1. 生い立ちと教育
松永章選手の幼少期、学歴、そしてサッカー選手としての初期の成長過程について詳述する。
1.1. 幼少期と学歴
松永章は1948年8月8日に静岡県で生まれた。藤枝東高校に在学中の1967年、3年次にはキャプテンとして、戦後初となる選手権、高校総体、国体の3冠獲得という歴史的快挙に導いた。この年、公式戦で72戦70勝2分という圧倒的な記録を残し、日本ユース代表にも選出された。高校卒業後は早稲田大学に進学し、サッカーを続けた。
1.2. 初期キャリアの形成
大学卒業後、松永章は1971年に日本サッカーリーグの日立製作所サッカー部(現在の柏レイソル)へ入部した。日立への入団は、早稲田大学の韓国遠征にコーチとして帯同していた高橋英辰の縁によるものであった。当初は東洋工業への入団を希望していたが、この縁が日立入りを決定づけた。
2. クラブキャリア
松永章のクラブでの活動とその主要な成果について具体的に説明する。
2.1. 日立製作所 (現 柏レイソル)
松永章は1971年から1982年まで、日立製作所に所属した。監督の高橋英辰の厳しい指導の下、「走る日立」と呼ばれたチームの中心選手として活躍し、チームを牽引した。1972年には日本サッカーリーグでチーム初の優勝に貢献した。同年には天皇杯も制覇し、二冠を達成。その後も1975年に天皇杯、1976年にはJSLカップで優勝するなど、日立製作所の黄金期を支えた。
2.2. 主要な実績と記録
松永章はクラブキャリアにおいて、数々の輝かしい実績と記録を打ち立てた。
チームタイトルとしては、日本サッカーリーグ優勝(1972年)、天皇杯優勝(1972年、1975年)、JSLカップ優勝(1976年)がある。
個人タイトルとしては、日本サッカーリーグの得点王に1972年と1973年の2年連続で輝いた。また、1972年から1975年まで4年連続でリーグのベストイレブンに選出された。
日本サッカーリーグ通算では176試合に出場し82得点を記録しており、これは釜本邦茂、碓井博行に次ぐ歴代3位の記録である。1974年の日本サッカーリーグ第13節のトヨタ自動車工業サッカー部戦では、1試合6得点の「ダブルハットトリック」を達成する驚異的な記録を樹立した。
2.3. プレースタイルと愛称
松永章は純粋なセンターフォワードとして、そのゴールへの嗅覚の鋭さから「ハイエナ」という愛称で呼ばれた。これは彼がペナルティエリア内で常に得点の機会をうかがい、こぼれ球やわずかなチャンスを逃さずにゴールへと結びつける得意なプレースタイルを象徴している。現役時代は釜本邦茂と毎年激しい得点王争いを繰り広げた。
3. 日本代表キャリア
松永章の日本代表としてのキャリアと主要な国際大会への参加履歴を扱う。
3.1. 選出と主要大会
松永章は1973年5月に日本代表に選出され、同年の1974 FIFAワールドカップ予選で代表デビューを果たした。デビュー戦は同年5月22日の香港戦であった。その後も1976年モントリオールオリンピック予選などに出場したが、同じポジションに絶対的な存在であった釜本邦茂がいたこと、また自身も肝心な時期に骨折に見舞われたことが重なり、国際Aマッチの出場機会は10試合に留まった。最後の日本代表としての出場は、1976年4月11日のモントリオールオリンピック予選、対イスラエル戦であった。日本代表では1976年までプレーし、通算2得点を記録した。
3.2. 国際Aマッチ出場記録
松永章が出場した国際Aマッチの試合詳細は以下の通りである。
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1973年05月22日 | 서울ソウル韓国語 | Hong Kong national football team香港英語 | ●0-1 | 長沼健 | ワールドカップ予選 | |
2. | 1973年05月26日 | 서울ソウル韓国語 | Israel national football teamイスラエル英語 | ●0-1(延長) | ワールドカップ予選 | ||
3. | 1973年06月23日 | 서울ソウル韓国語 | South Korea national football team韓国英語 | ●0-2 | 日韓定期戦 | ||
4. | 1976年01月25日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | Bulgaria national football teamブルガリア英語 | ●1-3 | 朝日国際サッカー大会 | |
5. | 1976年01月28日 | 大阪府 | 長居陸上競技場 | Bulgaria national football teamブルガリア英語 | △1-1 | 朝日国際サッカー大会 | |
6. | 1976年02月01日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | Bulgaria national football teamブルガリア英語 | ●0-3 | 朝日国際サッカー大会 | |
7. | 1976年03月17日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | Philippines national football teamフィリピン英語 | ○3-0 | オリンピック予選 | |
8. | 1976年03月27日 | 서울ソウル韓国語 | South Korea national football team韓国英語 | △2-2 | オリンピック予選 | ||
9. | 1976年03月31日 | 서울ソウル韓国語 | Israel national football teamイスラエル英語 | ●0-3 | オリンピック予選 | ||
10. | 1976年04月11日 | テルアビブ | Israel national football teamイスラエル英語 | ●1-4 | オリンピック予選 |
3.3. 国際Aマッチ得点記録
松永章が日本代表として記録した国際Aマッチでのゴール詳細は以下の通りである。
4. 引退後のキャリア
選手引退後の松永章の活動とキャリアについて説明する。
4.1. 指導者キャリア
現役引退後、松永章は指導者の道に進んだ。特に母校である早稲田大学ア式蹴球部の監督を務め、チームを率いた。監督として1993年と1994年に全日本大学サッカー選手権大会で優勝を果たし、1996年には関東大学リーグでも優勝に導くなど、その指導者としての手腕を発揮した。
4.2. その他の活動
引退後もサッカー界との関わりを続け、2014年5月31日に開催された「サッカーレジェンドマッチ」に出場するなど、様々なイベントに参加している。
5. 個人表彰
松永章が個人的に受賞した主要な賞や栄誉は以下の通りである。
- 日本サッカーリーグ1部 得点王: 1972年、1973年
- 日本サッカーリーグベストイレブン: 1972年、1973年、1974年、1975年(4年連続)
6. エピソード
松永章のキャリアや私生活に関する興味深いエピソードや裏話を紹介する。
- 高校卒業後、父親の仕事の関係で名古屋相互銀行への就職が内定していたが、周囲の反対を受け早稲田大学に進学した。大学在学中、名古屋相互銀行サッカー部は弱体化し、後に2部落ちして解散したため、大学卒業時には勧誘を受けることはなかった。
- 就職の際、自身がファンであった東洋工業への入団を希望していたが、早稲田大学の韓国遠征にコーチとして帯同していた高橋英辰の世話になった縁で、日立製作所への入団を決めた。
- 1973年、ブラジルのSEパルメイラスへ留学し、日本人として初のブラジルサッカー留学経験者の一人であるとされている。
7. 著書
松永章が執筆した書籍について紹介する。
- 『最後に勝つサッカー ハイエナと呼ばれた得点王』(日貿出版社)1987年
8. キャリア統計
松永章のクラブおよびサッカー日本代表キャリア全体にわたる詳細な統計データを表形式で提供する。
8.1. クラブ統計
クラブ所属時に出場したリーグ戦およびカップ戦の年度ごとの出場記録と得点数を詳細に提示する。
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年 | 所属クラブ | 背番号 | リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1971 | 日立 | 13 | JSL | 11 | 4 | - | - | - | - | 11 | 4 |
1972 | JSL1部 | 14 | 12 | - | - | - | - | 14 | 12 | ||
1973 | 9 | 18 | 11 | - | - | - | - | 18 | 11 | ||
1974 | 18 | 17 | - | - | - | - | 18 | 17 | |||
1975 | 18 | 15 | - | - | - | - | 18 | 15 | |||
1976 | 5 | 0 | - | - | - | - | 5 | 0 | |||
1977 | 15 | 4 | - | - | - | - | 15 | 4 | |||
1978 | 18 | 7 | - | - | - | - | 18 | 7 | |||
1979 | 18 | 2 | 2 | 1 | 4 | 2 | 24 | 5 | |||
1980 | 6 | 17 | 4 | 2 | 0 | 4 | 2 | 23 | 6 | ||
1981 | 16 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 16 | 4 | |||
1982 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 2 | |||
総通算 | 176 | 82 | 4 | 1 | 8 | 4 | 188 | 87 |
8.2. 日本代表統計
日本代表としての年度ごとの出場記録および得点数を詳細に提示する。
日本代表 | 国際Aマッチ | その他国際試合 | 通算 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |
1973 | 3 | 0 | 6 | 1 | 9 | 1 | |
1974 | 0 | 0 | 7 | 1 | 7 | 1 | |
1975 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
1976 | 7 | 2 | 2 | 0 | 9 | 2 | |
通算 | 10 | 2 | 15 | 2 | 25 | 4 |