1. 概要
ロナルド・ジーン・デービスは、1955年8月6日にアメリカ合衆国テキサス州で生まれた元プロ野球選手(投手)である。右投右打の彼は、MLBで11シーズンにわたり主に救援として活躍し、通算130セーブを記録した。ニューヨーク・ヤンキース、ミネソタ・ツインズ、シカゴ・カブス、ロサンゼルス・ドジャース、サンフランシスコ・ジャイアンツといった名門球団に所属し、特にヤンキース時代にはオールスターゲームに選出されるなど、その投球は多くの野球ファンを魅了した。引退後は、自身の野球経験を活かし、野球指導にも携わった。彼の息子であるアイク・デービスもまたメジャーリーガーとなり、「親子二代のメジャーリーガー」として名を刻んでいる。
2. 生涯とキャリア
ロナルド・ジーン・デービスのプロ野球選手としての生涯と、現役引退までのキャリア全体を時系列に沿って記述する。
2.1. プロ入り前と初期のMLBキャリア
デービスは1955年8月6日、テキサス州ヒューストンで生まれた。身長は193 cmの右投右打の救援投手であった。1976年のMLBドラフトにおいて、シカゴ・カブスから3巡目(全体56位)で指名されプロ入りした。プロ入り後、マイナーリーグ在籍中の1978年にニューヨーク・ヤンキースへトレードで移籍した。
2.2. ニューヨーク・ヤンキース時代 (1978年-1981年)
ニューヨーク・ヤンキースでは、リッチ・ゴセージがチームメイトのクリフ・ジョンソンとの喧嘩で負傷し、長期離脱したことを受けて一時的にクローザーを任された。また、彼はチームのクローザーを支えるセットアッパーとして、中継ぎ専門で起用される投手の先駆けの一人であった。1980年と1981年の2シーズンにわたり、デービスとゴセージは非常に効果的なリリーフコンビを形成し、この救援体制は今日の多くのチームに引き継がれている。
デービスは、1981年5月4日にカリフォルニア・エンゼルス戦で記録した1試合8者連続奪三振のニューヨーク・ヤンキース球団記録を保持している。これは、同球団の救援投手による1試合最多奪三振記録でもある。この記録は、2022年4月22日にマイケル・キングが救援登板で8者連続奪三振を達成し、並ぶこととなった。
2.3. ミネソタ・ツインズ時代 (1982年-1986年)
1982年4月、デービスはグレッグ・ギャニエ、ポール・ボリスと共にミネソタ・ツインズへトレードされ、代わりにロイ・スモーリーがヤンキースに移籍した。ツインズのファンからは「ブームブーム・デービス」というあだ名で呼ばれるようになったが、彼の投球は時に不安定で、ツインズの救援陣の中でも特に「効果の薄い救援投手」の代名詞とされることがあった。しかし、ツインズでの5シーズン中3シーズンでアメリカンリーグのセーブ数上位5位に入るなど、数字の上では一定の成績を残した。
1984年には、単一シーズンにおける最多セーブ失敗(14失敗)のMLB記録に並んだ。この記録は、彼以降のどの投手も更新していない。1986年、ツインズでの最後のシーズンには、4月に2つのセーブを記録したが、これが彼のキャリアにおける最後のセーブとなった。同シーズン、カリフォルニア・エンゼルス戦では、先頭打者に死球を与えた後、満塁にして暴投で同点となる失点を許し、9回裏には本塁打を打たれてサヨナラ負けを喫した。また、ボストン・レッドソックス戦でも9回にセーブ機会で登板したが、2アウトから満塁にした後、押し出しの四球と死球でサヨナラ負けを許してしまった。これらの不振により、デービスはクローザーの役割を失い、シーズン途中でシカゴ・カブスへトレードされた。
2.4. その後のMLBキャリア (1986年-1988年)
シカゴ・カブスへトレードされた後、デービスは残りのキャリアで限られた出場機会しか得られなくなった。1986年途中にカブスへ移籍し、1987年にはロサンゼルス・ドジャース、1988年にはサンフランシスコ・ジャイアンツでプレーしたが、以前のような活躍は見られなかった。
2.5. 日本プロ野球時代 (1989年)
1989年5月、デービスはNPBの東京ヤクルトスワローズに入団し、不振のため解雇されたホアン・アイケルバーガーに代わって抑え役を任された。
NPBでの成績は、阪神タイガース戦では12試合19回2/3を投げ、2勝1敗6セーブ、防御率1.37と好成績を収めた。しかし、他の対戦カードでは24試合37回で2勝4敗1セーブ、防御率5.35と振るわず、結果的にシーズン全体で7セーブしか挙げられなかったため、1年でチームを解雇された。
2.6. 引退とその後
プロ選手としてのキャリアを終えた後、デービスは1990年に短命に終わったシニアプロフェッショナルベースボールアソシエーションのサンシティ・レイズでプレーした。また、同年にはニューヨーク・ヤンキース傘下のAAA級球団であるコロンバス・クリッパーズでもプレーし、これを最後に現役を引退した。
3. プレースタイルと特徴
デービスの投球フォームはサイドスローであり、そこから繰り出される球種は多岐にわたった。主要な球種は、スライダー、フォークボールであった。また、打者の手元で浮き上がるような軌道を描く「ライジング・ファストボール」や、沈むような軌道を描く「シンキング・ファストボール」といった特徴的な速球も持ち合わせていた。
4. 人物・エピソード
4.1. 家族

デービスの息子であるアイク・デービスは、2008年のMLBドラフトでニューヨーク・メッツから1巡目(全体18位)で指名された。アイクが幼い頃、ロナルドは5歳から14歳までの子供たちを対象とした5日間の野球基礎キャンプを運営しており、アイクが14歳になるまでリトルリーグのコーチを務めていた。高校時代には、ロナルドが打撃練習でアイクに投球することもあった。
2010年4月にアイクがメッツでメジャーデビューし、ロナルド・ジーン・デービスとアイク・デービスは、MLB史上197組目の「親子二代のメジャーリーガー」となった。
4.2. その他のエピソード
デービスは銀縁の眼鏡をかけており、その紳士然とした風貌とは裏腹に、1989年の日本プロ野球時代に阪神タイガース戦でチームメイトのラリー・パリッシュが死球を受けて乱闘騒ぎになった際には、ブルペンから応援に駆けつけるなど、熱い一面も持ち合わせていた。
ニューヨーク・ヤンキース時代、1981年のMLBストライキ中に、デービスはカンザスシティのハイアットリージェンシーホテルでウェイターとして働いていた。同年7月18日、そのホテルでハイアットリージェンシーホテル歩道橋崩落事故が発生し、114名が死亡するという悲劇に見舞われた。メディアの報道によると、デービスはこの事故における救助活動に尽力したと伝えられている。この人道的な行動は、彼が単なるスポーツ選手以上の人物であったことを示している。
東京ヤクルトスワローズで1989年に使用した背番号「27」は、根来広光以後、スワローズ(一時期アトムズ)で捕手以外の選手としては唯一の着用例であった。これは、国鉄スワローズ時代の町田行彦(外野手)以来のことであった。デービスが退団した翌年の1990年からは古田敦也がこの背番号を着用し、後に正捕手の「名誉番号」とされ、2022年からは中村悠平が継承している。
5. 詳細情報
詳細情報は、ロナルド・ジーン・デービスの野球キャリアにおける統計的なデータ、特筆すべき記録、および使用した背番号をまとめたものである。
5.1. 年度別投手成績
5.1.1. MLB成績
年度 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 打者 | 投球回 | 被安打 | 被本塁打 | 与四球 | 敬遠 | 与死球 | 奪三振 | 暴投 | ボーク | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1978 | NYY | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 12 | 2.1 | 3 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 11.57 | 2.57 | |
1979 | 44 | 0 | 0 | 0 | 0 | 14 | 2 | 9 | -- | 0.875 | 357 | 85.1 | 84 | 5 | 28 | 9 | 1 | 43 | 1 | 0 | 29 | 27 | 2.85 | 1.31 | ||
1980 | 53 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 3 | 7 | -- | 0.750 | 544 | 131.0 | 121 | 9 | 32 | 3 | 5 | 65 | 5 | 1 | 50 | 43 | 2.95 | 1.17 | ||
1981 | 43 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 5 | 6 | -- | 0.444 | 285 | 73.0 | 47 | 6 | 25 | 3 | 0 | 83 | 1 | 1 | 22 | 22 | 2.71 | 0.99 | ||
1982 | MIN | 63 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 9 | 22 | -- | 0.250 | 458 | 106.0 | 106 | 16 | 47 | 12 | 1 | 89 | 5 | 1 | 53 | 52 | 4.42 | 1.44 | |
1983 | 66 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 8 | 30 | -- | 0.385 | 382 | 89.0 | 89 | 6 | 33 | 3 | 3 | 84 | 4 | 1 | 34 | 33 | 3.34 | 1.37 | ||
1984 | 64 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 11 | 29 | -- | 0.389 | 364 | 83.0 | 79 | 11 | 41 | 9 | 2 | 74 | 8 | 0 | 44 | 42 | 4.55 | 1.45 | ||
1985 | 57 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 6 | 25 | -- | 0.250 | 285 | 64.2 | 55 | 7 | 35 | 6 | 4 | 72 | 8 | 1 | 28 | 25 | 3.48 | 1.39 | ||
1986 | 36 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 6 | 2 | -- | 0.250 | 198 | 38.2 | 55 | 7 | 29 | 8 | 4 | 30 | 4 | 0 | 42 | 39 | 9.08 | 2.17 | ||
CHC | 17 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | 0.000 | 91 | 20.0 | 31 | 3 | 3 | 0 | 0 | 10 | 0 | 1 | 18 | 17 | 7.65 | 1.70 | ||
'86計 | 53 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 8 | 2 | -- | 0.200 | 289 | 58.2 | 86 | 10 | 32 | 8 | 4 | 40 | 4 | 1 | 60 | 56 | 8.59 | 2.01 | ||
1987 | 21 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 144 | 32.1 | 43 | 8 | 12 | 1 | 0 | 31 | 1 | 2 | 23 | 21 | 5.85 | 1.70 | ||
LAD | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 25 | 4.0 | 7 | 0 | 6 | 2 | 1 | 1 | 2 | 0 | 4 | 3 | 6.75 | 3.25 | ||
'87計 | 25 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 169 | 36.1 | 50 | 8 | 18 | 3 | 1 | 32 | 3 | 2 | 27 | 24 | 5.94 | 1.87 | ||
1988 | SF | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | 0.500 | 72 | 17.1 | 15 | 4 | 6 | 0 | 1 | 15 | 0 | 0 | 10 | 9 | 4.67 | 1.21 | |
MLB:11年 | 481 | 0 | 0 | 0 | 0 | 47 | 53 | 130 | 0.470 | 3217 | 746.2 | 735 | 82 | 300 | 56 | 22 | 597 | 39 | 8 | 361 | 336 | 4.05 | 1.39 |
5.1.2. NPB成績
年度 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 打者 | 投球回 | 被安打 | 被本塁打 | 与四球 | 敬遠 | 与死球 | 奪三振 | 暴投 | ボーク | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989 | ヤクルト | 36 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 5 | 7 | -- | 0.444 | 249 | 56.2 | 57 | 3 | 31 | 6 | 4 | 34 | 0 | 1 | 26 | 25 | 3.97 | 1.55 |
NPB:1年 | 36 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 5 | 7 | -- | 0.444 | 249 | 56.2 | 57 | 3 | 31 | 6 | 4 | 34 | 0 | 1 | 26 | 25 | 3.97 | 1.55 |
5.2. 記録
5.2.1. MLB記録
- 初登板:1978年7月29日、対ミネソタ・ツインズ8回戦(ヤンキー・スタジアム)、7回表から2番手で救援登板、0/3回2失点
- 初勝利:1979年5月28日、対ミルウォーキー・ブルワーズ4回戦(ミルウォーキー・カウンティ・スタジアム)、8回裏1死から2番手で救援登板・完了、2回2/3無失点
- 初セーブ:1979年6月20日、対トロント・ブルージェイズ2回戦(ヤンキー・スタジアム)、6回表2死から3番手で救援登板・完了、3回1/3無失点
- MLBオールスターゲーム選出:1回(1981年)
- 1試合8者連続奪三振(1981年5月4日、対カリフォルニア・エンゼルス戦)※ヤンキース球団記録
5.2.2. NPB記録
- 初登板:1989年6月3日、対中日ドラゴンズ7回戦(明治神宮野球場)、6回表無死から3番手で救援登板、2回4失点で敗戦投手
- 初勝利:1989年6月15日、対阪神タイガース10回戦(阪神甲子園球場)、7回裏から2番手で救援登板・完了、3回無失点
- 初セーブ:1989年6月20日、対阪神タイガース11回戦(神宮)、9回表から2番手で救援登板・完了、1回無失点
5.3. 背番号
- 53 (1978年 - 1979年)
- 39 (1979年 - 1981年)
- 34 (1982年)
- 39 (1982年 - 1987年)
- 54 (1987年)
- 33 (1988年)
- 27 (1989年)