1. Overview
中垣内祐一は、1967年11月2日生まれの日本の元プロバレーボール選手であり、指導者です。選手時代は「スーパーエース」として男子バレーボール日本代表を牽引し、1990年代を代表する選手として活躍しました。現役引退後はクラブチームの監督を経て、男子日本代表監督を務めるなど、指導者としても日本のバレーボール界に貢献しました。そのキャリアを通じて、公私にわたる様々な論争や出来事に直面しながらも、多岐にわたる活動を展開し、現在は米農家や大学教授としても新たな道を歩んでいます。
2. 来歴
中垣内祐一の生涯における経歴を時系列に沿って記述します。
2.1. 幼少期と教育
中垣内祐一は福井県福井市で生まれました。中学生のときにバレーボールを始め、福井県立藤島高等学校に進学しました。高校時代は全国大会出場には至らなかったものの、バレーボール選手としての才能の萌芽を見せました。1986年に筑波大学体育専門学群に入学すると、その才能は大きく開花します。大学1年生からレギュラーとして活躍し、在学中の1989年には早くも全日本代表に初選出され、同年開催のバレーボールワールドカップに初出場を果たしました。
2.2. 選手時代
プロバレーボール選手としてのキャリアをデビューから引退まで詳細に記述します。
2.2.1. クラブチーム
大学を卒業した1990年に新日鐵(現在の堺ブレイザーズ)に入部しました。ルーキーイヤーから目覚ましい活躍を見せ、第24回日本リーグでは最高殊勲選手賞、猛打賞、新人賞、ベスト6など数々の個人賞を総なめにしました。その後も90年代の男子バレーボールを代表する「スーパーエース」として、その強烈なスパイクでチームを牽引し、多くのタイトル獲得に貢献しました。2004年に現役を引退しました。
2.2.2. 日本代表
1989年に全日本代表に初選出されて以来、国際舞台でも活躍しました。1992年にはバルセロナオリンピックに出場し、チームは6位という成績を収めました。また、1994年には全日本男子バレーボールチームの主将を務め、アジア競技大会では金メダル獲得に貢献しました。1998年FIVBバレーボール世界選手権にも出場しましたが、チームは16位という結果に終わりました。2000年にシドニーオリンピック出場を逃したことを機に、全日本代表を退きました。
2.3. 指導者時代
バレーボール指導者としてのキャリアをクラブチームから日本代表チームまで説明します。
2.3.1. クラブチームでの指導
現役引退後すぐに、古巣である堺ブレイザーズの監督に就任しました。2005年から2006年シーズンにかけては、Vリーグでチームを優勝に導き、指導者としての手腕を発揮しました。2009年5月に監督を辞任し、チームアドバイザーに就任しました。同年夏からは日本オリンピック委員会(JOC)のスポーツ指導者海外研修員として2年間海外に派遣され、国際的な指導経験を積みました。2011年4月から2013年1月まで、諸隈直樹と共に男子日本代表のコーチを務めました。その後、約3年間は堺の経営母体である当時の新日鉄住金で社業に専念し、鋼矢板などの建材営業を担当するなど、異分野での経験も積みました。2016年には堺ブレイザーズの部長に就任しました。
2.3.2. 日本代表監督として
2016年10月25日、日本バレーボール協会理事会での多数決により、男子日本代表監督に選出されました。この就任会見では、過去の自身の不倫について謝罪を行いました。監督就任後、2017年アジア選手権ではチームを優勝に導きました。2019年ワールドカップではチームを4位に導くなど、着実に強化を進めました。2020年東京オリンピック(2021年開催)では男子日本代表を率いて7位という成績を残しました。しかし、2017年には監督就任直後に発生した交通事故の問題により、一時的に対外的な活動を控えることになり、フィリップ・ブランコーチが監督代行を務めることになりました。この期間中、中垣内はチームに合流後も「総監督」的な立場に徹し、実質的な指揮権と選手の起用はブランコーチに委ねる形を取りました。2021年アジア選手権で準優勝した後、同年9月に監督を退任し、後任にはブランが昇格しました。
2.4. 監督退任後の活動
男子日本代表監督を退任した後も、中垣内祐一は多岐にわたる活動を展開しました。監督退任後、一時的に古巣の堺ブレイザーズの部長に復帰し、1シーズンを務めました。2022年6月30日付で堺ブレイザーズを退団すると発表し、新たな人生への挑戦を示唆しました。退団後は福井県へ帰郷し、実家を継いで専業の米農家として農業に従事しました。また、地元に戻ったことを知った学校法人金井学園からの誘いを受け、2022年10月1日付で福井工業大学スポーツ健康科学部の教授に就任しました。同時に、同大学および系列の福井工業大学附属福井高等学校などの中学校・高等学校のバレーボール部の総監督も兼任しています。2024年現在、平日は大学で授業や論文指導、系列校での実技指導を行い、休日は農業を営む兼業農家として活動しています。さらに、SVリーグのシーズン開幕からは、古巣である日本製鉄堺ブレイザーズの一部の試合でコーチ登録としてベンチ入りしています。
3. 所属チーム
中垣内祐一の選手および指導者としての所属チームは以下の通りです。
3.1. 選手
- 福井県立藤島高等学校
 - 筑波大学
 - 新日鐵・堺ブレイザーズ(1990年 - 2004年)
 
3.2. 指導者
- 堺ブレイザーズ
- 監督(2005年 - 2009年)
 - アドバイザー(2009年 - 2012年)
 
 - 男子日本代表
- コーチ(2011年 - 2013年)
 
 - 堺ブレイザーズ
- 部長(2016年 - 2017年)
 
 - 男子日本代表
- 監督(2017年 - 2021年)
 
 - 堺ブレイザーズ
- 部長(2021年 - 2022年)
 
 - 金井学園
- 総監督(2022年 - 現在)
 
 - 堺ブレイザーズ(SVリーグ コーチ登録)
 
4. 論争・不祥事
中垣内祐一は、日本代表監督就任前後にいくつかの論争や不祥事に関与しました。これらの出来事は、公的な立場にある人物の責任と倫理が問われる重要な局面となりました。
2016年10月25日に男子日本代表監督に選出された際、就任会見において、過去の自身の不倫に関する週刊誌報道に触れ、「協会に多大なご迷惑をかけて...」と謝罪しました。これは、監督という要職に就くにあたり、過去の私的な問題についても公に説明責任を果たす姿勢が求められた一例です。
さらに、監督就任直後の2016年11月9日には、堺ブレイザーズ部長として新入団内定選手の自宅へ向かう途中、広島県庄原市の中国自動車道下り線で、工事規制中の男性警備員を車で撥ねる交通事故を起こしました。中垣内は警察に対し、車のブレーキとアクセルを踏み間違えたと説明し、事故の謝罪と経緯説明を行いました。この事故を受け、日本バレーボール協会は同年12月13日に中垣内に対して譴責処分を発表しました。
事故の影響により、2017年5月11日、日本バレーボール協会は中垣内の対外的な活動を当面控えることを決定し、フィリップ・ブランコーチが監督代行を務めることになりました。この措置は、事件の法的な決着を待つ間、チーム運営の安定を図るためのものでした。同年5月22日、大阪簡易裁判所から罰金7.00 万 JPYの略式命令を受けました。その後、6月8日には全日本監督に復帰しましたが、復帰後は実質的な指揮権や選手の起用はブランコーチに委ねられ、中垣内自身は「総監督」という立場に徹し、チームのまとめ役を務めることとなりました。この期間は、監督の責任と権限のあり方が改めて問われる形となりました。
5. 人物・エピソード
中垣内祐一は、その類まれなバレーボールの才能と端正なルックスで多くの人々に知られています。
- 愛称**: 名字に由来する「ガイチ」のニックネームで広く親しまれています。
 - ルックスと活動**: そのルックスの良さから、本業のバレーボール以外にもモデルやタレント活動を行うなど、幅広い分野で活躍しました。
 - 身体能力**: 選手時代の最高到達点は346 cmに達し、全盛期には1m以上もの高いジャンプ力があったと伝えられています。
 - 有名な知人**: 筑波大学時代の同級生には、後にサッカー界で活躍する井原正巳や中山雅史、バスケットボールの金子寛治など、各界の著名なアスリートがいました。
 - 現在の活動**: 引退後、特に男子日本代表監督退任後には、実家を継いで米農家への転身という異色のキャリアチェンジを果たしました。さらに、福井工業大学の教授に就任し、教育者およびバレーボール部の総監督としても活動しており、その多様な人生経験は多くの人々に影響を与えています。
 
6. 受賞歴
中垣内祐一は、選手および指導者として数多くの栄誉と賞を獲得し、その功績は日本のバレーボール史に深く刻まれています。
6.1. 選手としての受賞歴
- 1990年 - 第24回日本リーグ:最高殊勲選手賞、猛打賞、新人賞、ベスト6
 - 1990年アジア競技大会:
3位(銅メダル)
 - 1991年 - 第25回日本リーグ:敢闘賞、猛打賞、ベスト6
 - 1992年 - 第26回日本リーグ:猛打賞、ベスト6
 - 1992年バルセロナオリンピック:6位
 - 1993年 - 第27回日本リーグ:ベスト6
 - 1994年アジア競技大会:
優勝(金メダル)
 - 1994年 - 第1回Vリーグ:敢闘賞、ベスト6
 - 1995年 - 第2回Vリーグ:敢闘賞、ベスト6
 - 1996年 - 第3回Vリーグ:最高殊勲選手賞、ベスト6
 - 1997年 - 第4回Vリーグ:最高殊勲選手賞、ベスト6
 - 1998年FIVBバレーボール世界選手権:16位
 - 1999年 - 第6回Vリーグ:ベスト6
 - 2007年 - Vリーグ栄誉賞(優勝貢献、個人記録)
 
6.2. 指導者としての受賞歴
- 2005年 - 2006年Vリーグ:優勝(堺ブレイザーズ監督として)
 - 2017年アジア選手権:
優勝
 - 2017年FIVBバレーボールワールドリーグ:14位
 - 2017年FIVBバレーボール男子ワールドグランドチャンピオンズカップ:6位
 - 2018年FIVBバレーボールネーションズリーグ:12位
 - 2018年FIVBバレーボール世界選手権:17位
 - 2018年アジアカップ:
3位(銅メダル)
 - 2018年アジア競技大会:5位
 - 2019年FIVBバレーボールネーションズリーグ:10位
 - 2019年アジア選手権:
3位(銅メダル)
 - 2019年FIVBバレーボールワールドカップ:4位
 - 2021年FIVBバレーボールネーションズリーグ:11位
 - 2020年東京オリンピック(2021年開催):7位
 - 2021年アジア選手権:
準優勝(銀メダル)
 
7. 著書
中垣内祐一は、自身のバレーボール経験や指導哲学に関する複数の書籍を執筆しています。
- 『ガイチ主義』(1994年)
 - 『スポーツの知と技 - トップ・アスリートへの軌跡』(1998年共著)
 - 『中垣内祐一のファンダメンタルバレーボール』(2004年)
 
8. 解説者として
中垣内祐一は、現役選手時代から引退後にかけて、バレーボールのテレビ解説者としても活動しています。
現役中から春高バレーの解説を務めるなど、その知識と経験を視聴者に伝えてきました。引退後も、2003年ワールドカップ男子大会の解説を担当するなど、主要な大会で活躍しています。多くの試合で、全日本代表の先輩である川合俊一とコンビを組み、その的確な分析と分かりやすい解説で人気を博しました。解説業の他にも、テレビ番組の会場リポーターを務めるなど、多方面でメディアに登場しています。
9. 評価と影響
中垣内祐一は、選手そして指導者として、日本のバレーボール界に計り知れない影響を与えてきました。
選手時代には「スーパーエース」として、その突出した攻撃力とリーダーシップでチームを牽引し、多くの若い選手たちの憧れの的となりました。彼のプレースタイルは、日本のバレーボールの攻撃力を高める上で重要な役割を果たしました。また、国際大会での経験を通じて、日本バレーボールが世界と戦う上での課題と可能性を示しました。
指導者としては、クラブチームでリーグ優勝を果たすなど、その手腕を発揮しました。男子日本代表監督としては、東京オリンピックでの7位入賞など、チームの国際競争力向上に貢献しました。しかし、監督就任会見での不倫に対する謝罪や、その後の交通事故とそれに伴う職務制限は、公的な立場にある人物の倫理的な責任と、組織の対応のあり方について社会に大きな問いを投げかけました。特に交通事故の件では、日本バレーボール協会が一時的に監督代行を置くという異例の措置を取り、最終的に監督に復帰しながらも実質的な指揮をブランコーチに委ねる形となったことは、リーダーシップの形について深く考察されるきっかけとなりました。
これらの出来事を通じて、中垣内祐一のキャリアは、スポーツ界における人間性と信頼性の重要性を浮き彫りにしました。それにもかかわらず、彼は監督退任後も、米農家や大学教授、そしてSVリーグのコーチ登録といった多岐にわたる活動を通じて、社会貢献とバレーボール界への関わりを続けています。この多様なキャリアパスは、アスリートが引退後に社会に与える影響の新たな可能性を示唆しており、彼の人間的な魅力と適応能力の高さを示すものとして評価されています。彼は単なるスポーツ選手や指導者にとどまらず、社会的な責任を負いながらも、新たな挑戦を続ける姿が、後進の模範となり、日本のバレーボール、ひいては社会全体に前向きな影響を与え続けています。