1. 概要

安倍寛(あべ かん)は、1894年から1946年まで活動した日本の政治家です。彼は衆議院議員を2期務め、特に十五年戦争中から第二次世界大戦にかけての軍国主義的な時代において、一貫して反戦・平和主義の立場を貫き、民主主義と議会政治の擁護に尽力しました。
安倍寛は、山口県の大津郡日置村(現在の長門市)で生まれ、東京帝国大学法学部を卒業後、実業家としての活動を経て政界入りしました。彼は大政翼賛会の推薦を得ずに翼賛選挙で当選を果たし、東條英機内閣の退陣を求めるなど、時の軍部政府に正面から異議を唱えました。その清廉潔白な人柄と信念を貫く姿勢から、地元では「大津聖人」や「今松陰」と称され、広く尊敬を集めました。
彼の政治活動は、戦時中の厳しい言論統制下においても、平和への強い願いと国民主権の尊重を訴え続けた点で特筆されます。戦後初の総選挙への準備中に急逝しましたが、彼の反戦・平和主義の精神と民主主義擁護への貢献は、後の日本政治に大きな影響を与え、その系譜は長男である安倍晋太郎元外務大臣、そして孫である安倍晋三元内閣総理大臣へと受け継がれていきました。
2. 生涯
安倍寛は、1894年4月29日に山口県大津郡日置村蔵小田(現在の長門市油谷蔵小田渡場)に生まれました。
2.1. 生い立ちと家族
安倍寛は、父の安倍彪助(あべ ひょうすけ、またはとらのすけとも)と母のタメの長男として生まれました。安倍家は日置の地で代々続く地主であり、酒や醤油の醸造業を営む地元の名家でした。江戸時代には名主(なぬし、村の長)を務めていました。
しかし、寛が4歳になるまでに両親が相次いで亡くなったため、彼は伯母のヨシに引き取られ、その手で育てられました。父の彪助は、大津郡内で名門として知られる椋木(むくのき)家からの婿養子であり、母のタメは安倍家の中興の祖とされる安倍慎太郎の妹にあたります。
2.2. 学歴と初期の活動
寛は山口県立萩中学校、金沢の旧制第四高等学校を経て、1921年(大正10年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業しました。
帝大卒業後、彼は東京で自転車製造会社「三平商会」を経営していましたが、1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって工場が壊滅し、会社は倒産しました。東京に移住後、本堂静子と結婚し、長男の安倍晋太郎をもうけましたが、その後離婚し、以降は独身で暮らしました。
学生時代に結核を患い、それにより脊椎カリエスを併発するなど、健康面では恵まれていませんでした。会社倒産後は山口県に戻り、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙では「金権腐敗打破」を掲げ、立憲政友会公認で山口県一区から立候補しましたが、落選しました。
その後、1933年(昭和8年)に地元住民の強い要請を受け、日置村長に就任しました。さらに1935年(昭和10年)からは山口県会議員も兼務し、1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙では、「厳正中立」を唱える無所属候補として山口県一区から立候補し、衆議院議員に初当選を果たしました。この頃から彼は、故郷の先人である吉田松陰にちなみ、「今松陰」(いましょういん)あるいは「昭和の松陰」と称されるようになりました。また、材木商として、2020年に閉校した下関市立角島小学校の旧校舎建設にも携わりましたが、材木商は彼の本業ではありませんでした。
2.3. 衆議院議員としての活動
安倍寛は衆議院議員として通算2期を務め、その間、商工省委員や外務省委員などを務めました。
2.3.1. 軍部政治への抵抗と反戦活動
柳条湖事件から太平洋戦争終結までの十五年戦争が続く中、彼は一貫して非戦・平和主義の立場を貫きました。1938年(昭和13年)の第一次近衛声明には公然と反対の意を表明しました。
1942年(昭和17年)に行われた第21回衆議院議員総選挙、いわゆる「翼賛選挙」に際しても、彼は東條英機ら軍部主導の政府による軍国主義を鋭く批判しました。大政翼賛会の推薦を受けずに立候補するという非常に不利な状況下にあったにもかかわらず、最下位ではありながらも2期連続となる当選を果たしました。これは、当時の軍部政府による言論統制と選挙干渉に抗して、国民の支持を得た彼の強い意志と人柄を示すものでした。
議員在職中、安倍寛は後の内閣総理大臣となる三木武夫と共同で国政研究会を創設しました。また、塩野季彦を中心とする木曜会にも参加し、そこでは東条内閣の退陣要求、戦争反対、そして早期の戦争終結などを強く主張しました。彼の東条内閣を打倒し、第二次世界大戦を終わらせようとする努力は、三木武夫の支援を受けて行われました。
3. 人物像
安倍寛は、その健康状態や人柄、そして親交のあった政治家との関係において、多くの特徴的な側面を持っていました。
若い頃に脊椎カリエスや肺結核を患い、健康的には恵まれませんでした。しかし、その不屈の精神は政治活動に影響を与えました。
彼は大政党の金権腐敗を糾弾するなど、清廉潔白な人格者として知られ、地元山口県では「大津聖人」(おおつせいじん)や「今松陰」などと呼ばれ、地元住民からの人気が高かったと言われています。寛の長男である安倍晋太郎と娘との結婚話が持ち上がった際、当時の岸信介は「大津聖人の息子なら心配ない」と述べた逸話が残っています。
農林大臣を務めた赤城宗徳とは衆議院議員として同期であり、公私にわたって深い親交がありました。また、三木武夫(第66代内閣総理大臣)とは生涯を通じての親友でした。彼は一度、派遣軍慰問のため満州に派遣されたこともあります。
4. 死没
安倍寛は、1946年(昭和21年)1月30日に心臓麻痺で急逝しました。彼はこの時、同年4月に予定されていた戦後初の第22回衆議院議員総選挙に向け、日本進歩党に所属して準備を進めていました。彼の突然の死は、政治家としての再起を期していた矢先での出来事でした。
5. 家族・親族

安倍寛は、日本の政治に多大な影響を与えた系譜の礎を築きました。
- 祖父: 安倍英任
- 父: 安倍彪助(1895年没)
- 母: タメ(1898年没)
- 伯父: 安倍慎太郎(政治家)
- 伯母: ヨシ(1947年7月没)
- 妻: 静子(陸軍軍医監本堂恒次郎の長女、陸軍大将大島義昌の孫娘。後に離婚)
- 長男: 安倍晋太郎(新聞記者、政治家、後に外務大臣などを歴任)
- 孫: 安倍寛信(ABコミュニケーション代表取締役)
- 孫: 安倍晋三(政治家、第90・96・97・98代内閣総理大臣)
- 孫: 岸信夫(政治家、岸家へ養子、後に防衛大臣などを歴任)
- 曾孫: 寛人(三菱商事2017年入社、寛信の長男)
- 曾孫: 岸信千世(フジテレビ報道局記者 → 国務大臣秘書官、信夫の長男)
5.1. 系譜
安倍寛を中心とした家族の系譜は以下の通りです。
- 岸家**
- 岸要蔵
- 岸信政
- (娘)良子 - 岸信政と結婚
- 岸信介(佐藤秀助の養子) - 洋子と結婚
- 岸信和
- 洋子 - 安倍晋太郎と結婚
- 岸信政
- 岸要蔵
- 安倍家**
- 安倍英任
- ヨシ(安倍英任の娘、安倍寛の伯母)
- 安倍慎太郎(安倍英任の息子、政治家)
- タメ(安倍英任の娘) - 安倍彪助(婿養子)と結婚
- 安倍寛(タメと安倍彪助の長男) - 静子と結婚
- 安倍晋太郎(安倍寛の長男) - 洋子と結婚
- 安倍寛信(安倍晋太郎と洋子の長男) - 幸子と結婚
- 安倍寛人(安倍寛信と幸子の長男)
- 安倍晋三(安倍晋太郎と洋子の次男) - 昭恵と結婚
- 岸信夫(安倍晋太郎と洋子の三男、岸信介の養子) - 岸千景と結婚
- 岸信千世(岸信夫と岸千景の長男)
- 安倍寛信(安倍晋太郎と洋子の長男) - 幸子と結婚
- 西村正雄(静子と西村謙三の息子、安倍寛の妻静子の連れ子)
- 安倍晋太郎(安倍寛の長男) - 洋子と結婚
- 安倍寛(タメと安倍彪助の長男) - 静子と結婚
- 安倍英任
- 本堂家・大島家**
- 大島義昌 - 秀子と結婚
- 本堂恒次郎(秀子と大島義昌の息子、陸軍軍医監) - 静子(本堂恒次郎の娘)と結婚
- 大島義昌 - 秀子と結婚
6. 評価と影響
安倍寛は、太平洋戦争へと向かう日本の軍国主義が台頭する時代において、反戦・平和主義の立場を貫いた稀有な政治家として歴史にその名を刻んでいます。彼は大政翼賛会に属さず、翼賛選挙において東條英機内閣への批判を公然と展開しながら当選を果たすという、極めて困難な偉業を成し遂げました。このことは、彼が単なる政治家ではなく、深い信念と民衆の信頼を得た大衆政治家であったことを示しています。
彼の政治活動は、当時の言論統制と戦争遂行の風潮に逆らい、議会政治の意義と国民の自由な意思表示の重要性を命がけで訴え続けたものでした。三木武夫らと共に東條内閣の退陣を要求したことは、軍部の暴走を止め、戦争を終結させるための勇気ある行動であり、彼の民主主義擁護への強い貢献を物語っています。
安倍寛の清廉潔白な人柄と地域からの厚い信頼は、「大津聖人」や「今松陰」といった異名にも表れており、彼が権力や金銭に左右されない、国民のための政治を追求した姿勢がうかがえます。彼の死は、戦後日本の再建期における貴重な平和主義者の喪失でありましたが、その反戦の精神と民主主義的価値観は、彼の血筋を引く後の政治家たち、特に長男安倍晋太郎や孫の安倍晋三、岸信夫といった面々に何らかの形で影響を与え続けています。
現代の視点から見ても、安倍寛が戦時下で示した平和への強い意志と政治家としての責任感は、民主主義の価値と平和国家日本のあり方を考える上で重要な遺産となっています。彼は、権力に屈することなく、自身の信念に基づいて行動することの模範を示し、その影響は現代の日本の政治思想にも深く根ざしていると言えるでしょう。