1. 生涯
横井小楠の生涯は、幼少期の教育から始まり、私塾の開設、福井藩での政治顧問としての活躍、そして新政府での暗殺に至るまで、その思想形成と政治活動、数々の試練に彩られている。
1.1. 幼少期と教育
文化6年(1809年)8月13日、横井時存として肥後国(現在の熊本県)熊本城下の内坪井町に、家禄150石の熊本藩士、横井時直の次男として生まれた。本姓は平氏で、北条時行の子孫を称しており、代々「時」の字を名乗りに用いた。
文化13年(1816年)、8歳で藩校・時習館に入校。天保4年(1833年)に居寮生(寄宿生)となった後、天保7年(1836年)に講堂世話役を経て、天保8年(1837年)には時習館居寮長(塾長)を務めた。この時期に、下津久馬(休也)と共に居寮新制度を建議し、採用されたが実施過程で頓挫した。この際、筆頭家老の長岡是容の後ろ盾を得た。
1.2. 初期活動と学問形成
天保10年(1839年)、藩命により江戸へ遊学し、林檉宇の門下生となり、佐藤一誠、松崎慊堂ら高名な学者と出会った。また、江戸滞在中には幕臣の川路聖謨や水戸藩士の藤田東湖など、全国の有為な士と親交を結んだ。
しかし、同年12月25日、藤田東湖が開催した忘年会に参加した帰り、さらに酒を飲み重ねた後、藩外の者と喧嘩になったことが問題視された。このため、翌天保11年(1840年)2月9日、藩の江戸留守居役から帰国命令が下され、帰国後には70日間の逼塞(自宅謹慎)に処された。この謹慎期間中、小楠は朱子学の研究に没頭した。
翌天保12年(1841年)頃より、長岡是容、下津久馬、元田永孚、萩昌国らと研究会を開いた。これが後に「実学党」となり、筆頭家老の松井章之を頭目とする「学校党」と対立することとなる。しかし、藩政の混乱を避けるため長岡が家老職を辞職し、研究会は取り止めとなった。この時期、小楠は『時務策』を起草している。
天保14年(1843年)、自宅の一室で私塾を開設し、弘化4年(1847年)に「小楠堂」と命名した。小楠の第一の門弟は徳富一敬であり、徳富一敬は後に徳富蘇峰と徳冨蘆花の父親となった。第二の門弟は矢嶋源助であり、その後も嘉悦氏房、長野濬平(長野忠次の父)、河瀬典次、安場保和、竹崎律次郎(竹崎茶堂、竹崎順子の夫)など、多くの門弟を輩出した。
嘉永2年(1849年)、福井藩士・三寺三作が小楠堂に学び、これがきっかけで小楠の名が福井藩に伝わった。嘉永5年(1852年)には福井藩の求めに応じて『学校問答書』を、翌嘉永6年(1853年)には『文武一途の説』を書いて送り、これが後に福井藩からの招聘に繋がった。同年10月には、ロシア帝国軍艦に乗船しようと長崎市に向かっていた吉田松陰が小楠堂に立ち寄り、小楠と3日間にわたり語り合った。同年11月、ロシア使節応接係であった川路聖謨に『夷虜応接大意』を送り、有道・無道にかかわらず一切の外国の要求を拒絶することは天地公共の実理に反すると説いた。
1.3. 福井藩出仕と幕政改革への参加
安政元年(1854年)7月、兄・横井時明が48歳で病死したため、小楠は幼い長男の左平太に代わり、兄の末期養子として家督を継いだ。この頃、考え方の対立から長岡是容と絶交している。
安政2年(1855年)5月、農村である沼山津(現・熊本市東区沼山津)に転居し、自宅を「四時軒」(しじけん)と名付け、自身の号も地名にちなんで「沼山」(しょうざん)とした。この四時軒は、後に坂本龍馬、井上毅、由利公正、元田永孚など、明治維新の立役者や後の明治新政府の中枢を担うことになる多くの人物が訪れ、天下国家を論じる場となった。
安政4年(1857年)3月、福井藩主・松平春嶽の使者である村田氏寿が小楠を訪れ、福井藩への招聘を打診した。小楠がこれを内諾したため、春嶽は8月に熊本藩主細川斉護に書状を送り、小楠の福井行きを願い出た。斉護は実学党による藩校の学風批判などから一旦これを断るが、春嶽らが幾度にもわたり要請した末にようやく承諾された。小楠は翌安政5年(1858年)3月に福井に赴き、賓師として50人扶持(150石に相当)の待遇を与えられ、藩校明道館で講義を行うなどした。同年12月、弟の死去により熊本に一時帰郷。翌安政6年(1859年)に再び福井藩から招きを受けて福井に滞在するが、同年12月には実母危篤の知らせを受け、再度熊本に帰郷した。
万延元年(1860年)2月、福井藩による3回目の招きに応じて再び福井に赴いた。この頃、福井藩内では保守派と進歩派の対立が激しく、これを見た小楠は『国是三論』を著し、挙藩一致を呼びかけた。文久元年(1861年)4月、江戸に赴き、そこで春嶽と初対面した。この江戸滞在中、小楠は勝海舟や大久保一翁(大久保忠寛)と交流を持った。同年10月、7人の福井の書生を連れて熊本・沼山津の四時軒へ帰った。しかし、同年11月26日、狩猟に出かけた際、藩主専用の鷹狩の場所となっていた沼山津の沼沢地において、残っていた弾を射ち放したことが咎められ、謹慎処分となった(榜示犯禁事件)。
文久2年(1862年)6月、福井藩から4回目の招きを受けて熊本を発った。7月には江戸の越前松平家別邸を訪れ、江戸幕府の政事総裁職となっていた春嶽の助言者として幕政改革に関与するようになった。幕府への建白書として『国是七条』を起草し、8月には大目付・岡部長常に招かれて『国是七条』の内容について説明を行った。また、一橋徳川家邸では徳川慶喜に対面し、幕政について意見を述べた。この頃、小楠は福井藩邸で坂本龍馬や岡本健三郎と会っている。小楠は徳川幕府の抜本的な改革を求め、幕府と朝廷の和解、全面的な開国通商、経済改革、そして西洋式の近代軍隊の設立を提言した。中国の学者・改革者である魏源の『海国図志』を読んだ小楠は、日本が「慎重かつ段階的、現実的に西洋世界に対して国境を開放し」、アヘン戦争で清国が犯した過ちを避けるべきだと確信するようになった。彼はまた、将軍が内閣総理大臣に相当する役割を担う主要藩による国民議会の設立を提唱した。これらの急進的な思想に激怒した幕府内の保守派は、速やかに小楠から全ての官職と武士の身分を剥奪し、熊本で蟄居を命じた。しかし、この蟄居中も小楠は勝海舟をはじめとする改革派の政府関係者との連絡を維持した。
1.4. 事件と試練
文久2年(1862年)冬、後に士道忘却事件として知られる騒ぎが勃発した。同年12月19日、小楠は熊本藩江戸留守居役の吉田平之助の別邸を訪れ、熊本藩士の都築四郎・谷内蔵允と酒宴を催した。谷が帰った後、熊本藩足軽の黒瀬一郎助、安田喜助、堤松左衛門の3人の刺客の襲撃を受けた。不意のことであったため小楠は床の間に置いた大小を手に取ることができなかった。そのため、身をかわして宿舎の常盤橋の福井藩邸まで戻り、予備の大小を持って吉田の別邸まで引き返したが、既に刺客の姿はなく、吉田と都築は負傷していた(吉田は後に死亡した)。この事件後、小楠は文久3年(1863年)8月まで福井に滞在した。熊本藩では、事件の際の「敵に立ち向かわずに友を残し、一人脱出した」という小楠の行動が武士にあるまじき振る舞い(士道忘却)であるとして非難され、小楠の引き渡しと処分が要求された。しかし、小楠を匿った福井藩は、国家のために尽くしている小楠が襲われたのは、単に武士道を欠いた者と同一視するべきではなく、刀を取りに戻ったのは当然であると小楠を擁護した。同年12月16日、寛大な処置として切腹は免れたものの、小楠に対し知行(150石)召上・士席差放の処分が下され、小楠は浪人となった。彼は肥後に戻り、沼山津の四時軒で蟄居生活を送った。この事件により、小楠らが推し進めていた福井藩の挙藩上洛計画は頓挫した(八月十八日の政変#京都制圧計画参照)。
元治元年(1864年)2月、龍馬は勝海舟の遣いで熊本の小楠を訪ねた。小楠はこの時、『国是七条』について説いた。この内容が後の龍馬の船中八策の原案の一つになったとも言われている。この会談には徳富一敬も同席した。この際、小楠は兄の遺子で自身の甥にあたる左平太と太平を神戸海軍操練所に入所できるよう、龍馬を通じて海舟に依頼した。その後、慶応元年(1865年)5月にも龍馬が小楠を訪ねてきているが、第二次長州征討の話題となった時、小楠が長州藩に非があるため征討は正当だと主張し、龍馬と口論になったという。これ以後、小楠と龍馬が会うことはなかった。
慶応2年(1866年)、甥の左平太と太平がアメリカ留学する際に、『送別の語』を贈った。
1.5. 明治維新と最期
慶応3年(1867年)12月18日、長岡護美と小楠に対し、朝廷から新政府への登用のため上京を通知する書状が京都の熊本藩邸に送られた。藩内では小楠の登用に異論が多く、家禄召し上げ・士席剥奪の状態であったこともあり、「小楠は病気なので辞退したい」と朝廷に申し出ており、小楠の門人の登用についても断った。慶応4年(1868年)3月5日、参与となった長岡護美がその辞退を申し出る書を副総裁の岩倉具視に提出したが、岩倉は小楠のことを高く評価していたため「心配には及ばない」と内示し、3月8日に改めて小楠に上京命令が出された。熊本藩としてもこれでは小楠の上京を認めざるを得ないと決定し、3月20日に小楠および都築黙兵衛(都築四郎)の士席を回復し、3月22日に上京を命じた。
4月11日、大坂に到着。4月22日に徴士参与に任じられ、閏4月4日に京都に入り、閏4月21日に参与に任じられた。翌22日には従四位下の位階を与えられた。しかし激務から体調を崩し、5月下旬には高熱により重篤な状態となった。7月には危険な状態を脱し、9月には再び出勤できるまでに回復した。
明治2年(1869年)1月5日午後、参内の帰途、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で十津川郷士ら6人組(上田立夫、中井刀禰尾、津下四郎左衛門、前岡力雄、柳田直蔵、鹿島又之允)の襲撃を受けた。上田が小楠の乗った駕籠に向かって発砲し、6人が斬り込んできた。護衛役などが応戦し、小楠も短刀1本で攻撃を防ごうとするが、暗殺された。享年61。小楠の首は鹿島によって切断され持ち去られたが、現場に駆け付けた若党が追跡し、奪い取った。
殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであったと言われている。実際には小楠は、キリスト教が国内に入れば仏教との間で争いが起こり、乱が生じることを懸念していた。しかし、この噂に加え、秘密裏に共和制的な思想を抱いているとの疑いもかけられた。弾正台の古賀十郎ら新政府の開国政策に不満を持つ保守派が、裁判において横井が書いたとする『天道覚明書』という偽書を作成して横井が密かに皇室転覆を企てたとする容疑で告発するなど、大混乱に陥った。紆余曲折の末、実行犯であった4名(上田・津下・前岡・鹿島)が明治3年(1870年)10月10日に処刑されることとなった。なお、実行犯の残り2人のうち柳田は襲撃時の負傷により明治2年(1869年)1月12日に死去し、中井は逃走し消息不明となっている。その他、実行犯の協力者として上平主税ら3人が流刑、4人が禁固刑に処されている。
2. 思想と政治哲学
横井小楠の思想は、封建的な体制を批判し、公共性と交易を基盤とした新しい国家と社会の構想を特徴とする。彼の改革思想は、主要著作や具体的な政策提言に示され、西洋文明への独自の認識も持ち合わせていた。
2.1. 改革思想
小楠は、当時の鎖国体制と幕藩体制を強く批判し、これに代わり得る新しい国家と社会の構想を公共と交易の立場から模索した。彼は公共性や公共圏を実現するために、「講習討論」や「朋友講学」といった身分階層を超えた討議を、政治運営のもっとも重要な営為として重視した。これは、開かれた議論を通じて公正な政策を導き出す「公議政治」の精神に繋がるものであった。
また、交易を重視する立場から、諸外国との通商貿易の推進を強く主張し、産業の振興をも交易の一環として捉え、国内における自律的な経済発展の方策を提言した。そのためには、既存の幕府や藩という枠組みを越えた統一国家の必要性を説いた。
2.2. 主要著作と政策提言
小楠の体系的な国家論が提示された文書として、万延元年(1860年)に福井藩の藩政改革のために執筆された『国是三論』がある。この中では、日本に真の国教がないことが日本の国体の弱点であると述べ、これが後に国家神道形成の一因となったとも指摘されている。また、強力な海軍の重要性を強調した。
その他、学問と政治の結びつきを論じた嘉永5年(1852年)執筆の『学校問答書』、マシュー・ペリーやエフィム・プチャーチンへの対応についての意見書である嘉永6年(1853年)執筆の『夷虜応接大意』、元治元年(1864年)の井上毅との対話の記録である『沼山対話』、慶応元年(1865年)の元田永孚との対話の記録である『沼山閑話』など、多くの著作を通じて彼の思想と具体的な政策提言が示されている。
2.3. 西洋文明への認識
小楠は、西洋文明の技術や制度を積極的に導入することの必要性を説き、開国通商と西洋式軍隊の導入を主張した。しかし、同時にキリスト教に対しては、日本の仏教と比較して虚偽かつ異端的であるとして批判的な見解を持っており、キリスト教が国内に入れば、既存の仏教との間で争いが起こり、社会に混乱が生じることを懸念していた。
また、共和制(大統領制)を古代中国の理想的な統治形態である「尭舜の世」(禅譲)になぞらえ、その可能性を示唆したことでも知られている。これは、当時の日本の政治体制とは一線を画する極めて進歩的な思想であった。
3. 人物と人柄
横井小楠は、その進歩的な思想だけでなく、親しい人々との交流を通じて垣間見える独特な人柄や個人的な嗜好でも知られていた。
3.1. 人柄と交流
小楠の門弟である徳富一敬は、小楠の姿について「身の丈は五尺に足らぬ小男であったが、顔大きく、色黒く、真黒い一の字眉きりりと釣り上がり、眼中きらきら光り、頬骨高く秀でて、口の大きい、活々した風采の人で、眼明手快、非常にすばしこい人であった」と評している。また、「随分癇癪は激しい方であった。併し赫として怒らるると火の出る様であったが、過ぎるとあとは誠にサッぱりして、夕立あがりの様に涼しく叱られても一向苦にならぬ。どんなに敵対する者でも。折れて来ればさっぱりとして腹蔵なく、如何に厳責した者でも改むると先生の喜びは限りなく、行雲流水まことにさらさらとした大快活の人であった」と、その率直で裏表のない性格を伝えている。小楠は「先生は真に思想の人であった。厠の中でも、漁に出ても、ふと考えの浮かぶと、必ず十分考えつくすまでは置かぬ。修行心は非常なものであった」とも評され、常に思索を怠らない人物であった。
勝海舟は小楠について、初めて会った時から「途方もない聡明な人だと心中大いに敬服して、しばしば人を以ってその説を聞かしたが、その答えには常に『今日はこう思うけれども、明日になったら違うかもしれない』と申し添えてあった。そこでおれはいよいよ彼の人物に感心したよ」と述べている。勝海舟はまた、「横井という人は、一見何の異なる所なく、服装なども黒縮緬の袷羽織に平袴で、見たところは大名の御留守役とでもいう風で、人物の円満で、強いて人と争う様な野暮ではなかった。佐久間(佐久間象山)などとはまるで反対であった」と、その穏やかな外見と、佐久間象山とは対照的な衝突を避ける人柄を語っている。一方で、「大抵の人は小楠を取り留めの無い事をいう人だと思った。維新の初めに大久保(大久保利通)すら、小楠を招いたけれど思いの外だといっていた。しかし、小楠はとても尋常の物尺では分らない人物で、且つ一向物に擬態せぬ人だった。それ故に一個の定見と云うものはなかったけれど、機に臨み変に応じて物事を処置するだけの余裕があった」とも評し、彼が一般には理解されにくい、規格外の人物であったことを示唆している。
3.2. 個人的な嗜好
小楠は多忙な政治活動や学問研究の傍ら、個人的な趣味も楽しんでいた。「翁の閑事業は漁猟、殊に漁であった。鉄砲猟に出かける時は、大抵粟の飯の弁当に味噌漬けで、鉄砲肩げてのこのこ歩かれた。漁は釣網みな得意であったが、中にも蚊頭ひきは名人で、これは大抵雪降りの日である」と、釣りや狩猟を好んだことが伝えられている。特に雪の日に漁に出かけるのを好んだという。
また、「酒量は弱いが、酒は好きな方であった。江戸で酒の上に大気焔を吐き、その為帰国を命ぜられた後は、暫く禁酒せられたが、併しおりおり神棚の神酒が不思議になくなることもあった。先生の姉君が先生が禁酒さるるを気の毒に思って、毎朝そしらぬ風して神棚の神酒徳利に酒をなみなみとついで棚にあげて置かるると、明日は必ず空になって居たと云う」という逸話もあり、酒好きであった一面を窺わせる。
4. 家族と家系
横井小楠の家族は、桓武平氏北条氏の家系に連なり、妻や子供、そして甥や義理の姉妹といった親族もまた、近代日本の発展に重要な役割を果たした人物たちであった。
4.1. 配偶者と子女
小楠は生涯で2人の配偶者を持った。先妻は熊本藩士小川吉十郎の娘・ひさ(嘉永6年(1853年)2月結婚、安政3年(1856年)死別)。後妻は小楠の門弟矢嶋源助の妹である津世子と安政3年(1856年)に結婚した。
津世子との間には、後に同志社第3代総長や衆議院議員を務める長男の横井時雄、そして海老名弾正の妻となる長女のみやが生まれた。
4.2. 影響を与えた親族
後妻の津世子の姉には徳富一敬に嫁いだ徳富久子と竹崎順子がおり、妹には矢嶋楫子がいる。惣庄屋矢島忠左衛門直明を父とするこの姉妹は「四賢婦人」と呼ばれ、彼女たちの生地である熊本県益城町には記念館が設立されている。
徳富蘇峰は、自身の父である徳富一敬の影響から、自らを小楠の門弟と称し、小楠を生涯の師と仰いだ。
小楠の甥にあたる横井太平(兄・時明の次男)は、兄の横井左平太と共に小楠らの資金を得て米国へ密航した。病を得て帰国後は、熊本に熊本洋学校を設立しようと尽力した。また、横井左平太の妻は、後に女子美術大学を創立した横井玉子である。
5. 評価
横井小楠は、その先駆的な思想と行動から肯定的な評価を受ける一方で、保守勢力からの強い批判とそれに伴う論争にも常に晒されていた。
5.1. 肯定的評価
横井小楠は、日本の近代化において、その先駆的な思想と政策提言が特に高く評価されている。彼は、封建的な鎖国政策と幕藩体制を批判し、開国通商による国際社会への積極的な参入を主張した。また、国家の富強のためには、産業の振興と西洋式軍備の導入による富国強兵が必要であると説いた。さらに、身分に関わらず開かれた議論を通じて政治を行う公議政治の概念を提唱し、そのための国民議会設立の必要性にも言及した。これらの思想は、当時の日本においては極めて進歩的であり、後の明治新政府の政策にも大きな影響を与えた。特に、彼の『国是七条』は坂本龍馬の船中八策の原案の一つになったとも言われ、明治維新における重要な指針となった。
5.2. 批判と論争
一方で、横井小楠の思想や行動は、当時の保守的な勢力から強い批判を受け、様々な論争の的となった。特に彼のキリスト教に対する見解は、表面上はキリスト教の流入が社会混乱を招くという懸念を示していたものの、保守派からは「日本をキリスト教化しようとしている」という事実無根の噂が立てられ、彼の暗殺の主要な動機となった。
また、「士道忘却事件」では、刺客に襲われた際に「武士にあるまじき振る舞い」をしたとして、熊本藩内で厳しい非難にさらされた。この事件は、彼が武士の形式的な倫理よりも、国家大局の利益を優先する実学的な姿勢を持っていたことの表れとも解釈できるが、当時の武士社会では大きな問題とされた。彼の暗殺後には、彼が秘かに皇室転覆を企てたとする『天道覚明書』という偽書が持ち出され、裁判が大混乱に陥るなど、その思想を巡る社会的な混乱が続いた。これは、彼の思想がいかに当時の社会に衝撃を与え、保守派から危険視されていたかを示すものであった。
6. 遺産と影響
横井小楠の思想と行動は、彼の死後も日本の近代化に多大な影響を与え、今日まで顕彰され続けている。
6.1. 後世への影響
横井小楠の思想と政策提言は、後世の政治改革に大きな影響を与えた。特に、彼の『国是七条』は、坂本龍馬が考案したとされる『船中八策』の原案の一つとなったことで知られている。小楠が提唱した開国通商、富国強兵、公議政治などの理念は、明治新政府の政策に強く反映され、日本の近代化を推進する上で重要な指針となった。また、彼の門弟や親族からも、横井時雄、徳富蘇峰、矢嶋楫子など、教育者、政治家、社会活動家として日本の近代化に貢献した多くの人物が輩出された。
6.2. 顕彰と記念
横井小楠の功績を記念し、現在も様々な施設や行事が存在する。
- 横井小楠記念館:熊本県熊本市東区沼山津1丁目25-91に位置し、小楠の私塾であった「四時軒」に隣接して建てられている。小楠に関する史料などが展示され、彼の生涯と思想を学ぶことができる。
- 小楠公園:熊本県熊本市東区沼山津4丁目11にあり、暗殺された小楠の遺髪が埋葬された場所である。園内には記念碑や小楠の銅像が建立されており、記念碑の碑文は徳富蘇峰によって書かれた。
- 墓前祭:小楠公園にて毎年2月15日の午前10時に斎行され、浮島神社の斎主により執り行われる。
7. 著作
横井小楠の主要な著作には、彼の政治思想や政策提言が体系的に示されており、死後にはそれらの遺稿が編纂され広く知られることとなった。
- 『時務策』
- 『学校問答書』(嘉永5年(1852年)執筆)
- 『文武一途の説』(嘉永6年(1853年)執筆)
- 『夷虜応接大意』(嘉永6年(1853年)執筆)
- 『国是三論』(万延元年(1860年)執筆)
- 『国是七条』(文久2年(1862年)起草)
- 『沼山対話』(元治元年(1864年)井上毅との対話記録)
- 『沼山閑話』(慶応元年(1865年)元田永孚との対話記録)
- 『送別の語』(慶応2年(1866年)甥への送別文)
- 横井時雄編『小楠遺稿』(民友社、1889年11月)
- 山崎正董編『横井小楠』上巻伝記篇・下巻遺稿篇(明治書院、1938年5月)
- 山崎正董編『横井小楠遺稿』(日新書院、1942年7月)
- 松浦玲編・訳『日本の名著30 横井小楠・佐久間象山』(中央公論社、1970年7月。のち新版・中公バックス)
- 佐藤昌介・植手通有・山口宗之校注『日本思想大系55 渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小楠・橋本左内』(岩波書店、1971年6月)
- 日本史籍協会編『横井小楠関係史料 1・2』(東京大学出版会、1977年2月・6月)
- 花立三郎全訳注『国是三論』(講談社〈講談社学術文庫〉、1986年10月)