1. 概要
日本の仏教運動家でありマルクス主義者であった妹尾義郎(妹尾 義郎せのお ぎろう日本語、1889年12月16日 - 1961年8月4日)は、仏教の教えに基づき「私有なき共同社会」を提唱し、資本主義を厳しく批判して社会変革を追求した人物である。彼の思想は、資本主義が人々を苦しめる(ドゥッカ)根源であると喝破し、現世における精神的・社会経済的解放(解放かいほう日本語)としての「浄仏国土」(浄仏国土じょうぶっこくど日本語)の建設を目指した。妹尾は、既存の仏教宗団が仏教本来の精神を冒涜していると批判し、新しい時代精神に即した仏教の実現を求めた。戦時下では反戦・反ファシズム活動により弾圧を受け投獄されたが、戦後は平和運動や社会運動に尽力し、晩年には日本共産党に入党するなど、その生涯を通じて社会的弱者の救済と民主主義の発展に貢献した。彼の活動は、日本の近代仏教運動において、社会変革と人権擁護の視点から重要な足跡を残した。
2. 生涯
妹尾義郎の生涯は、病との闘い、宗教的覚醒、そして社会変革への情熱に満ちたものであった。
2.1. 出生と家族
妹尾義郎は1889年12月16日、広島県比婆郡東城町(現庄原市)に生まれた。生家は造り酒屋を営んでおり、代々浄土真宗の信仰を持つ家庭であったが、必ずしも熱心な法華信者ではなかった。
2.2. 病と学業
妹尾は学業の途中で肺病を患い、旧制一高を休学せざるを得なくなった。この病気は彼を文字通り死の淵にまで追いやるほどの重篤なものであり、21歳から30歳までの約10年間、健康状態は極めて不安定であった。しかし、この病が彼の人生の大きな転換点となり、後の思想形成に深く影響を与えることとなる。
2.3. 宗教的覚醒と改宗
幼少期から浄土真宗の環境で育った妹尾であったが、旧制一高休学中に縁ができた熱心な法華経信者の豆腐商の勧めにより、法華経に深く親しむようになった。この出会いをきっかけに、彼は日蓮仏教の教えに深く傾倒していく。妹尾自身は、肺病からの回復を日蓮の異なる思想によってもたらされた運命と捉え、それ以来、日蓮の哲学を唯一の真理として受け入れたと述べている。20年以上にわたり、彼は睡眠を忘れるほど熱心に日蓮仏教の研究と普及に尽力した。この過程で、彼は既存の宗教組織そのものに疑問を抱き、ついにはそれに反対する立場を取るようになった。
3. 初期活動と組織
妹尾義郎は、自身の宗教的覚醒を社会活動へと昇華させ、仏教運動家として初期の重要な組織を立ち上げた。
3.1. 国粋会と日蓮主義
1918年、妹尾は本多日生が主宰する法華団体である統一団に参加した。この統一団は、田中智學が創設した国粋会という日蓮仏教系の在俗運動と関連が深く、初期の妹尾は国粋主義的な日蓮主義運動に関与していた。彼は「大日本日蓮主義青年団」の機関誌の編集責任者を務め、日蓮の教えを右翼的に再解釈した思想の普及に努めた。
3.2. 大日本日蓮主義青年団の組織
翌1919年には、統一団の青年信者を中心に「大日本日蓮主義青年団」を組織した。この団体は機関誌を発行し、妹尾自身も各地で精力的に講演活動を行うなど、初期の組織者として活発に活動した。青年団活動を通じて、妹尾は次第に小作争議や労働争議といった社会問題に関わるようになり、社会変革の必要性を強く訴えるようになった。約10年後には、「無我」の思想に影響を受け、仏教社会主義という理想へとその方向性を転換させていった。
4. 思想と哲学
妹尾義郎の思想は、仏教の教えを社会問題の解決に応用しようとする、革新的なものであった。
4.1. 仏教社会主義と資本主義批判
妹尾は、仏教の立場から「私有なき共同社会」の実現を提唱し、資本主義を厳しく批判した。彼は、資本主義体制が「ドゥッカ」(苦しみ)を生み出す根源であり、仏教の精神に反すると主張した。この思想は、単に精神的な救済に留まらず、社会経済的な構造そのものが苦しみを生み出しているという認識に基づいていた。
4.2. 現世における仏国土建設と社会的解放
妹尾は、精神的な超越だけでなく、実存的な物質的条件としての苦しみを分析し、排除する必要があると説いた。彼は、新しい仏教社会主義の理想を通じて、この世界に「浄仏国土」(浄仏国土じょうぶっこくど日本語)を建設することを信じた。これは、私たちの精神的解放だけでなく、社会経済的解放(解放かいほう日本語)をもたらすものとされた。
4.3. 既存宗団に対する批判的立場
妹尾は、既存の仏教宗団が仏教本来の精神を冒涜しており、単なる形骸化した「死体」に過ぎないと見なした。彼はこれらの宗団を排撃し、新しい時代精神に即した仏教を追求すべきだと主張した。この批判は、精神性の重要性を否定する正統派マルクス主義者と、日本帝国主義を支持する親戦的な仏教徒の双方に対するものであった。
5. 新興仏教青年同盟
妹尾義郎が主導した「新興仏教青年同盟」は、彼の仏教社会主義思想を具体的に社会運動へと展開するための主要な組織となった。
5.1. 結成と初代委員長
1931年、妹尾の主導のもと、大日本日蓮主義青年団は超宗派の「新興仏教青年同盟」(通称:新興仏青)へと発展的に解消された。同年4月5日に開催された結成大会において、妹尾は初代委員長に選出された。
5.2. 綱領と社会運動
新興仏教青年同盟の綱領は以下の三つの原則に基づいていた。
- 釈迦の教えに示された最高の人間性に基づき、友愛の精神に従って、この世界に仏国土を実現することを決意する。
- 既存の全ての宗派は、仏教の精神を冒涜しており、単なる「死体」として存在していると認識する。これらの形態を排撃し、新しい時代精神に即した仏教を向上させることを誓う。
- 現在の資本主義経済組織が仏教の精神と矛盾し、一般大衆の社会福祉を阻害していると認識する。より自然な社会を実現するために、このシステムを革正(革正かくせい日本語)することを決意する。
この綱領のもと、同盟は機関誌『新興仏教』を発行し、毎年全国大会を開催した。彼らは労働運動、消費組合運動、反戦運動、反ファシズム運動に積極的に参加した。また、国家主義、軍国主義、「皇道仏教」、そして日本帝国主義に反対し、国際主義、仏教エキュメニズム、反資本主義を推進した。
6. 弾圧と投獄
戦時下の日本において、妹尾義郎は彼の社会変革を求める活動ゆえに、国家からの厳しい弾圧と法的試練に直面した。
6.1. 逮捕と起訴
妹尾は、その反戦・反ファシズム活動により、特別高等警察の監視対象となり、1936年2月に最初の検挙を受けた。彼は約1ヶ月後に釈放されたものの、同年12月7日には再び検挙され、治安維持法違反の容疑で起訴された。この逮捕は、彼が国家に対する反逆罪に問われたことを意味した。
6.2. 収監と釈放
妹尾は厳しい取り調べを受け、1937年には5ヶ月間の尋問の末、自身の「罪」を自白し、天皇への忠誠を誓ったとされる。その後、1940年12月に入獄し服役した。しかし、1942年には釈放され、獄中生活を終えた。
7. 戦後活動
第二次世界大戦後、妹尾義郎は社会運動家としての情熱を再燃させ、平和と社会変革のための活動に尽力した。
7.1. 社会・平和運動
戦後、妹尾は「仏教社会同盟」の委員長を務め、また「平和推進国民会議」の議長として平和運動を主導した。さらに、「日中友好協会」東京都連会長を務めるなど、国際的な平和と友好の促進にも貢献した。
7.2. 日本共産党への入党
1959年、妹尾は日本共産党へ入党した。これは、彼が長年追求してきた社会変革の理想を、戦後の政治状況の中で実現するための新たな選択であったと考えられている。彼の入党は、仏教とマルクス主義の融合を体現する彼の思想的遍歴の最終的な到達点の一つと見なすことができる。
8. 著作
妹尾義郎は、その思想と活動を多くの著作として残した。主要なものには以下のものがある。
- 『光を慕ひて』中央出版社、1925年
- 『社会変革途上の新興仏教』仏旗社 新興仏教パンフレツト、1933年
- 『妹尾義郎日記』1, 2, 7巻 妹尾鉄太郎、稲垣真美共編、国書刊行会、1974年 - 1975年
- 『妹尾義郎宗教論集』稲垣真美編、大蔵出版、1975年
9. 死去
妹尾義郎は1961年8月4日、長野県の自宅で71歳で死去した。
10. 影響と評価
妹尾義郎の思想と活動は、日本の近代仏教運動において特異な位置を占める。彼は仏教の教えを単なる精神修養に留めず、資本主義社会がもたらす構造的な苦しみと対峙し、具体的な社会変革を通じて「浄仏国土」の実現を目指した。既存の宗派や国家権力に批判的な姿勢を貫き、反戦・反ファシズム、労働運動、消費組合運動など、多岐にわたる社会運動に身を投じたことは、彼の社会的弱者への深い共感と民主主義への強い信念を示すものである。特に、仏教とマルクス主義を融合させた「仏教社会主義」という独自の思想は、当時の日本の思想界に大きな影響を与え、戦後の平和運動や社会運動にもその精神が受け継がれた。彼の生涯は、仏教者が社会の不正に対し積極的に関与し、人権と社会正義のために闘うことの可能性を示したものであり、その先駆的な役割は今日においても高く評価されている。