1. 概要
杉山力裕は、静岡県静岡市に生まれ、幼少期に経験した家庭の困難を乗り越えながらサッカーの道を歩んだ元プロサッカー選手である。プロ入り後は川崎フロンターレ、清水エスパルス、アビスパ福岡といった主要なJリーグクラブでゴールキーパーとして活躍し、そのキャリアを通じて度重なる怪我やレギュラー争いといった課題に直面しながらも、常にチームへの貢献を目指し、粘り強くプレーを続けた。本記事では、彼の選手としての足跡だけでなく、そのキャリアが持つ人間的な側面、すなわち逆境に立ち向かう姿勢や、チーム内での役割の変化に適応しようと努めた軌跡にも焦点を当てて記述する。
2. 幼少期およびユースキャリア
杉山力裕はプロサッカー選手になる以前から、自身の成長とサッカーの技術向上に励んだ。
2.1. 幼少期と学業
杉山力裕は1987年5月1日に静岡県静岡市で生まれた。彼の名前は両親の名前から一文字ずつ取って命名されたものである。しかし、3歳の時に父親が逝去し、以降は母親によって育てられた。小学生時代は麻機サッカースポーツ少年団に所属し、地元の清水エスパルスに所属していたシジマール・アントニオ・マルチンスに憧れていたと語っている。彼はシジマールのポスターを自宅に貼り、髪型まで真似るほど熱中していた。その後、キューズフットボールクラブでの活動を経て、2003年に静岡学園高等学校に入学した。
2.2. ユースクラブキャリア
静岡学園高等学校ではサッカー部に所属し、選手として技術を磨いた。高校3年時にはチームの主将を務めるなど、そのリーダーシップも発揮した。
3. クラブキャリア
杉山力裕は、複数のJリーグクラブでプロサッカー選手として活躍した。各クラブでの彼のキャリアは、挑戦と適応の連続であった。
3.1. 川崎フロンターレ
2005年に川崎フロンターレへ入団した杉山は、入団から数年間は控えゴールキーパーとしての日々を過ごした。しかし、2009年9月3日のJリーグカップ準決勝横浜F・マリノス戦で、正ゴールキーパーの川島永嗣が日本代表の遠征で不在だったことを受け、初の公式戦出場を果たした。
2010年11月14日の鹿島アントラーズ戦では、相澤貴志の負傷を受けて途中出場し、これがリーグ戦初出場となった。しかし、交代直後に失点しチームは敗戦、ほろ苦いデビューとなった。2011年には自身初の開幕スタメンを掴んだものの、4月29日の名古屋グランパス戦で右手中指を骨折し、全治8週間の診断を受け離脱した。その間に相澤にポジションを奪われたが、チームが夏場に8連敗を喫し急失速した際に再び先発に起用されるようになり、以降はゴールを守り続け、自己最多の13試合に出場した。相澤が退団した2012年には背番号を「1」に変更したが、開幕スタメンは移籍加入したベテランの西部洋平に譲り、さらに練習中に左ハムストリングの肉離れを起こし、2年連続での離脱を経験した。2013年、2014年シーズンも、西部からスタメンの座を完全に奪いきることはできなかった。
3.2. 清水エスパルス
2015年シーズン、杉山は清水エスパルスへ完全移籍した。開幕戦では櫛引政敏にスタメンの座を譲ったものの、その後のスタメン争いを制し、2ndステージでは第1節を除く全ての試合でスタメン出場を果たし、キャリアハイとなる24試合に出場した。しかし、2016年に清水がJ2に降格した後も、杉山はチームに残留し20試合にスタメン出場したものの、8月以降は植草裕樹に正ゴールキーパーのポジションを奪われ、11月3日の京都戦では後半からの途中出場に留まった。
3.3. アビスパ福岡
2017年シーズンにアビスパ福岡へ完全移籍した杉山は、6月3日のカマタマーレ讃岐戦で負傷し、約2ヶ月間の休養を強いられた。しかし、復帰後は主力ゴールキーパーとしてJ1昇格プレーオフ2試合を含む32試合に出場した。2018年にはセレッソ大阪から期限付き移籍してきた圍謙太朗の台頭もあり、リーグ戦での出場は16試合に減少した。さらに2019年には、新加入のジョン・アンデル・セランテスに完全に正ゴールキーパーの座を奪われ、出場は11月24日のJ2最終戦のみに留まった。
2020年も福岡との契約を延長したが、セランテスに加えてレノファ山口FCから村上昌謙が加入し、ゴールキーパー陣の競争が激化。杉山はベンチ入りすら厳しい状況となり、8月15日の松本山雅FC戦で9ヶ月ぶりにスタメン出場を果たしたものの、このシーズンは先発出場1試合と途中出場1試合の合計2試合の出場に留まった。セランテスが移籍した2021年シーズンも、村上が守護神に定着し、さらにセレッソ大阪から若手の永石拓海が加入したことで、引き続きベンチ入りができない日々が続いた。
4. 代表キャリア
杉山力裕は、日本を代表する世代別代表チームに選出され、国際舞台での経験も積んだ。
- 2003年 U-16日本代表
- 2006年 U-19日本代表
- SBSカップ 国際ユースサッカー
5. 引退
2022年10月22日、杉山力裕はこのシーズン限りで現役を引退することを発表した。彼の引退に際し、所属していたアビスパ福岡の公式サイトや、かつて在籍した清水エスパルスの公式サイトからも、彼の功績を称えるメッセージが発表された。
6. キャリア統計
杉山力裕のプロキャリアにおけるクラブごとの成績は以下の通りである。
6.1. クラブ成績
クラブパフォーマンス | リーグ | カップ | リーグカップ | 合計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
日本 | リーグ | 天皇杯 | Jリーグカップ | 合計 | ||||||
2006 | 川崎フロンターレ | J1リーグ | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
2007 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
2008 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
2009 | 0 | 0 | 3 | 0 | 2 | 0 | 5 | 0 | ||
2010 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | ||
2011 | 13 | 0 | 3 | 0 | 2 | 0 | 18 | 0 | ||
2012 | 5 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 8 | 0 | ||
2013 | 11 | 0 | 2 | 0 | 7 | 0 | 20 | 0 | ||
2014 | 14 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | 18 | 0 | ||
2015 | 清水エスパルス | 24 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 27 | 0 | |
2016 | J2リーグ | 20 | 0 | 0 | 0 | - | 20 | 0 | ||
2017 | アビスパ福岡 | 32 | 0 | 0 | 0 | - | 32 | 0 | ||
2018 | 16 | 0 | 1 | 0 | - | 17 | 0 | |||
2019 | 1 | 0 | 0 | 0 | - | 1 | 0 | |||
2020 | 2 | 0 | 0 | 0 | - | 2 | 0 | |||
2021 | J1リーグ | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | |
2022 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
合計 | 140 | 0 | 12 | 0 | 19 | 0 | 171 | 0 |
6.2. 国際クラブ成績
シーズン | クラブ | 大会 | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|---|
AFC | 出場 | 得点 | ||
2007 | 川崎フロンターレ | AFCチャンピオンズリーグ | 0 | 0 |
2009 | AFCチャンピオンズリーグ | 0 | 0 | |
2010 | AFCチャンピオンズリーグ | 0 | 0 | |
2014 | AFCチャンピオンズリーグ | 1 | 0 | |
通算 | 1 | 0 |
7. 評価と遺産
杉山力裕は、長きにわたりプロサッカー選手として活躍したゴールキーパーである。彼のキャリアは、正ゴールキーパーの座を巡る熾烈な争いや、度重なる怪我による離脱といった困難に満ちていた。しかし、そのような逆境に直面するたびに、彼は粘り強く復帰し、与えられた出場機会でチームに貢献しようと努めた。
特に川崎フロンターレ時代には、チームが苦境に陥った際に先発に起用され、安定したプレーでチームを支えた経験がある。また、清水エスパルス時代にはキャリアハイとなる出場数を記録し、アビスパ福岡ではJ1昇格プレーオフを含め主力として活躍するなど、所属した各クラブで重要な役割を担った。杉山力裕のプロサッカー選手としての足跡は、彼の高いプロ意識と、チームへの献身、そしていかなる状況下でも自身の役割を全うしようとする姿勢の証である。彼のキャリアは、サッカー選手としてだけでなく、一人の人間として、困難に立ち向かい続けることの重要性を示すものとして評価される。