1. 概要
稲田悦子は、日本のフィギュアスケート界の黎明期から活躍し、その後の発展に道を拓いた象徴的な人物である。特に、12歳という若さで冬季オリンピックに出場した日本人最年少記録は、現在も破られていない歴史的快挙として知られる。第二次世界大戦を挟んだ困難な時代を乗り越え、選手としてだけでなくコーチとしても多くの後進を育成し、日本のスポーツ文化、特にフィギュアスケートの普及と向上に大きく貢献した。彼女の生涯は、単なる競技者の枠を超え、社会における女性アスリートの地位向上と、困難な状況下での人間的な強さを示すものとして評価される。
2. 生い立ちと教育
稲田悦子は1924年2月8日、大阪府大阪市で稲田時計店の末娘として生まれた。幼少期の1932年、8歳の時にスケートを始め、その才能はすぐに開花した。彼女は、日本のフィギュアスケート界の重鎮である永井康三コーチから指導を受け、その技術を磨いた。学歴としては梅花高等女学校を卒業後、専門学校で英文を学ぶなど、学業にも熱心に取り組んだ。
3. 選手経歴
稲田悦子のフィギュアスケート選手としての経歴は、戦前から戦後にかけての日本の激動の時代を映し出している。
3.1. 戦前とオリンピック出場
稲田は1933-34シーズンに全日本ジュニア選手権で優勝し、翌1934-35シーズンには全日本選手権で優勝し、シニアデビューを飾った。1935年11月に行われた日本代表選考会では、総得点1745.3点を記録し、2位の東郷球子を300ポイント以上引き離して圧倒的な優勝を飾った。この際、スクールフィギュアとフリーの両方で男子シングルを遥かに凌ぐ高得点を出したことに対し、新聞の選評では「スクールにおけるフイギュアの大きさにおいてあの小さな身体であれだけこなしていれば十分でターンの正確は男子も及ばない状態である」と絶賛された。代表決定の報を聞いた稲田は「うちなア、Sonja Henieソニア・ヘニーノルウェー語の姉ちゃんだけがこわいんや」と語ったと伝えられる。
1936年1月にはドイツのベルリンで開催されたヨーロッパフィギュアスケート選手権に出場し、その際に当時のドイツ総統であるアドルフ・ヒトラーと握手した経験を持つ。
同年2月、稲田はドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンで開催された1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックに12歳という若さで出場した。これは、2024年現在においても夏季・冬季を通じてオリンピックにおける日本人最年少出場記録であり、第二次世界大戦前に冬季オリンピックに参加した唯一の日本人女子選手であることから、その出場は歴史的な意義を持っていた。そのため、稲田は「日本の女子フィギュアスケートの先駆けの選手」として広く知られている。この大会では、白い服に赤いカーネーションを付けた衣装を着用し、ドイツのミリタリーマーチに合わせて演技を披露し、観客から大きな人気を集めた。この衣装は、ベルリンの日本人女性協会から贈られたもので、後に秩父宮記念スポーツ博物館に寄贈され、稲田自身の希望により胸の日の丸のアップリケとカーネーションが当時のほぼ同じように復元・追加されて展示されている。成績は26人中10位であったが、この大会で優勝し3連覇を飾ったノルウェーのソニア・ヘニーは、「近い将来必ず稲田の時代が来る」と断言し、稲田の才能を高く評価した。稲田はヘニーの練習姿を見て憧れ、後にオスロにあるヘニーの自宅を訪ねている。また、ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックの開会式では、身長127 cmの稲田を見たヒトラーが側近に「あの小さな少女は何をしに来ているのか」と尋ねたという逸話も残っている。
オリンピック後の3月にはフランスのパリで開催された世界フィギュアスケート選手権に出場し、10位となった。翌1937年から1941年まで全日本選手権女子シングルで5連覇を達成し、この記録は1977年に渡部絵美に破られるまで最高記録であった。1938年には橋本國彦が稲田の活躍を讃え、行進曲「楽しきスケーター」を作曲し、ワルター・ペータースのワルツ「昇る太陽」と共にビクターからレコードが発売された。
稲田は1940年(昭和15年)に1940年札幌オリンピックの有力な選手として期待された。しかし、日中戦争の長期化などによる国際情勢の悪化により、日本は1938年に札幌オリンピックの開催権を返上したため、稲田は2度目のオリンピック出場の機会を失った。
第二次世界大戦中には満州へ慰問に訪れ、凍った川でスケートを滑った経験があるという。1945年(昭和20年)の終戦は奈良県で迎え、終戦の翌年である1946年に結婚した。


3.2. 戦後の復帰と晩年の選手活動
第二次世界大戦後、稲田は1949年に選手として競技に復帰を果たした。この時期には私生活で離婚も経験している。復帰後の1951年には、自身7度目となる全日本選手権女子シングル優勝を飾った。同年、有坂隆祐と共にイタリアで開催された世界フィギュアスケート選手権に出場し、日本人選手としては15年ぶりの世界選手権出場を果たした。しかし、当時の日本は戦後の復興途上にあり、稲田は衣装の調達に苦労し、タイツを男性用のももひきで代用するなど、様々な困難を経験した。また、楽曲の選択においても世界の潮流に後れを取っており、結果は23人中21位に留まった。
1952年、稲田は選手としての現役生活を引退し、フィギュアスケートコーチへと転身した。
4. 引退後の活動
選手生活を引退した後も、稲田悦子は多岐にわたる活動を通じて日本のフィギュアスケート界、そして社会に貢献した。
4.1. コーチとしての活動
稲田は引退後、フィギュアスケートコーチとして精力的に活動し、後進の育成に尽力した。彼女の指導を受けた著名な選手には、オリンピック出場経験もある平松純子(旧姓:上野)、石田治子、福原美和らがいる。また、日本の皇族へのスケーティング指導も行い、皇室とフィギュアスケートの橋渡し役も担った。
4.2. その他の活動
コーチ業の傍ら、稲田は東京・青山でブティックを経営するなど、事業活動にも携わっていた。これは、競技者としての経験だけでなく、多様な分野で活躍する彼女の多才さを示している。
5. 哲学と私生活
稲田悦子は、その人生において明確な哲学を持っていたことで知られる。彼女は、「五輪は参加することに意義があるなんてうそ。本番のたった一回のチャンスに成功し、一位にならなくちゃ」という言葉を残しており、これは競技者としての彼女の厳しい姿勢と、勝利への強い執着を表している。また、生涯の信念として「世界一になるには努力、努力、努力」を掲げ、目標達成のための絶え間ない努力の重要性を説いていた。
私生活では、第二次世界大戦終戦翌年の1946年に結婚し、一男をもうけた。しかし、戦後の選手復帰時期には離婚を経験しており、公私ともに波乱に富んだ人生を送った。
6. 死去
稲田悦子は2003年7月8日、胃がんのため千葉市内の病院で死去した。享年79歳。葬儀は築地本願寺で執り行われた。稲田が日本の皇族にスケートを指導した縁もあり、天皇・皇后をはじめとする多くの皇族から献花が寄せられ、その社会的地位の高さと功績が改めて示された。
7. 遺産と影響
稲田悦子は、日本のフィギュアスケート界に計り知れない影響を与え、後世に大きな遺産を残した。
7.1. 歴史的意義
彼女は日本人女子フィギュアスケートの開拓者であり、冬季オリンピックに初めて出場した女性アスリートである。特に、12歳でのオリンピック出場は、現在も破られていない日本人最年少記録として、その歴史的意義は非常に大きい。彼女の活躍は、戦前における日本のフィギュアスケートの国際舞台での存在感を高め、戦後には競技復興の象徴となった。
7.2. 文化作品における描写
稲田悦子の波乱に満ちた生涯と功績は、様々な文化芸術作品においても描かれている。なかにし礼の小説『てるてる坊主の照子さん』(新潮社)に登場するフィギュアスケートのコーチは稲田がモデルとされている。また、この小説を原作として2003年度下半期に放送されたNHK連続テレビ小説『てるてる家族』では、「稲本栄子」としていしのようこが稲田をモデルにした役を演じた。
8. 主な戦績
大会/年 | 1933-34 | 1934-35 | 1935-36 | 1936-37 | 1937-38 | 1938-39 | 1939-40 | 1940-41 | 1948-49 | 1949-50 | 1950-51 | 1951-52 |
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オリンピック | 10位 | |||||||||||
世界選手権 | 10位 | 21位 | ||||||||||
欧州選手権 | 9位 | |||||||||||
全日本選手権 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | |||||
国民体育大会 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | 1位 | ||||||
全日本ジュニア選手権 | 1位 |