1. 概要
中原誠は、1947年9月2日生まれの日本の元将棋棋士で、九段の段位を持ちます。彼は昭和時代(1926年 - 1989年)における最も強力な将棋棋士の一人として知られ、永世棋聖、十六世名人、永世十段、永世王位、名誉王座という5つの永世称号を保持しています。中原は、24歳で大山康晴から名人位を奪取し、その後9連覇を達成するなど、「棋界の若き太陽」として一時代を築きました。通算1308勝は羽生善治、大山康晴、谷川浩司、加藤一二三に次ぐ歴代5位の記録であり、通算タイトル獲得数64期は羽生善治、大山康晴に次ぎ歴代3位の偉業です。
彼の棋風は「自然流」と称され、盤面全体を支配する大局観や、桂馬の巧みな使用が特徴でした。また、「横歩取り中原流」や「中原囲い」など、独創的な戦法の開発にも貢献し、升田幸三賞を受賞しています。2003年から2005年にかけては日本将棋連盟の会長を務め、将棋界の発展に尽力しました。2008年に脳内出血を発症し、大腸がんの診断を受けた後、2009年3月31日に健康上の理由から61歳で現役を引退しましたが、引退後も名誉棋士会長として将棋界への貢献を続けました。
2. 生い立ちと背景
中原誠の将棋の才能は幼少期に開花し、その後のプロ棋士としての輝かしいキャリアを支える基盤となりました。
2.1. 出生と成長
中原誠は1947年9月2日、鳥取県気高郡鹿野町(現鳥取市鹿野町宮方)に生まれました。しかし、生後1か月で宮城県塩竈市へ転居したため、塩竈市を出身地としています。
2.2. 教育と将棋との出会い
中原は塩竈で佐貝正次郎から将棋の基礎を教わり、6枚落ちから丁寧に指導を受けました。その後、仙台の石川孟司の指導も受け、彼を通じて多くの真剣師と対戦し、腕を磨いていきました。1957年9月末、10歳の時に石川の紹介で上京し、高柳敏夫門下に入門。兄弟子には芹沢博文がいました。翌1958年4月に奨励会に6級で入会し、13歳、中学2年で初段に昇段しました。三段時代には山田道美が主催する研究会や芹沢の研究会に加入し、将棋の研鑽を積みました。日本大学桜丘高等学校に在学中は学業との両立に苦悩し、プロ入り直前の「三段から四段への壁」で6期3年間足踏みしましたが、人間的にも苦悩を乗り越え、後の大成につながる経験となりました。
3. プロ棋士としての経歴
中原誠のプロ棋士としてのキャリアは、数々の偉業と名勝負に彩られています。将棋界の頂点に立ち、その後の世代交代期においても重要な役割を果たしました。
3.1. デビューと初期の活躍
1965年10月1日、18歳で桐山清澄を東西決定戦で破り、四段に昇段してプロ入りを果たしました。プロ入り後は、王座戦で3戦目から11連勝を記録し、順位戦でも4年連続で昇級・昇段を重ね、最速でA級八段となりました。
1967年度後期、第11期棋聖戦で山田道美八段にタイトル初挑戦しましたが、フルセットの末に敗退しました。これは加藤一二三と並ぶ当時の最年少挑戦記録となりました。しかし半年後の1968年度前期の第12期棋聖戦では、升田幸三九段、二上達也八段、大山康晴名人(当時の四冠保持者)といった強豪を連破し、山田に再挑戦。3勝1敗で勝利し、自身初のタイトルとなる棋聖位を獲得しました。20歳でのタイトル獲得は、当時大山が持っていた27歳での最年少タイトル獲得記録を更新する快挙でした。その後、大山、山田を相手に2期防衛し、棋聖3連覇を達成しましたが、3度目の防衛戦で内藤國雄に敗れ、一度無冠となります。
3.2. 全盛期(1970年代-1980年代)
1970年度、十段戦で大山康晴を4勝2敗で下し、大山の五冠独占の一角を崩しました。さらに、直後の後期の第17期棋聖戦でも大山をストレートで破り、初の二冠を達成。続く1971年度前期の第18期棋聖戦で大山を相手に防衛に成功し、通算5期目の棋聖位獲得により「永世棋聖」の資格を得て、当時最年少の永世称号保持者となりました(2024年現在歴代3位の年少記録)。この時期は、タイトルホルダーが大山と中原の2名のみという二強時代でした。
1971年度、A級2年目の第26期順位戦でA級順位戦史上初めて全勝し、名人挑戦権を獲得。1972年の名人戦七番勝負(中原4-大山3)で大山と激闘を繰り広げ、フルセットの末に勝利し、将棋界の頂点である名人位に初めて就きました。この年度は、中原が初めて三冠王となるとともに、大山を無冠に転落させました。
3.3. ライバルとの対決と過渡期
1973年度からは、大山康晴より若い世代の棋士である米長邦雄、加藤一二三、内藤國雄らとの戦いが主となりました。特に米長とはタイトル戦で数々の死闘を演じました。
1973年、第14期王位戦(中原4-内藤0)で内藤國雄から王位を奪い、初の四冠王となりました。しかし、直後の十段戦で大山に奪還されます。翌1974年度には十段を奪還し、四冠に返り咲きました。以降、中原と大山はそれぞれのタイトルを防衛し続け、1974年度から1977年度途中まで、中原が名人・十段・王位・王将の四冠を保持し、大山が棋聖を保持するという構図が続きました。
大内延介と戦った1975年の名人戦(中原4-大内3、持1)では、一時2勝3敗と角番に追い込まれるも、第7局で大内の悪手に助けられ持将棋に持ち込み、薄氷の逆転防衛を果たしました。翌1976年の第35期名人戦(中原4-米長3)でも防衛に成功し、名人5連覇を達成して「十六世名人」の資格を得ました。
1977年度後期の第31期棋聖戦(中原3-大山2)で大山からフルセットの末、棋聖を奪取し、大山に次いで史上2人目の五冠王となりました。残るタイトルは棋王のみとなり、この年度、第3期棋王戦(中原0-加藤3)で加藤一二三に挑戦しましたが、ストレートで敗れ、全六冠制覇はなりませんでした。
その後は中原の相対的な不調と、米長・加藤の充実もあり、彼らとのタイトル戦での対戦は五分に近い成績となり、タイトル数は漸減しました。加藤一二三と対戦した1982年度(第40期)名人戦では、持将棋・千日手を合わせて俗に「十番勝負」と呼ばれた名勝負となりましたが、3勝4敗で名人位を明け渡し、名人連覇は9期で終わりました。
3.4. 晩年の経歴と引退
1980年代半ばごろからは、谷川浩司や55年組の高橋道雄、中村修、南芳一、塚田泰明らとのタイトル戦での勝負が主となり、保持するタイトル数は三冠ないしは無冠となっていきました。
1985年度、第43期名人戦(中原4-谷川2)で、前々期に史上最年少名人となっていた谷川から名人位を奪取して復位。翌1986年の第44期名人戦では大山が挑戦者の名乗りを挙げましたが、中原が防衛(中原4-大山1)。二人がタイトル戦の舞台で顔を合わせたのは、これが最後となりました。
1987年度、第35期王座戦(中原2-塚田3)で王座を塚田泰明に奪われ、名人のみの一冠となります。さらには、翌年度(1988年度)、第46期名人戦(中原2-谷川4)で谷川に名人を奪われ、無冠の「前名人」となりました。しかし、同年度の第36期王座戦(中原3-塚田0)で塚田から王座を奪還し、後期/第53期棋聖戦(中原3-田中2)では弟弟子である田中寅彦から棋聖を奪い、二冠に復帰しました。
1990年度、第48期名人戦(中原4-谷川2)で名人を谷川から奪還し、2度目の復位を達成するとともに三冠となります。しかし、前期/第56期棋聖戦(中原2-屋敷3)で屋敷伸之に棋聖位を奪われ、史上最年少タイトル記録達成を許しました。さらに第38期王座戦(中原1-谷川3)では谷川に敗れ、名人位のみの一冠となります。
1992年度、第50期名人戦(中原4-高橋3)では高橋道雄の挑戦を受けましたが、出だしで1勝3敗を喫してしまいます。当時までは名人戦では3連勝で逆転した例はありませんでしたが、そのジンクスを破って防衛しました。しかしながら、得意であるはずの矢倉戦となった第1・2・4局ですべて負けたことは話題となりました。
1993年、第51期名人戦(中原0-米長4)は、米長邦雄と6度目の名人戦となりましたが、ストレート負けで初めて米長に名人位を明け渡し、史上最年長名人の記録達成を許すとともに、虎の子の一冠であった名人位を失いました。同年度の王将戦では挑戦者となりますが、谷川の前に敗れます(中原2-谷川4)。これが、中原にとって最後のタイトル戦登場となりました。
1994年のNHK杯戦で、米長との決勝を制して優勝。これが、最後の公式棋戦優勝でした(非公式棋戦では、達人戦において2001年 - 2002年の連続優勝を含め、4度優勝しています)。
2000年度のA級順位戦は、2勝7敗の成績で陥落が決定。これにより永世名人資格保持者がA級から陥落するという史上初の事態となりました(後に谷川浩司、森内俊之、羽生善治が記録)。A級陥落後はB級1組で2期だけ指した後、フリークラス宣言をし、フリークラスに転出しました。永世名人資格者がB級1組やフリークラスで指すのも前例がないことでしたが、その後も2000年度の竜王戦1組優勝、2003年度の竜王戦挑戦者決定三番勝負進出、2004年の王位リーグ入り、2007年の棋聖戦での挑戦者決定トーナメント進出など、各棋戦の上位に顔を出すことがしばしばありました。
中原と羽生善治のタイトル戦の番勝負はついに実現しませんでした。無冠となった後の1994年度前期の第64期棋聖戦では、谷川浩司との挑戦者決定戦に敗れ、羽生棋聖への挑戦権を逃しました。同年度の第53期順位戦では7勝2敗の1位タイとなるも、森下卓とのプレーオフに敗れ、羽生名人への挑戦権を逃しました。1996年度の第22期棋王戦では、挑戦者決定二番勝負で森下卓に敗れ、羽生棋王への挑戦権を逃しました。また、森内俊之と戦った2003年度竜王戦決定三番勝負にも1勝2敗で敗れました。結果として、これが羽生とのタイトル戦を実現する最後のチャンスでした。なお、一般棋戦の決勝で羽生と当たったのは、1988年度のNHK杯戦のみです(羽生が名人経験者全4名を破って優勝し、話題となりました)。
2008年8月12日、王将戦二次予選準決勝で、A級八段の木村一基に勝った後の感想戦の最中に身体に異変を起こし、病院に緊急搬送されました。脳内出血と診断され、即入院となりました。その後、2009年3月31日まで休場することが発表されました。
棋戦復帰を目指してリハビリを続けていましたが回復が思わしくなく、将棋に関わる活動ができないと判断し、同日をもっての引退届を日本将棋連盟に提出。連盟理事会はこれを受理したことを、2009年3月11日に発表しました。2016年5月30日付『日本経済新聞』「私の履歴書」によると、入院中に大腸がんが見つかり、治療に専念するために引退を決断したとされています。発表当日、記者会見が行われ、左の手足に不自由を抱え、右手に杖を持って姿を現した中原は、元気そうに淡々とした口調で「43年という長い期間、タイトル戦など多くの勝負の舞台を踏ませていただき、十分に勝負を堪能した。その点で悔いはない」と述べました。ただし、「悔いがあるとすれば(挑戦を逃した2003年の)竜王戦挑戦者決定戦。羽生さんと一度タイトル戦を戦ってみたかった」ともコメントしています。
休場中ではありましたが、竜王戦1組在籍のままでの引退でした。引退後の活動について、「棋戦の解説、評論活動を行っていきたい」としていました。日本将棋連盟は、多年にわたる中原誠の将棋への功績を評価し、2009年4月1日から70歳の誕生日を迎える2017年まで『名誉棋士会長』を委嘱しましたが、2011年4月11日に辞退するまで務めました。また、2009年より、JR武蔵新城駅そばの「新城子供将棋教室」において、弟子の佐藤秀司と共に不定期にタイトル戦の大盤解説会を開いています。
4. 棋風と理論的貢献
中原誠の棋風は、その独創性と深い読みで将棋界に大きな影響を与え、数々の理論的貢献も行いました。
4.1. 棋風の概要
中原誠の全盛期の棋風は、本格派の居飛車党で、「自然流」と称されました。原田泰夫は「攻めるべき時に攻め、受けるべき時に受ける、まるで大河の流れるような自然な指し回し」と評しています。玉の堅さよりも盤面全体の支配を重視する独特の大局観が特徴で、入玉も得意としていました。また、「桂使いの名手」と言われるほど桂馬の使い方が巧みであり、中原の勝局には桂の好手が現れることが多いです。
対振り飛車戦の玉頭位取りに代表されるように、理想形を目指し、それを阻止しに来たところを咎める教科書通りの勝ち方が多かったとされます。大山戦での「振り飛車破り」、大内戦での「穴熊破り」、内藤戦での「対空中戦法」と、相手の得意戦法を次々と打ち破りました。
4.2. 独創的な戦法開発
1982年度の名人戦で失冠して以降、中原の棋風は変化を見せ、中原流相掛かり、横歩取り中原流、中原流急戦矢倉などの独創的な戦法を編み出しました。
1992年度の高橋道雄との第50期名人戦において、得意であるはずの矢倉戦で苦戦して失冠しかけた頃からは、前述の相掛かり、横歩取り中原流、短期間ながら名人戦にも採用した中原飛車、後手矢倉における中原流急戦矢倉、対振飛車における6五歩戦法などを用いて勝率を保ちました。
1996年には、中原流相掛かり、横歩取り中原流、そして特に角打ちを防ぐための囲いとして横歩取り戦でよく用いられる「中原囲い」の開発により、升田幸三賞を受賞しています。中原囲いは、横歩取り戦で頻繁に用いられる囲いの一種で、飛車打ちを防ぐための戦術です。
名人戦では大悪手を2回指したこともありますが(第31期名人戦第3局対大山戦での▲8五金の見落とし、第48期名人戦第2局対谷川戦の△2五桂打はタダで取られるのをうっかりした)、第37期名人戦第4局では米長を相手に▲5七銀という歴史的妙手を指して勝利を収めています。
引退前の数年間は「形勢楽観派」の代表的棋士とされ、対戦相手や控え室の棋士たちほとんどが「互角または中原不利」と考えている局面でも、局後の感想では「あの局面では自分が良かったと思う」と語ることが多かったとされています。
5. 主要タイトルと記録
中原誠は、将棋界における数々のタイトル獲得と記録を打ち立て、そのキャリアを通じて輝かしい成績を収めました。
5.1. 永世称号と主要タイトル
中原誠は、十六世名人、永世十段、永世王位、名誉王座、永世棋聖という5つの永世称号を保持しています。これは、いずれも引退前から名乗ることを許された特例でした。
1994年4月1日には、当時の肩書きであった「前名人」を失う際、特例で「永世十段」を名乗ることが認められました。
2007年9月2日、還暦を迎えたことにより、規定により「名誉王座」も名乗りました。
2007年11月17日(将棋の日)、永世名人資格を取得して30年が経過したのを機に、また、森内俊之が十八世名人の資格を得たことや引退の期日(規定による)をあと数年に控えていることもあり、理事会が十六世名人襲位を提案し本人が了承。前倒しで現役のまま襲位しました。2008年4月1日、60歳となってからの新しい年度を迎えた際には新たに「永世棋聖」「永世王位」を名乗ることとなりました。永世王位を名乗る棋士は中原が初めてです。
中原誠が獲得した主要タイトルは以下の通りです。
タイトル | 獲得年度 | 登場 | 獲得期数 | 連覇 | 永世称号(備考) |
---|---|---|---|---|---|
竜王 | - | 0 | - | - | |
名人 | 1972-1981, 1985-1987, | 18回 | 15期 | 9連覇 | 十六世名人 |
王位 | 1973-1978, 1980-1981 | 11回 | 8期 | 6連覇 | 永世王位 |
王座 | 1983-1986, 1988-1989 | 8回 | 6期 | 4連覇 | 名誉王座 |
棋王 | 1979 | 3回 | 1期 | - | |
王将 | 1972-1977, 1984 | 13回 | 7期 | 6連覇 | |
棋聖 | 1968前後-1969前, | 23回 | 16期 | 5連覇 | 永世棋聖 |
旧タイトル | 獲得年度 | 登場 | 獲得期数 | 連覇 | 永世称号(備考) |
十段 | 1970-1972, 1974-1979, | 15回 | 11期 | 6連覇 | 永世十段 |
登場回数合計91回、獲得合計64期(歴代3位)、7タイトル生涯グランドスラム達成(旧十段戦含む) |
5.2. その他の棋戦優勝と将棋大賞
中原誠は主要タイトル以外に28回の一般棋戦優勝を達成しており、これは歴代3位の記録です。
- 王座戦(一般棋戦時代) - 10回(1969-1974・1976-1979年度)
- NHK杯 - 6回(1974・1977・1982・1987・1992・1994回年度)
- 早指し将棋選手権 - 3回(1972後期・1973後期・1985年度)
- 日本シリーズ - 1回(1981年度)
- オールスター勝ち抜き戦(5勝以上) - 3回(1984・1987-1988回年度)
- 将棋連盟杯争奪戦 - 1回(第3回)
- 古豪新鋭戦 - 1回(第11回)
- 最強者決定戦 - 1回(第11回)
- 名将戦 - 2回(第1・2期)
将棋大賞では、最優秀棋士賞を5回受賞しています。また、先述の通り「中原流横歩取り」や「中原囲い」などの独創的な戦法を編み出したことにより、升田幸三賞を1回受賞しています。
5.3. 全体的な成績統計
中原誠のプロ棋士としての通算成績は、対局数2093(タイトル戦の持将棋3局を含む)、1308勝782敗、勝率0.6258です。引退時点での1308勝は史上2位の成績でした。
5.3.1. クラス在籍履歴(順位戦・竜王戦)
中原誠の順位戦と竜王戦における在籍クラスの年別一覧は以下の通りです。
開始 年度 | 順位戦 | 竜王戦 | |||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
期 | 名人 | A級 | B級 | C級 | 期 | 竜王 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 5組 | 6組 | 決勝 | ||||||||
1組 | 2組 | 1組 | 2組 | ||||||||||||||||||
1965 | 20 | 四段昇段前 | |||||||||||||||||||
1966 | 21 | C2 | 11 | 12-0 | |||||||||||||||||
1967 | 22 | C1 | 11 | 11-1 | |||||||||||||||||
1968 | 23 | B2 | 13 | 11-1 | |||||||||||||||||
1969 | 24 | B1 | 14 | 10-3 | |||||||||||||||||
1970 | 25 | A | 10 | 4-4 | |||||||||||||||||
1971 | 26 | A | 06 | 8-0 | 挑戦 | ||||||||||||||||
1972 | 27 | 名人 | |||||||||||||||||||
1973 | 28 | 名人 | |||||||||||||||||||
1974 | 29 | 名人 | |||||||||||||||||||
1975 | 30 | 名人 | |||||||||||||||||||
0 | # | 順位戦の31-35期は回次欠番/第30期の翌期は36期 | |||||||||||||||||||
1976 | 36 | 名人 | |||||||||||||||||||
1978 | 37 | 名人 | |||||||||||||||||||
1979 | 38 | 名人 | |||||||||||||||||||
1980 | 39 | 名人 | |||||||||||||||||||
1981 | 40 | 名人 | |||||||||||||||||||
1982 | 41 | A | 01 | 7-2 | |||||||||||||||||
1983 | 42 | A | 02 | 5-4 | |||||||||||||||||
1984 | 43 | A | 05 | 6-2 | |||||||||||||||||
1985 | 44 | 名人 | |||||||||||||||||||
1986 | 45 | 名人 | 棋戦創設前 | ||||||||||||||||||
1987 | 46 | 名人 | 1 | 1組 | 決勝T | 2-2 | |||||||||||||||
1988 | 47 | A | 01 | 5-4 | 2 | 1組 | 4-0 | 0-1 | |||||||||||||
1989 | 48 | A | 05 | 6-3 | 3 | 1組 | 3-1 | 0-1 | |||||||||||||
1990 | 49 | 名人 | 4 | 1組 | 1-2 | ||||||||||||||||
1991 | 50 | 名人 | 5 | 1組 | 3-1 | 0-1 | |||||||||||||||
1992 | 51 | 名人 | 6 | 1組 | 2-2 | ||||||||||||||||
1993 | 52 | A | 01 | 6-3 | 7 | 1組 | 1-2 | ||||||||||||||
1994 | 53 | A | 03 | 7-2 | 8 | 1組 | 4-0 | 1-1 | |||||||||||||
1995 | 54 | A | 02 | 4-5 | 9 | 1組 | 1-3 | ||||||||||||||
1996 | 55 | A | 06 | 4-5 | 10 | 2組 | 1-2 | ||||||||||||||
1997 | 56 | A | 06 | 5-4 | 11 | 2組 | 2-2 | ||||||||||||||
1998 | 57 | A | 05 | 2-6 | 12 | 2組 | 4-1 | ||||||||||||||
1999 | 58 | A | 08 | 2-7 | 13 | 優勝 | 1組 | 4-0 | 0-1 | ||||||||||||
2000 | 59 | B1 | 02 | 6-6 | 14 | 1組 | 2-2 | ||||||||||||||
2001 | 60 | B1 | 07 | 4-8 | 15 | 1組 | 0-3 | ||||||||||||||
2002 | 61 | フリークラス宣言 | 16 | 2組 | 3-1 | 3-2 | |||||||||||||||
2003 | 62 | フリークラス宣言 | 17 | 1組 | 2-2 | ||||||||||||||||
2004 | 63 | フリークラス宣言 | 18 | 1組 | 1-2 | ||||||||||||||||
2005 | 64 | フリークラス宣言 | 19 | 1組 | 2-2 | ||||||||||||||||
2006 | 65 | フリークラス宣言 | 20 | 1組 | 3-1 | 0-1 | |||||||||||||||
2007 | 66 | フリークラス宣言 | 21 | 1組 | 2-2 | ||||||||||||||||
2008 | 67 | フリークラス宣言 | 22 | 1組 | 休場 | ||||||||||||||||
0 | # | 2009年3月31日付で引退 | 22 | 2009年3月31日付で引退 |
順位戦、竜王戦の枠表記は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。
順位戦の右数字はクラス内順位 (当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 )
順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。
竜王戦の太字はランキング戦優勝、竜王戦の組(添字)は棋士以外の枠での出場。
5.3.2. 年度別成績統計
中原誠の年度別の公式棋戦成績は以下の通りです。
年度 | 対局数 | 勝数 | 負数 | 勝率 | 持将棋 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1965 | 9 | 7 | 2 | 0.778 | ||
1966 | 39 | 32 | 7 | 0.821 | ||
1967 | 55 | 47 | 8 | 0.855 | ||
1968 | 55 | 43 | 12 | 0.782 | ||
1969 | 50 | 35 | 15 | 0.700 | ||
小計 | 283 | 220 | 63 | |||
年度 | 対局数 | 勝数 | 負数 | 勝率 | 持将棋 | |
1971 | 54 | 40 | 14 | 0.741 | ||
1972 | 51 | 37 | 14 | 0.725 | ||
1973 | 43 | 31 | 12 | 0.721 | ||
1974 | 66 | 47 | 19 | 0.712 | ||
1975 | 53 | 34 | 18 | 0.654 | 1 | |
1976 | 53 | 33 | 20 | 0.623 | ||
1977 | 54 | 35 | 19 | 0.648 | ||
累計 | 657 | 477 | 179 | 1 | ||
1978 | 30 | 23 | 7 | |||
累計 | 687 | 500 | 186 | 0.729 | 1 | |
1978 | 0.000 | |||||
1979 | 0.000 | |||||
1980 | 0.000 | 1 | ||||
小計 | 2 | |||||
累計 | 2 | |||||
年度 | 対局数 | 勝数 | 負数 | 勝率 | 持将棋 | |
1981 | 59 | 38 | 21 | 0.644 | ||
1982 | 82 | 52 | 29 | 0.634 | 1 | |
1983 | 65 | 42 | 23 | 0.646 | ||
1984 | 62 | 38 | 24 | 0.612 | ||
1985 | 59 | 37 | 22 | 0.627 | ||
1986 | 0.000 | |||||
1987 | 0.000 | |||||
1988 | 0.000 | |||||
1989 | 0.000 | |||||
1990 | 52 | 27 | 25 | 0.519 | ||
小計 | 1 | |||||
累計 | 1452 | 980 | 469 | 3 | ||
年度 | 対局数 | 勝数 | 負数 | 勝率 | 持将棋 | |
1991 | 44 | 26 | 18 | 0.591 | ||
1992 | 50 | 28 | 22 | 0.560 | ||
1993 | 53 | 29 | 24 | 0.547 | ||
1994 | 53 | 31 | 22 | 0.584 | ||
1995 | 44 | 24 | 20 | 0.545 | ||
1996 | 52 | 33 | 19 | 0.635 | ||
1997 | 43 | 21 | 22 | 0.488 | ||
1998 | 39 | 21 | 18 | 0.538 | ||
1999 | 43 | 20 | 23 | 0.465 | ||
2000 | 48 | 26 | 22 | 0.5416 | ||
小計 | 469 | 259 | 210 | |||
累計 | 1921 | 1239 | 679 | 3 | ||
年度 | 対局数 | 勝数 | 負数 | 勝率 | 持将棋 | |
2001 | 37 | 12 | 25 | 0.3243 | ||
2002 | 18 | 6 | 12 | 0.3333 | ||
2003 | 28 | 14 | 14 | 0.5000 | ||
2004 | 21 | 8 | 13 | 0.3809 | ||
2005 | 20 | 9 | 11 | 0.4500 | ||
2006 | 18 | 7 | 11 | 0.3889 | ||
2007 | 19 | 8 | 11 | 0.4211 | ||
2008 | 11 | 5 | 6 | 0.4545 | ||
小計 | 172 | 69 | 103 | |||
通算 |
5.4. 主要記録と節目
中原誠は、将棋キャリアにおいて数多くの主要な記録と節目を打ち立てました。
- 棋聖位在位 - 16期(大山康晴・羽生善治と並び、歴代1位タイ)
- 棋聖戦トーナメント16強以上 - 71期(第8期と第9期、および第11期から第79期までの69期連続が該当)
- 年度最高勝率 - 0.855(47勝8敗)(1967年度)
- 四段昇段から永世称号資格取得までの最速記録 - 5年10か月
- 最年少実力制永世名人資格獲得 - 28歳9か月
- 順位戦A級全勝 - 1971年(この年は休場者がいたため8戦。他に森内俊之、羽生善治、渡辺明が9戦全勝を達成している)
- 年度勝率7割超 - 10年連続
- 大山康晴以来史上2人目の1300勝達成(2007年9月27日)
5.5. 主な対戦相手との勝敗
中原誠と主要なライバル棋士との対戦成績は以下の通りです。
対戦相手 | 対局 | 勝 | 敗 | タイトル戦 |
---|---|---|---|---|
塚田正夫 | 4 | 4 | 0 | |
升田幸三 | 12 | 9 | 3 | |
大山康晴 | 162 | 107 | 55 | 獲得16 敗退4 |
二上達也 | 42 | 29 | 13 | 獲得2 敗退1 |
山田道美 | 22 | 15 | 7 | 獲得2 敗退1 |
加藤一二三 | 109 | 67 | 41 | 獲得5 敗退4 |
有吉道夫 | 58 | 41 | 17 | 獲得3 敗退1 |
内藤國雄 | 71 | 47 | 24 | 獲得4 敗退2 |
米長邦雄 | 187 | 106 | 80 | 獲得14 敗退6 |
大内延介 | 43 | 28 | 14 | 獲得1 敗退0 |
桐山清澄 | 51 | 34 | 17 | 獲得3 敗退0 |
勝浦修 | 35 | 26 | 9 | 獲得1 敗退0 |
森安秀光 | 38 | 22 | 16 | 獲得1 敗退1 |
森雞二 | 42 | 30 | 12 | 獲得2 敗退0 |
淡路仁茂 | 13 | 11 | 2 | 獲得1 敗退0 |
青野照市 | 36 | 27 | 9 | 獲得1 敗退0 |
田中寅彦 | 23 | 12 | 11 | 獲得1 敗退0 |
谷川浩司 | 98 | 42 | 56 | 獲得3 敗退3 |
高橋道雄 | 45 | 30 | 15 | 獲得1 敗退0 |
中村修 | 30 | 15 | 15 | 獲得0 敗退2 |
島朗 | 32 | 16 | 16 | |
南芳一 | 26 | 12 | 14 | 獲得1 敗退0 |
塚田泰明 | 32 | 21 | 11 | 獲得1 敗退1 |
森下卓 | 30 | 13 | 17 | |
羽生善治 | 29 | 10 | 19 | |
佐藤康光 | 29 | 12 | 17 | |
森内俊之 | 35 | 17 | 18 | |
屋敷伸之 | 21 | 11 | 10 | 獲得1 敗退1 |
丸山忠久 | 22 | 7 | 15 | |
郷田真隆 | 31 | 6 | 25 | |
渡辺明 | 4 | 1 | 3 |
※加藤、米長、大内との対局数は、タイトル戦での持将棋各1局ずつ含みます。
※米長との187対局は、同一カード対局数の歴代1位記録です。
5.6. 日本将棋連盟表彰
中原誠が日本将棋連盟から受けた表彰は以下の通りです。
勝数表彰
- 1979年12月12日 - 通算500勝達成
- 1981年10月9日 - 通算600勝達成(将棋栄誉賞)
- 1986年9月2日 - 通算800勝達成(将棋栄誉敢闘賞)
- 1992年1月10日 - 通算1000勝達成(特別将棋栄誉賞 = 史上3人目)
- 1995年6月29日 - 通算1100勝達成(史上3人目)
- 1999年6月29日 - 通算1200勝達成(特別将棋栄誉賞 = 史上2人目)
- 2007年9月27日 - 通算1300勝達成(史上2人目)
対局数表彰
- 2004年2月16日 - 通算2000対局達成(史上3人目、通算1269勝728敗〈勝率0.635〉持将棋3)
- 2004年2月16日(第52期王座戦 対中川大輔戦)
現役勤続表彰
- 1990年11月17日 - 現役勤続25年
- 2005年11月 - 現役勤続40年
6. 将棋界におけるリーダーシップと貢献
中原誠は、プロ棋士としての輝かしい実績に加え、将棋界の組織運営においてもリーダーシップを発揮し、その発展に多大な貢献をしました。
6.1. 日本将棋連盟会長職
中原誠は、二上達也の後を受けて2003年5月より日本将棋連盟会長に就任しました。在任期間は1期のみで、2005年5月に会長職を米長邦雄に譲り、自身は副会長に就任しました。2007年5月の棋士総会において理事選挙に出馬せず、理事・副会長職を退任しました。
6.2. 名誉棋士会長職
引退後の2009年4月1日から70歳の誕生日を迎える2017年まで『名誉棋士会長』に委嘱されました。これは多年にわたる将棋界への功績が評価されたものです。その後、2011年4月11日に辞退するまでこの職を務めました。引退後も、JR武蔵新城駅そばの「新城子供将棋教室」において、弟子の佐藤秀司と共に不定期にタイトル戦の大盤解説会を開くなど、将棋の普及に尽力しています。
7. 人物・エピソード
中原誠の個性は、その将棋と同様に多面的であり、いくつかのエピソードを通じて彼の人間性や外部との関わりが垣間見えます。
7.1. 性格と趣味
中原は四段から六段の時代、そのあまりの強さから「鉄腕アトム」の愛称で呼ばれていました。彼は非常に負けず嫌いな性格で、素人相手に指す時でも決して手加減をしないと言われています。また、田中角栄が自民党総裁に出馬した際、「五五角」と扇子に揮毫して贈ったことがあります。親友の棋士池田修一が肺結核で長期離脱していた際には、当時先にプロ棋士になっていた中原が、入院中の池田の生活費を毎月支援していたという心温まるエピソードも残されています。
彼の趣味は囲碁と音楽鑑賞(クラシック音楽)、メジャーリーグテレビ観戦です。囲碁については2016年現在も将棋連盟の囲碁部に籍を置いており、2019年1月にはアマ六段の免状を贈呈されました。クラシック音楽はプロ入り間もない頃に名曲喫茶に入り浸って以来の趣味で、将棋ファンであった山本直純とも交流があり、駒音コンサートで指揮棒を振ったこともあります。詰将棋創作も得意で、名人に就位している間も自作の詰将棋を雑誌に寄稿していました(中学の時に出題した9手詰めは、塚田正夫が詰ませなかったほどです)。
少年時代の愛称は「マコロン」で、当時使っていた眼鏡が仙台銘菓「まころん」に似て、丸いものだったことに由来するとも言われています。大盤解説での口癖は「驚いたね」が知られ、予想に反して意外な手を指した時に発するのですが、それは「好手」であるより「悪手」であることが多かったとされます。
7.2. 公開された論争
1994年から1998年の間に、元女流棋士の林葉直子の自宅の留守番電話に、「今から突入しまーす」「お前みたいなのは早く死んじまえ! エイズにでも何でも早くかかっちゃえばいいんだよ!」といった中原本人の肉声が録音されたテープが1998年にテレビのワイドショーなどで公開されました。中原は自宅の庭で記者会見に応じ、事実関係を認めました。
7.3. 弟子
中原誠には、将棋を学びプロ棋士や女流棋士となった弟子がいます。
棋士となった弟子
名前 | 四段昇段日 | 段位、主な活躍 |
---|---|---|
小倉久史 | 1988年10月1日 | 八段 |
佐藤秀司 | 1990年10月1日 | 八段、一般棋戦優勝1回 |
高野秀行 | 1998年4月1日 | 六段 |
熊坂学 | 2002年4月1日 | 六段 |
(2023年4月1日現在)
女流棋士となった弟子
名前 | 女流プロ入り日 | 段位、主な活躍 |
---|---|---|
甲斐智美 | 1997年4月1日 | 女流五段、女王1期、女流王位4期、倉敷藤花2期、一般棋戦優勝2回、A級在籍2期 |
(2023年7月3日現在)
8. 昇段履歴
中原誠の将棋奨励会入会から引退までの、プロ棋士としての段位昇進の経緯を時系列で記述します。
- 1958年 : 6級(奨励会入会)
- 1961年 : 初段
- 1965年10月1日 : 四段(関東奨励会三段優勝、東西決戦で桐山清澄に勝利)=プロ入り
- 1967年4月1日 : 五段(順位戦C級1組昇級)
- 1968年4月1日 : 六段(順位戦B級2組昇級)
- 1969年4月1日 : 七段(順位戦B級1組昇級)
- 1970年4月1日 : 八段(順位戦A級昇級)
- 1973年11月3日 : 九段(九段昇段規定30点)
- 2009年3月31日 : 引退
9. 著書
十六世名人でかつ日本将棋連盟会長であったこともあり、中原誠の著書は非常に多岐にわたります。入門書も多く執筆されており、将棋の普及にも貢献しました。以下にその一部を挙げます。
- 『決断の一手!』日本将棋連盟、2008年7月
- 『将棋脳-これであなたの脳はよみがえる』サンマーク出版、2006年10月
- 『実践型詰め将棋 三手・五手・七手詰め』日東書院、2006年8月
- 『中原誠の解いてごらんよ詰将棋』フローラル出版、2001年12月
- 『自然流中原誠の実践名勝負』東京書店、1999年10月
- 『自然流 中原誠の振飛車破り』東京書店、1999年5月
- 『横歩取り中原流-必殺陣第二弾!』日本将棋連盟、1995年4月
- 『中原流振り飛車破り』池田書店、1994年11月
- 『中原流急戦将棋』池田書店、1994年7月
- 『中原流相がかり-必殺の5九金型』、日本将棋連盟、1994年3月
- 『居飛車穴熊 3度将棋が強くなる』大泉書店、1987年10月
- 『急戦腰掛銀 3度将棋が強くなる』大泉書店、1987年8月
- 『中原誠自然流名人戦激闘譜』、池田書店、1987年4月
- 『急戦矢倉 3度将棋が強くなる』大泉書店、1987年2月
- 『必殺美濃破り 3度将棋が強くなる』大泉書店、1986年8月
- 『必殺穴熊破り 3度将棋が強くなる』大泉書店、1986年2月
- 『中原の必勝やぐら中飛車』池田書店、1985年8月
- 『矢倉戦 3度将棋が強くなる』大泉書店、1985年4月
- 『棒銀戦 3度将棋が強くなる』大泉書店、1985年2月
- 『ひねり飛車 3度将棋が強くなる』大泉書店、1984年12月
- 『中原の必勝左美濃-対四間飛車』、池田書店、1984年11月
- 『中飛車 3度将棋が強くなる』大泉書店、1984年8月
- 『中原攻めの実戦集-大山十五世名人との対振飛車戦15局』永岡書店、1984年5月
- 『四間飛車 3度将棋が強くなる』大泉書店、1984年1月
- 『中原のやぐら教室』池田書店、1983年11月
- 『矢倉戦法II』筑摩書房、1983年6月
- 『矢倉戦法I』筑摩書房、1983年3月
- 『中原の四間飛車で勝つ』 池田書店、1982年2月
- 『中原の中飛車教室』 池田書店、1980年10月
- 『中原の駒別次の一手《歩・香・桂》』 池田書店、1978年4月
- 『中原の寄せと詰め』池田書店、1977年3月
10. その他の表彰等
中原誠は将棋関連の功績だけでなく、社会的な貢献や功労を認められ、国や地方自治体からも様々な表彰を受けています。
- 1972年 第1回川崎市文化賞
- 1985年 塩竈市民栄誉賞
- 2004年 鳥取県鹿野町名誉町民
- 2008年 紫綬褒章受章