1. 概要
ロナルド・フレデリック・「ロニー」・ロバートソン(Ronald Frederick "Ronnie" Robertson英語、1937年9月25日 - 2000年2月4日)は、アメリカ合衆国出身のフィギュアスケート選手である。彼は特にその卓越したスピン技術で知られ、1956年のコルチナ・ダンペッツォオリンピック男子シングルで銀メダルを獲得した。また、世界フィギュアスケート選手権でも2度銀メダルに輝いている。アマチュア引退後はプロに転向し、テレビショーやプロ選手権で活躍したほか、香港でコーチとしても活動した。私生活では俳優のタブ・ハンターと長年にわたる関係を持っていたことでも知られる。
2. 生涯と背景
ロナルド・ロバートソンの生涯は、フィギュアスケートへの情熱と、当時の社会的な制約の中で自己を表現しようとする彼の姿が特徴的である。
2.1. 幼少期と指導
ロナルド・ロバートソンは1937年9月25日、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ブラッケンリッジに生まれた。彼の父親であるアルバート・ロバートソンは海軍建築家であった。幼少期にフィギュアスケートを始め、その才能はすぐに開花した。彼は著名なコーチであるギュスターヴ・ルッシ(Gustave Lussi英語)の指導を受けた。ルッシは彼のスピン技術を磨き上げ、ロバートソンを世界トップレベルのスケーターへと成長させた。また、1950年代に青春スターとして人気を博した俳優のタブ・ハンターは、彼のアマチュアキャリアを経済的に支援し、個人的な関係を築いていた。
3. アマチュア競技者としてのキャリア
ロバートソンはアマチュア選手として短期間で目覚ましい成績を収め、特にその革新的なスケーティング技術で注目を集めた。
3.1. 主な競技成績
ロバートソンは1950年代半ばに国際舞台で活躍し、以下のような主要な成績を収めた。
| 大会/年 | 1953 | 1954 | 1955 | 1956 |
|---|---|---|---|---|
| オリンピック | 2位 | |||
| 世界選手権 | 4位 | 5位 | 2位 | 2位 |
| 北米選手権 | 3位 | |||
| 全米選手権 | 2位 | 3位 | 2位 |
1956年のコルチナ・ダンペッツォオリンピックでは、男子シングルで銀メダルを獲得した。この大会では、ヘイス・アラン・ジェンキンス、デヴィッド・ジェンキンス兄弟とともにアメリカ勢が表彰台を独占した。彼はこの時、男子フィギュアスケートのオリンピックメダリストとしては最年少の一人であった。
3.2. スケーティング技術と特徴
ロバートソンは、その卓越したスピン能力で最もよく知られていた。彼の高速なフォワードアップライトスピンは「扇風機よりも速い」と評されるほどであり、当時のフィギュアスケート界に大きなインパクトを与えた。彼のスピンは単に速いだけでなく、その正確さと美しさも特筆すべきものであった。
3.3. 競技中の論争
1956年の全米フィギュアスケート選手権において、ロバートソンはヨーロッパツアーでの経費過少申告疑惑により、ドイツフィギュアスケート連盟から告発され、失格寸前の状況に陥った。彼の父親であるアルバート・ロバートソン(海軍建築家)は、この告発がヘイス・アラン・ジェンキンスによる息子の失格を狙ったものであると非難した。アメリカフィギュアスケート連盟との激しい論争の末、ロバートソンは最終的に失格を免れたものの、ヘイス・アラン・ジェンキンスに敗れた。この論争の後、ロバートソンは競技フィギュアスケートから引退した。
4. プロフェッショナルとしてのキャリアと活動
アマチュア競技からの引退後、ロバートソンはプロフェッショナルとしてのキャリアをスタートさせ、その才能を幅広い分野で披露した。
4.1. プロ転向とテレビ出演
1956年の競技引退後、ロバートソンはすぐにプロに転向し、アイス・キャペーズ(Ice Capades英語)と2年間の契約を締結した。この契約は10.00 万 USDという当時としては破格の金額であった。彼はプロスケーターとして、その卓越したスピン技術で観客を魅了し続けた。また、テレビ番組にも積極的に出演し、その人気を不動のものとした。1957年には、アメリカの国民的番組である『エド・サリバン・ショー』(The Ed Sullivan Show英語)に出演し、彼の高速スピンは「扇風機よりも速い」と評された。同年には『ミッキー・マウス・クラブ』(The Mickey Mouse Club英語)にもゲストとして登場し、幅広い層の視聴者にその名を知らしめた。

4.2. コーチとしての活動
フィギュアスケート界を一時離れ、パートナーと共に小さなホテルを経営していたロバートソンは、香港のスケートリンク設計者兼マネージャーであったテッド・ウィルソン(Ted Wilson英語)の説得により、再び氷上に戻り、ゲストコーチとして指導にあたった。彼は元ジュニアチャンピオンの朽木佐枝(朽木佐枝くつき さえ日本語)と共に、10年間にわたり毎年1ヶ月間、香港島のシティプラザ・アイスパレスで指導を行った。この期間、ロバートソンは非常に人気のあるコーチとなり、その優れた技術と親切な人柄で多くの生徒に深い印象を残した。
4.3. その他の活動
プロフェッショナルとしての活動は多岐にわたり、1964年から1965年にかけて開催されたニューヨーク万国博覧会では、ディック・バトン(Dick Button英語)がプロデュースした「アイス・トラバガンザ」(Ice Travaganza英語)ショーのメインアトラクションとして出演した。
5. プライベート
ロナルド・ロバートソンの私生活は、当時の社会的な規範に挑戦するものであった。
5.1. タブ・ハンターとの関係
1950年代、ロバートソンは俳優のタブ・ハンター(Tab Hunter英語)と長期間にわたる関係を持っていた。ハンターはロバートソンのアマチュアキャリアを経済的に支援しており、二人の間には深い個人的な絆があった。この関係は、ハンターの自伝によって後に公にされた。
5.2. セクシュアリティ
ロバートソンはゲイであり、タブ・ハンターとの関係は単なる友人関係を超えたものであった。当時の社会において、同性愛はタブー視されており、公にされることは稀であった。しかし、ハンターの自伝によって、彼らの関係が長年にわたり維持されていた事実が明らかになった。これは、ロバートソンが自身のセクシュアリティを隠しながらも、私生活で真の愛情を育んでいたことを示している。
6. 死去
ロナルド・ロバートソンは2000年2月4日、カリフォルニア州ファウンテンバレーの病院にて、肺炎およびAIDSの合併症により、62歳で死去した。
7. 遺産と評価
ロナルド・ロバートソンは、その革新的なスピン技術と、競技を超えたプロフェッショナルとしての活躍により、フィギュアスケート界に大きな影響を与えた。
7.1. プロ選手権での優勝
アマチュア競技引退後も、ロバートソンはプロの舞台でその実力を証明し続けた。特に、1973年の世界プロフィギュアスケート選手権では優勝を果たし、プロスケーターとしても頂点に立った。彼のスピンは、後進のスケーターたちにも多大な影響を与え、フィギュアスケートの技術進化に貢献した。大衆的な人気も高く、テレビ出演などを通じてフィギュアスケートの魅力を広く一般に伝えた功績も大きい。