1. 選手経歴
柳下正明は、ユース時代からディフェンダーとしてその才能を発揮し、ヤマハ発動機サッカー部でプロとしてのキャリアを築いた。
1.1. ユース経歴
柳下は浜名高校に1975年から1977年まで在籍し、3年次には第56回全国高校サッカー選手権に出場した。この大会では優勝候補と目されながらも、1回戦で同じく優勝候補であった北陽高校にPK戦の末に敗退した。その後、東京農業大学に1978年から1981年まで在籍。在学中の1979年には、日本で開催された1979 FIFAワールドユース選手権に日本U-20代表の一員として選出され、3試合に出場した。
1.2. クラブ経歴
大学卒業後、1982年にヤマハ発動機サッカー部(後のジュビロ磐田)に入団。中央のディフェンダーとして、1980年代のヤマハ発動機の黄金期を支えた。1982年度の天皇杯優勝、1987-1988シーズンの日本リーグ優勝など、クラブの主要タイトル獲得に貢献した。リーグ戦では通算135試合に出場した。
柳下自身は現役時代について、「もともとは激しいプレーヤーだったが、経験を積むにつれて、また体がそれほど大きくなかったこともあり、徐々にポジショニングや予測を生かしてボールを奪う守備をするようになった」と回想している。1989年度の天皇杯決勝では、後半途中で2点リードしていたにもかかわらず、自身のクリアミスから日産のレナトに同点ゴールを許した経験もある。1992年に現役を引退した。
年度 | クラブ | 所属リーグ | リーグ戦出場 | リーグ戦得点 | JSLカップ出場 | JSLカップ得点 | 天皇杯出場 | 天皇杯得点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1982 | ヤマハ | JSL2部 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1983 | JSL1部 | 18 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | |
1984 | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
1985 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
1986-87 | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
1987-88 | 22 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | ||
1988-89 | 22 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | ||
1989-90 | 19 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | ||
1990-91 | 18 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | ||
1991-92 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
総通算 | 135 | 0 | 12 | 0 | 2 | 0 |
その他の公式戦として、コニカカップに1990年に7試合、1991年に1試合出場している。
q=浜松市|position=right
1.3. 代表経歴
1979年、柳下は日本サッカー協会によって1979 FIFAワールドユース選手権(日本開催)の日本U-20代表に選出された。この大会で彼は3試合に出場している。
2. 指導者経歴
現役引退後、柳下正明はコーチとして指導者の道を歩み始め、複数のクラブで監督を務め、その手腕を発揮した。
2.1. 指導者経歴(初期)
1992年の現役引退後、柳下は1993年に古巣のヤマハ発動機サッカー部(後のジュビロ磐田)で指導者としてのキャリアをスタートさせた。初期は主にアシスタントコーチを務め、若手育成部門やサテライトチームの監督を歴任した。
ハンス・オフト監督時代にはトップチームのコーチを務め、2000年9月には鈴木政一ヘッドコーチの監督昇格に伴い、自身もヘッドコーチに就任した。鈴木監督を支え、2001年のJ1リーグ1stステージ、そして2002年のJ1リーグ1stステージと2ndステージ(2002年はJリーグ史上初の両ステージ制覇)優勝に貢献した。
2.2. クラブ別監督経歴
柳下はジュビロ磐田での監督就任を皮切りに、Jリーグの複数のクラブで指揮を執った。
2.2.1. ジュビロ磐田
2003年1月、鈴木政一監督の勇退に伴い、柳下はジュビロ磐田の監督に昇格した。この年、戦力低下が懸念される中で若手選手を積極的に登用し、チームを優勝争いに導いた。リーグ戦では1stステージ2位、2ndステージ3位という成績を収めた。年末から年始にかけて行われた天皇杯の直前、フロントとの強化方針の違いを示唆するコメントを残し、天皇杯限りでの退任を表明した。選手たちの慰留を振り切り、2003年の天皇杯で優勝という結果を残して、ヤマハ発動機時代から長年在籍した磐田を去った。
2007年にはスカパー!のサッカー解説者や静岡産業大学サッカー部のコーチとして活動していたが、同年9月にコーチとしてジュビロ磐田に復帰。2008年からはトップチームコーチとサテライトチームの監督を兼任した。内山篤監督がシーズン途中で解任された際には、ハンス・オフト新監督がチームを把握するまでのつなぎとして、1試合のみ実質的な監督代行として指揮を執った(オフト自身もベンチ入りはしていたため、正式な代行職ではなかった)。
2009年より、退任したオフトの後任として2度目のジュビロ磐田監督に就任。2010年にはJリーグカップで優勝を果たした。2011年シーズン終了後、目標としていたACL出場権を逃したため、契約満了に伴い退任した。
2.2.2. コンサドーレ札幌
2004年、柳下は若手選手育成の手腕を買われ、J2のコンサドーレ札幌の監督に就任した。当時の札幌は財政難にあり、自前の若手選手育成によるチーム力強化を掲げていた。この年、チームはリーグ戦で最下位に終わったものの、天皇杯ではベスト8に進出した。
2005年シーズンは、シーズン最終盤まで3位争いに絡むなど、着実にチームを進化させた。この功績により、当初2006年1月31日までの2年契約であったものが、2007年1月31日まで延長された。しかし、2006年シーズンも最終的にはJ1昇格争いから脱落。同年11月22日、コンサドーレ札幌は柳下自身の申し出により契約を延長しないと発表し、2006年度シーズン限りでの退団が決定した。この年の天皇杯では、千葉、新潟、甲府といったJ1勢を次々と破り、クラブ史上初のベスト4進出を果たした。
q=札幌市|position=left
2.2.3. アルビレックス新潟
2012年6月、柳下はアルビレックス新潟の監督に就任した。シーズン途中での監督就任は、彼にとって初めての経験であった。就任当初、新潟はJ2降格圏内の18クラブ中17位と低迷していた。柳下は堅い守備をさらに強化し、攻撃面では安易なボールロストを避け、ポゼッションを高めることを強調した。その結果、チームは最終節でJ1残留を決め、15位でシーズンを終えた。
2013年も引き続き新潟の監督を務めた。このシーズンは後半戦で5連勝を記録するなど、リーグ1位の勝ち点を獲得し、年間を通してクラブ史上最高勝ち点を記録した。彼は2015年シーズン終了まで新潟の監督を務めた。
q=新潟市|position=right
2.2.4. ツエーゲン金沢
2016年12月6日、J2のツエーゲン金沢の監督に就任することが発表された。彼は2017年から2023年までツエーゲン金沢を率いた。2023年11月5日、契約満了に伴う監督退任が発表された。同日、金沢はJ3リーグの試合結果により、J3への降格が決定した。
q=金沢市|position=left
2.2.5. 栃木SC
2024年シーズンより、栃木SCのヘッドコーチに就任した。しかし、同年5月14日、監督の田中誠と共に双方合意の上で契約解除された。
q=宇都宮市|position=right
2.3. 監督成績
年度 | クラブ | 所属 | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 勝点 | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | Jリーグカップ | 天皇杯 | |||
2003 | 磐田 | J1 | 2位 | 57 | 30 | 16 | 9 | 5 | ベスト4 | 優勝 |
2004 | 札幌 | J2 | 12位 | 30 | 44 | 5 | 15 | 24 | - | ベスト8 |
2005 | 6位 | 63 | 44 | 17 | 12 | 15 | - | 3回戦敗退 | ||
2006 | 6位 | 72 | 48 | 20 | 12 | 16 | - | ベスト4 | ||
2009 | 磐田 | J1 | 11位 | 41 | 34 | 11 | 8 | 15 | 予選リーグ敗退 | 4回戦敗退 |
2010 | 11位 | 44 | 34 | 11 | 11 | 12 | 優勝 | 4回戦敗退 | ||
2011 | 8位 | 47 | 34 | 13 | 8 | 13 | ベスト8 | 3回戦敗退 | ||
2012 | 新潟 | J1 | 15位 | 31 | 21 | 8 | 7 | 6 | 予選リーグ敗退 | 3回戦敗退 |
2013 | J1 | 7位 | 55 | 34 | 17 | 4 | 13 | 予選リーグ敗退 | 3回戦敗退 | |
2014 | J1 | 12位 | 44 | 34 | 12 | 8 | 14 | 予選リーグ敗退 | 3回戦敗退 | |
2015 | J1 | 15位 | 34 | 34 | 8 | 10 | 16 | ベスト4 | 3回戦敗退 | |
2017 | 金沢 | J2 | 17位 | 49 | 42 | 13 | 10 | 19 | - | 3回戦敗退 |
2018 | J2 | 13位 | 55 | 42 | 14 | 13 | 15 | - | 3回戦敗退 | |
2019 | J2 | 11位 | 61 | 42 | 15 | 16 | 11 | - | 3回戦敗退 | |
2020 | J2 | 18位 | 49 | 42 | 12 | 13 | 17 | - | - | |
2021 | J2 | 17位 | 41 | 42 | 10 | 11 | 21 | - | 2回戦敗退 | |
2022 | J2 | 14位 | 52 | 42 | 13 | 13 | 16 | - | 3回戦敗退 | |
2023 | J2 | 22位 | 35 | 42 | 9 | 8 | 25 | - | 2回戦敗退 | |
J1通算 | - | - | 255 | 96 | 67 | 92 | - | - | ||
J2通算 | - | - | 430 | 128 | 123 | 179 | - | - | ||
総通算 | - | - | 685 | 224 | 190 | 271 | - | - |
- 2012年は第14節から指揮。
3. タイトル
柳下正明は選手時代と監督時代にそれぞれ主要なタイトルを獲得している。
3.1. 選手時代
;ヤマハ発動機サッカー部
- 天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会 : 1回(1982年)
- 日本サッカーリーグ : 1回(1987-1988シーズン)
3.2. 監督時代
;ジュビロ磐田
- 天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会 : 1回(2003年)
- Jリーグカップ : 1回(2010年)
4. 人物・エピソード
柳下正明の身長は176 cm、体重は70 kgである。愛称は「ヤンツー」。
2012年のJ1リーグ最終節、アルビレックス新潟のJ1残留をかけた札幌戦では、柳下はベンチ入り停止処分を受けており、直接指揮を執ることができなかった。これは、J1第33節の仙台戦で、主審の判定に対して執拗に抗議したことによる退席処分が原因であった。しかし、この抗議には柳下なりの意図があったとされる。当時、FWブルーノ・ロペスは警告累積が7に達しており、主審の判定に対して興奮していた。柳下は自らが抗議して時間を稼ぎ、ブルーノらを落ち着かせることで、彼がイエローカードを提示され、既に警告累積で次節出場停止が決定していたFWミシェウと共に次節出場停止処分を受けることを防ぎ、大幅な戦力ダウンを避ける狙いがあったという。