優勝 |
1991年 | ポーランド国際大会 | リチャード・マイナキー (インドネシア) | ルディ・グナワン・ハディトノ、ディッキー・プルウォチュジョノ (インドネシア) | 15-12, 15-1 | 優勝 |
1992年 | インドネシアオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | エディ・ハルトノ、ルディ・グナワン (インドネシア) | 12-15, 5-15 | 準優勝 |
1992年 | 中国オープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ラジフ・シデク、ジャラニ・シデク (マレーシア) | 17-15, 15-11 | 優勝 |
1992年 | 香港オープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ファン・ジャンジョン、ジェン・ユーミン (中国) | 15-13, 15-10 | 優勝 |
1992年 | タイオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ファン・ジャンジョン、ジェン・ユーミン (中国) | 15-9, 12-15, 15-11 | 優勝 |
1992年 | フランスオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | 李永波、田秉毅 (中国) | 16-18, 12-15 | 準優勝 |
1992年 | ワールドグランプリファイナル | レキシー・マイナキー (インドネシア) | チー・スンキット、スー・ベンキャン (マレーシア) | 15-11, 15-6 | 優勝 |
1993年 | スウェーデンオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ピーター・アクセルソン、パー=グンナー・ヨンソン (スウェーデン) | 15-12, 15-10 | 優勝 |
1993年 | マレーシアオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | チー・スンキット、スー・ベンキャン (マレーシア) | 15-7, 15-5 | 優勝 |
1993年 | インドネシアオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | エディ・ハルトノ、リチャード・マイナキー (インドネシア) | 15-13, 15-10 | 優勝 |
1993年 | ドイツオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ヨン・ホルスト=クリステンセン、トーマス・ルンド (デンマーク) | 14-17, 12-15 | 準優勝 |
1993年 | ワールドグランプリファイナル | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ルディ・グナワン、バンバン・スプリアント (インドネシア) | 15-11, 10-15, 9-15 | 準優勝 |
1994年 | 日本オープン | デニー・カントノ (インドネシア) | サクラピー・トンサーリー、プラモート・ティラウィワタナ (タイ) | 15-11, 12-15, 18-16 | 優勝 |
1994年 | 韓国オープン | デニー・カントノ (インドネシア) | ピーター・アクセルソン、パー=グンナー・ヨンソン (スウェーデン) | 14-17, 7-15 | 準優勝 |
1994年 | スウェーデンオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ピーター・アクセルソン、パー=グンナー・ヨンソン (スウェーデン) | 15-11, 15-12 | 優勝 |
1994年 | 全英オープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ルディ・グナワン、バンバン・スプリアント (インドネシア) | 12-15, 12-15 | 準優勝 |
1994年 | マレーシアオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | サクラピー・トンサーリー、プラモート・ティラウィワタナ (タイ) | 15-5, 18-16 | 優勝 |
1994年 | シンガポールオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ヨン・ホルスト=クリステンセン、トーマス・ルンド (デンマーク) | 15-6, 15-8 | 優勝 |
1994年 | インドネシアオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ルディ・グナワン、バンバン・スプリアント (インドネシア) | 10-15, 15-4, 18-17 | 優勝 |
1994年 | 香港オープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ルディ・グナワン、バンバン・スプリアント (インドネシア) | 15-12, 14-17, 15-7 | 優勝 |
1994年 | ワールドグランプリファイナル | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ルディ・グナワン、バンバン・スプリアント (インドネシア) | 15-10, 15-7 | 優勝 |
1995年 | 韓国オープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ヨン・ホルスト=クリステンセン、トーマス・ルンド (デンマーク) | 15-6, 11-15, 15-7 | 優勝 |
1995年 | 日本オープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ルディ・グナワン、バンバン・スプリアント (インドネシア) | 15-8, 15-9 | 優勝 |
1995年 | 全英オープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | アントニウス・アリアント、デニー・カントノ (インドネシア) | 15-12, 15-18, 15-8 | 優勝 |
1995年 | シンガポールオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | アントニウス・アリアント、デニー・カントノ (インドネシア) | 15-7, 18-16 | 優勝 |
1996年 | 日本オープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ルディ・グナワン、バンバン・スプリアント (インドネシア) | 15-8, 12-15, 15-12 | 優勝 |
1996年 | 韓国オープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ヤップ・キムホック、チー・スンキット (マレーシア) | 15-5, 17-14 | 優勝 |
1996年 | 全英オープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ヤップ・キムホック、チー・スンキット (マレーシア) | 15-6, 15-5 | 優勝 |
1996年 | 中国オープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | シギット・ブディアルト、チャンドラ・ウィジャヤ (インドネシア) | 12-15, 5-15 | 準優勝 |
1996年 | ワールドグランプリファイナル | レキシー・マイナキー (インドネシア) | ヤップ・キムホック、チー・スンキット (マレーシア) | 15-4, 15-9 | 優勝 |
1997年 | 日本オープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | アントニウス・アリアント、デニー・カントノ (インドネシア) | 15-11, 7-15, 15-7 | 優勝 |
1997年 | マレーシアオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | アントニウス・アリアント、デニー・カントノ (インドネシア) | 17-15, 15-12 | 優勝 |
1997年 | ベトナムオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | イ・ドンス、ユ・ヨンソン (韓国) | 15-11, 15-5 | 優勝 |
1998年 | シンガポールオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | シギット・ブディアルト、チャンドラ・ウィジャヤ (インドネシア) | 5-15, 5-15 | 準優勝 |
1998年 | デンマークオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | フランディ・リンペレ、エング・ヒアン (インドネシア) | 15-11, 15-6 | 優勝 |
1998年 | インドネシアオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | フランディ・リンペレ、エング・ヒアン (インドネシア) | 15-5, 15-4 | 優勝 |
1999年 | インドネシアオープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | トニー・グナワン、チャンドラ・ウィジャヤ (インドネシア) | 15-12, 15-8 | 優勝 |
2000年 | 韓国オープン | レキシー・マイナキー (インドネシア) | イ・ドンス、ユ・ヨンソン (韓国) | 8-15, 15-9, 4-15 | 準優勝 |
4. 引退後の活動
選手としての輝かしいキャリアを終えた後、リッキー・スバグジャはバドミントン界内外で様々な活動を展開し、その影響力を維持しました。
4.1. スポーツ放送活動
リッキー・スバグジャは、引退後、スポーツコメンテーターやテレビ番組のプレゼンターとして活動を開始しました。彼の専門知識と知名度は、テレビを通じてバドミントン競技の魅力を広め、多くのファンに届けました。
4.2. 政治活動
リッキー・スバグジャは、2014年と2019年のインドネシア立法選挙に出馬し、政治活動にも関心を示しました。これは、彼がスポーツ界だけでなく、社会全体に貢献しようとする意欲の表れでもありました。
選挙 | 立法機関 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 結果 |
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2014年 | インドネシア共和国国民議会 | ジャワ島西1区 | 国民民主党 | 不明 | 落選 |
2019年 | 民主党 | 不明 | 落選 |
5. 受賞歴と栄誉
リッキー・スバグジャは、その卓越したバドミントン選手としての功績を称えられ、数々の賞と栄誉を受けています。
- バドミントン殿堂入り**
2009年には、世界バドミントン連盟(BWF)によって殿堂入りを果たしました。これは、彼がバドミントンの歴史において最も偉大な選手の一人として公式に認められたことを意味します。
6. 遺産と評価
リッキー・スバグジャは、その輝かしい選手としてのキャリアを通じて、バドミントンの歴史に不朽の足跡を残しました。彼は、特に男子ダブルスにおいて、史上最も偉大なスペシャリストの一人と広く評価されています。彼のパワフルで正確なショット、そしてコート上での素早い動きは、多くのバドミントン選手に影響を与え、そのプレースタイルは後世のダブルス選手にとって模範となりました。
特にレキシー・マイナキーとのパートナーシップは、1990年代のバドミントン界を席巻し、彼らの成功はインドネシアのバドミントンが世界トップレベルであることを示す強力な証拠となりました。彼らの協調性と戦術的な頭脳は、ダブルス競技の新たな基準を打ち立てたと言われています。リッキー・スバグジャの功績は、インドネシアのナショナルチームにおける団結力と精神力を象徴し、国民に誇りを与えました。引退後もスポーツ界で活躍を続ける彼の姿勢は、多くの若手選手にとって手本となっています。彼の遺産は、単なるタイトル数に留まらず、バドミントンというスポーツの魅力を世界に伝え、発展に貢献した点にあります。