1. 概要

- ルイ5世**(Louis Vルイ・サンクフランス語、966年頃 - 987年5月22日)は、西フランク王国のカロリング朝最後の国王である。979年から986年まで父ロテールと共同統治し、986年から987年の早逝まで単独で統治した。その治世の短さと実権のなさから、同時代の人々からは「怠惰王(Louis le Fainéantルイ・ル・フェネアンフランス語)」の異名で知られている。
彼の短い治世は、貴族が実質的に国を支配する不安定な時代であった。ルイ5世は正当な子孫を残さずに死去したため、カロリング朝の血統は途絶え、西フランク王国は新たなカペー朝の樹立という決定的な転換点を迎えることとなった。彼の統治は、旧王朝の終焉とその後のフランス王国の基礎を築く上で重要な役割を果たしたと評価される。
2. 生涯
ルイ5世の生涯は、幼少期の共同国王としての戴冠から、波乱に満ちた結婚生活、そして困難な単独統治を経て、不慮の死によってカロリング朝の終焉を迎えるという、短いながらもフランス史において極めて重要な時期に位置づけられる。
2.1. 幼少期と共同国王としての戴冠
ルイ5世は966年頃に、西フランク王ロテールとイタリア王のロターリオ2世の娘である王妃エンマの長男として生まれた。
978年、父ロテールはルイを共同統治者として政府に加えることを決定し、979年6月8日にはコンピエーニュのサン=コルネイユ修道院において、ランス大司教アダルベロンによって共同国王として戴冠された。この戴冠は、不安定な政治状況の中で王権の連続性を確保し、将来の王位継承を円滑に進めるための措置であった。
2.2. 結婚とその影響
982年、15歳であったルイは、現在のオート=ロワール県ヴィエイユ=ブリウードにおいて、当時40歳であったアンジューのアデライード=ブランシュと結婚した。アデライード=ブランシュは、アンジュー伯ジョフロワ1世の妹であり、以前にジェヴォーダン伯エティエンヌとトゥールーズ伯レーモン(ゴティア公)という2人の伯爵と結婚し、すでに寡婦となっていた。
この結婚は純粋な政略結婚であり、ロテール王はエンマ王妃とジョフロワ1世の助言に従い、カロリング朝の王権を南部の王国に回復させ、さらに(年代記作家リシェールによれば)ロベール家との対立において南部の貴族からの支持を得るという二重の目的を持っていた。ロテールは、王国南部の有力な二つの伯爵家と婚姻関係を結ぶことで、ユーグ・カペーの勢力に対抗できると信じていた。
結婚直後、ルイとアデライード=ブランシュは、アデライードの兄弟であるル・ピュイ司教ギーによってアキテーヌの国王と王妃として戴冠された。しかし、当初からこの年齢の不釣り合いな夫婦は、平和に共存することができなかった。年代記作家リシェールによると、その不和は年齢差だけでなく、ルイの「軽率な行動」にも起因するとされている。
::「彼らにはほとんど夫婦の愛がなかった。ルイはかろうじて思春期に達したばかりで、アデライードは老女であったため、彼らの間には不和と意見の相違しかなかった。彼らは同じ寝室を共有することもできず、旅をするときはそれぞれ別の住居に滞在し、話さざるを得ないときも、その会話は戸外でごく短い言葉を交わす程度であった。彼らはこのように2年間を過ごし、互いの性格の不一致を理由に離婚した。(中略)家庭教師もいなかったルイは、若さゆえにあらゆる種類の軽率な行動にふけっていた。」
984年、2年間の結婚生活で子供が生まれなかった後、アデライードは若い夫を欺いてアキテーヌへの訪問を促し、現地で彼を捨てて実家に戻った。その後、彼女はすぐにプロヴァンス伯ギヨーム1世と結婚した。年代記作家ロドゥルフス・グラベルはこれを次のように記している。
::「若い王子が青年期に達したとき、ロテールは彼を国王とし、後継者に指名した。また、彼はアキテーヌの王女を妻に選んだが、王女はすぐにその若者が父親の才能を受け継がないと察した。そこで彼女は夫と別れることを決意し、その目的のために、自身の世襲権がその地の領有を保証しているとみなし、巧みに夫を説得して自分の属州であるアキテーヌへの旅に誘った。ルイは計略を疑うことなく妻の助言に従い、彼女と共に出発した。アキテーヌに着くと、彼女は夫を残して実家に戻った。」
しかし、リシェール、ロドゥルフス・グラベル、『アンジュー年代記』、サン=マクサンス年代記など、同時代および後世の複数の文献にこの結婚の存在が記されているにもかかわらず、歴史家カールリヒャルト・ブリュールは近年、この結婚の存在自体に疑問を投げかけている。この結婚とその解消は、当時の貴族たちの間でルイの評判を悪化させる要因となった。
2.3. 単独統治と政治状況
986年3月2日に父ロテールが死去すると、すでに共同国王として戴冠されていたルイ5世は、疑いの余地なくフランク人の単独国王となった。しかしこの時、フランク王宮には二つの派閥が存在していた。一つは、ランス大司教アダルベロンと王妃エンマが率いる派閥であり、エンマの母である皇后アデライードの影響を強く受けていたため、オットー朝との友好的な関係の再構築を望んでいた。もう一つの派閥は、ロテールの政策を継続し、皇帝オットー3世の幼少期を利用して、東方への拡大とロートリンゲンの回復を目指していた。
さらに、若い国王は、父の時代から続いていた選挙王制の王家(ロベール家によって2度、ボソン家によって1度中断されていた)と、オットー1世のオットー朝との間の長きにわたる闘争を継承した。ローマの守護者であったオットー1世は、カロリング朝領内の聖職者を任命する権限を持っており、彼が任命した聖職者たちはカロリング朝を支持していなかった。
当初はエンマ王妃が状況を優位に支配していたが、986年夏に情勢は逆転した。反オットー朝派が優勢となり、エンマは宮廷を離れてユーグ・カペーのもとに身を寄せざるを得なくなった。この出来事はまた、アダルベロンを窮地に陥れた。彼はオットー1世によって強力なランス大司教区に任命された人物であったため、司教の座を追われ、オットー朝の勢力圏であったムーズ川沿いの自身の要塞の一つに避難した。
大司教の逃亡は、ルイ5世によって反逆とみなされ、彼はアダルベロンに対して激しく怒り、ランスを包囲すると脅した。この問題は最終的にコンピエーニュでの法廷で解決されることとなった。しかし、この法廷が開かれる前に、ルイ5世は心変わりし、アダルベロンとの和解を求めた。そして987年春には、息子オットー3世の代理として行動していた皇后テオファヌとの和平会談を計画した。これらの複雑な事柄が解決される前に、ルイ5世は世を去った。
3. 死と王位継承
ルイ5世は987年5月22日に、オワーズ県サンリス近郊のアラルテの森で狩猟中に落馬事故により早すぎる死を迎えた。彼の遺体はコンピエーニュのサン=コルネイユ修道院に埋葬された。
ルイ5世には正当な後継者がいなかったため、叔父である下ロレーヌ公シャルルが王位の世襲後継者として指名された。しかし、アダルベロンと、後にシルウェステル2世となるジェルベールを含む聖職者たちは、ユーグ・カペーの選出を雄弁に主張した。ユーグ・カペーは王族の血を引くだけでなく、その行動と軍事力によって実力者であることを証明していた。
ルイ5世の死後2ヶ月以内に、ユーグ・カペーはフランク王国の王位に選出され、アダルベロンによって戴冠された。これにより、カロリング朝の支配は終わりを告げ、カペー朝の時代が始まった。これはフランスの歴史における重要な転換点であり、約500年間続いたカロリング朝の終焉と、その後のフランス王国の基礎を築くカペー朝の成立を意味した。
4. 家族関係
ルイ5世の直系家族は以下の通りである。
- 父**: 西フランク王ロテール(941年 - 986年)
- 母**: イタリア王女エンマ(? - 986年)
- 弟**: エウド伯(986年没)
- 異母弟**: ランス大司教アルヌルフ(967年頃 - 1021年)
- 王妃**: アンジューのアデライード=ブランシュ(982年結婚、984年離婚)
- (子なし)
- 父方の祖父**: 西フランク王ルイ4世(920年 - 954年)
- 父方の祖母**: ザクセンのゲルベルガ(913年頃 - 969年)
- 母方の祖父**: イタリア王ロターリオ3世(920年頃 - 950年)
- 母方の祖母**: ブルゴーニュのアデライード(931年 - 999年、後に神聖ローマ皇帝オットー1世と再婚)
5. 評価と遺産

ルイ5世は、その短い治世と実権のなさに鑑みて、「怠惰王(le Fainéantル・フェネアンフランス語)」あるいは「無為王(qui nihil fecitキ・ニヒル・フェキトフランス語)」という別称で後世の歴史家たちから称されてきた。この別称は、彼が王としてほとんど何も成し遂げなかったことを意味する。彼の治世中、王権は弱体化し、国内の貴族たちが実質的に国を支配していた。
リシェールなどの同時代の年代記作家は、ルイの若さゆえの軽率な行動や、私生活における奔放さを指摘している。結婚生活の破綻も彼の評価に悪影響を与え、貴族たちの間で彼の評判を著しく低下させた。これは、当時の君主に求められる統治能力や倫理的規範からの逸脱と見なされたためである。
ルイ5世の遺産は、彼がカロリング朝最後の君主であったという一点に集約される。彼が正当な後継者を残さずに若くして死去したことは、カロリング朝の終焉を決定づけた。その結果、世襲制ではない国王選挙によってユーグ・カペーが新たな王に選出され、フランス史上重要なカペー朝が創始されることとなった。
彼の短い統治は、旧王朝の長期にわたる衰退期を象徴するものであり、新たな王朝が樹立されるための歴史的空白を生み出した。ルイ5世の治世は、王権の弱体化と貴族勢力の台頭という、中世フランスにおける権力構造の変化を如実に示しており、彼の不運な生涯は、その後のフランス王国の歴史的進路を大きく左右する決定的な転換点となった。