1. Overview
駒野友一(駒野 友一こまの ゆういち日本語、Yuichi Komano英語)は、和歌山県海南市出身の元プロサッカー選手である。現役時代は主にディフェンダー(サイドバック)として活躍し、時にミッドフィールダーも務めた。長年にわたりサンフレッチェ広島やジュビロ磐田などのJリーグクラブで中心選手としてプレーし、また日本代表としても活躍した。特に2010 FIFAワールドカップでは全試合に先発出場し、日本のベスト16進出に貢献したが、決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦でのPK戦で失敗を経験したことで、彼のキャリアの象徴的な瞬間となった。引退後もサッカー界に貢献している。
2. 経歴
駒野友一は、プロサッカー選手として23年間のキャリアを送り、複数のクラブと日本代表で重要な役割を果たした。
2.1. プロ入り以前
1981年7月25日に和歌山県海南市で生まれた駒野は、小学生時代はフォワードを務めていた。中学2年生の時、関西選抜で「左足で蹴れる」という理由から左サイドハーフに抜擢され、その活躍が評価された。中学3年生の時には複数の高校やクラブから勧誘を受けるようになる。
1996年秋に父親を病気で亡くしたことから、寮費の減免制度があったサンフレッチェ広島ユースへの加入を決意。同年冬に広島県・吉田中学校へ転校し、1997年から高校1年生として広島ユースに加わった。同期には後のプロサッカー選手である森崎和幸や森崎浩司兄弟らがいた。ユースではウイングバックとして頭角を現し、高校3年次には森崎兄弟と共に2種登録選手としてトップチームに登録された。
2.2. サンフレッチェ広島時代
2000年、駒野はサンフレッチェ広島とプロ契約を結んだ。翌2001年には当時の監督ヴァレリー・ニポムニシに見出され、右サイドバックのレギュラーポジションを奪い、その年の2ndステージでチームの3位に貢献した。これ以降も右アウトサイドの主力として安定したプレーを披露した。
しかし、広島時代には度重なる深刻な怪我や病に苦しんだ。2003年8月のJ2第28節横浜FC戦では左膝前十字靭帯を断裂。手術後の入院中に脚をギプスで固定したことが原因で深部静脈血栓症を発症し、生命の危機に瀕したこともあった。懸命なリハビリを経て、2004年4月のナビスコカップ横浜FM戦で復帰。2004年8月にはアテネオリンピックのガーナ戦で左鎖骨を骨折し、同年9月にはぶどう膜炎を発症して失明の危機に直面したが、いずれも軽症で済んだ。
2005年には完全に復調し、FW佐藤寿人への精度の高いクロスで多くのチャンスを演出し、右サイドバックながら9アシスト(非公式記録)を記録した。利き足である右足から放たれる、FWの動きに合わせた鋭いアーリークロスは彼の大きな武器であり、当時の専門誌では「クロスボール部門」でJリーガー第1位に選ばれるほどだった。
2007年、広島はJ1で16位に終わり、J1・J2入れ替え戦の末にJ2降格が決定した。このオフシーズンに広島からの慰留に加え、ジュビロ磐田とヴィッセル神戸からもオファーを受けた駒野は、ジュビロ磐田への移籍を決断した。佐藤寿人は入れ替え戦敗戦後、サポーターに残留を示唆するメッセージを発し、チームメイトにも残留を呼びかけたが、日本代表の主力であった駒野だけは直接慰留することができなかったと語っている。結果的に、当時期限付き移籍中だったウェズレイを除き、駒野が唯一広島を退団した主力選手となった。
2.3. ジュビロ磐田時代
2008年シーズンにジュビロ磐田へ完全移籍。2009年からは、退団した田中誠の背番号「5」を引き継ぎ、広島在籍時と同じ背番号でプレーすることになった。ポジションはMFからDF(サイドバック)に変更された。
移籍後も磐田で主力として活躍したが、2年連続でJ1残留争いを経験。2009年末には古巣の広島からの復帰要請に前向きな姿勢を見せたものの、広島の資金難により復帰は立ち消えとなり、磐田に残留することとなった。
2010年には右サイドバックとして活躍を続けたが、同年10月の韓国代表戦で右上腕骨を骨折。この怪我により、磐田が12年ぶりに優勝を決めたナビスコカップ決勝戦を含むシーズン終盤の試合を欠場した。
2011年にはJ1全試合にフル出場し、FW前田遼一との好連携でリーグ最多のアシストを記録(非公式記録)。2012年1月にはベルギー1部リーグのシント=トロイデンVVへの移籍で基本合意に至ったが、磐田との契約期間が残っていたことや、移籍金などの条件が折り合わず、移籍は頓挫し磐田への残留が決まった。
2012もリーグ戦全試合に出場し、自身初のJリーグベストイレブンに選出された。
2013年シーズンは監督森下仁志による新布陣採用に伴い、サイドバックからウイングバックにポジションを上げた。しかし、これがチームに奏功せず、チームは低迷。駒野は主将を務め、J1通算350試合出場を達成したが、クラブ史上初となるJ2降格を喫した。自身にとって3度目のJ2降格となった。
2015年シーズン後半には宮崎智彦に左サイドバックのレギュラーポジションを奪われたが、第33節群馬戦では途中出場から直接フリーキックによる決勝点を挙げ、ベテランとしてチームを支え、磐田のJ1昇格に貢献した。磐田からは契約延長を打診されたものの、若返りを理由に単年契約でのオファーだったこともあり、退団を決意した。
2.4. FC東京、アビスパ福岡時代
2016年、FC東京へ完全移籍。同年2月9日に行われた2016年シーズン初戦のAFCチャンピオンズリーグ2016プレーオフ、チョンブリーFC戦でスタメン出場し、自身初のACL出場を果たした。しかし、続く全北現代モータース戦で肉離れを起こし、リーグ開幕戦は欠場した。同年4月3日にはJ3リーグ第3節ブラウブリッツ秋田戦でFC東京U-23の一員としてJ3の試合に初出場した。
怪我や若手の小川諒也の台頭もあり、リーグ戦出場は1試合に留まった。2016年7月3日、アビスパ福岡へ期限付き移籍。福岡では多くの試合に出場したが、チームは2016シーズンを最下位で終え、J2降格となった。
2016年11月22日、FC東京との契約満了が発表され、2017年1月6日には期限付き移籍先であった福岡へ完全移籍することが発表された。2017年10月22日のジェフユナイテッド市原・千葉戦でJリーグ通算500試合出場を達成した。2018年には出場機会が減少したため、同年11月25日に福岡との契約満了が発表され、チームを離れることになった。
2.5. FC今治時代と現役引退
2019年1月4日、2010 FIFAワールドカップで日本代表監督を務めた岡田武史が代表を務め、サンフレッチェ広島時代の監督だった小野剛が監督を務めるFC今治(当時JFL所属)へ入団。同年シーズンにはJFLベストイレブンに選出される活躍を見せた。
FC今治で2020年からはJ3リーグに所属し、選手生活の晩年を過ごした。2022年10月11日、23年間のプロサッカー選手としてのキャリアに幕を下ろし、同年をもって現役引退することを発表した。
3. 日本代表でのキャリア
駒野友一は、各年代の日本代表チームでプレーし、A代表(フル代表)では2度のFIFAワールドカップに出場するなど、長年にわたり代表の主軸として貢献した。
3.1. 各年代別代表チーム
駒野は年代別代表チームにおいて、左右のサイドバックとしてプレーした。
1999年にはU-18日本代表としてSBSカップ 国際ユースサッカーに出場し優勝を経験。2000年にはU-19日本代表としてAFCユース選手権で準優勝。2001年にはU-20日本代表としてFIFAワールドユース選手権に出場したが、グループリーグで敗退した。
2002年にはU-21日本代表としてアジア競技大会に出場し、銀メダルを獲得した。
2004年にはU-23日本代表としてアテネオリンピックに選出されたが、グループリーグのガーナ戦で左鎖骨を骨折するアクシデントに見舞われた。
3.2. フル代表デビューと主要大会
A代表(フル代表)には、2005年の東アジア選手権で負傷した三浦淳宏に代わって初招集され、2005年8月3日の中国戦で国際Aマッチデビューを果たした。その後は主にDF加地亮のバックアッパーとして定着し、2006年のFIFAワールドカップメンバーに選出された。これは追加招集の茂庭照幸と共に、アテネ世代からの数少ない選出だった。
本大会では加地の負傷により、初戦のオーストラリア戦に先発出場した。この試合では同点に追いつかれた直後、ペナルティエリア内でドリブルを仕掛け、相手DFに倒され、あわやPK獲得というチャンスを作った(後にFIFAの審判委員会がPKに値する誤審だったと認めた)。しかし、守備で振るわず逆転負けを喫し、加地が復調した第2戦以降は控えに回った。
2006年から2007年にかけてのイビチャ・オシム体制下では、そのスピード(脚力や瞬発力だけでなく、的確な状況判断の速さも含む)を評価され、左サイドバックおよび左ウイングバックの主力として重用された。しかし、オシムの後任である岡田武史監督の下では、DF内田篤人や長友佑都といった若手選手の台頭により、再び控えに回ることになった。
2007年のAFCアジアカップでは、出場停止となった1試合を除く全ての日本代表戦に出場した。
3.3. 2010 FIFAワールドカップでの活躍とPK戦
2010年開催のFIFAワールドカップでは、大会直前に行われた強化試合のコートジボワール戦でDF今野泰幸が負傷したこともあり、堅実なプレーで再びレギュラーポジションを掴んだ。本大会のグループリーグ3試合と決勝トーナメント1試合の計4試合全てに右サイドバックとして先発出場した。
大会中を通して好調を維持し、スプリント数においては日本代表では駒野と本田圭佑だけが4試合全てで100回超を記録。特にカメルーン戦では時速25.77 km/hを記録するなど、攻守に献身的な働きで日本の決勝トーナメント進出に大きく貢献した。
決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦では、相手陣内深く攻め上がり再三クロスを上げるなどチャンスを演出し、パラグアイに押し込まれた時間帯には体を張った守備でピンチの芽を摘むなど、豊富な運動量でチームの完封に貢献した。しかし、延長戦でも決着がつかずPK戦に突入。駒野は3人目のキッカーを任されたが、シュートがクロスバーを直撃し、失敗に終わった。パラグアイは全てのPKを成功させたため、日本はベスト8進出を逃した。
このPK失敗は駒野にとって非常に悔しい結果となったが、帰国後には和歌山県知事からその功績と努力を称えられ、「功労メダル」を授与された。
2010年8月以降のアルベルト・ザッケローニ体制下では、再び内田篤人や長友佑都の控えに回ることが多かった。しかし、2011年10月11日のFIFAワールドカップ3次予選のタジキスタン戦では、国際Aマッチ初得点を含む1ゴール2アシストの活躍を見せた。通算65試合目の出場での初得点は、ゴールキーパーを除く日本のフィールドプレーヤー史上最も遅い記録となった。
2013年の東アジアカップでは、これまでの代表への高い貢献度が評価され、チームキャプテンを任された。第1戦の中国戦では2失点に絡んだものの、急造チームに一体感を生み出し、日本の同大会初優勝に貢献した。ザッケローニ監督からはチームに献身する姿勢を「本当のプロフェッショナル」と称賛されていた。
しかし、2014年のFIFAワールドカップでは、予備登録の30名には選ばれたものの、最終的な23名のメンバーからは外れ、自身3度目の本大会出場は叶わなかった。彼の国際Aマッチの出場数は78試合、1得点であった。
4. プレースタイルと人物像
4.1. プレースタイル
駒野友一は主に右サイドバックとしてプレーしたが、ミッドフィールダーやウイングバックとしても起用された。最大の武器は、利き足である右足から放たれる高精度なクロスボールであった。特にフォワードの動きに合わせて鋭く曲がり落ちるアーリークロスは、当時の専門誌でJリーグにおける「クロスボール部門」で第1位に選ばれるほど評価が高かった。
守備面では、豊富な運動量と献身的なプレーが特徴で、攻守両面においてチームに貢献するバランスの取れた選手だった。
4.2. エピソードとパーソナルライフ
駒野は利き足が右だが、利き腕は左利きである。サインは右手で書くが、野球は左投げ左打ち、趣味のゴルフも左打ちである。
実弟の森川祐輝(旧姓・駒野)もアマチュアサッカー選手として関西リーグ1部のパナソニックエナジー洲本サッカー部に所属していた。
彼はチームメイトやメディアから「コマちゃん」「コマ」といった愛称で親しまれ、いじられキャラとして知られていた。『やべっちFC』では中山雅史に「駒吉」と呼ばれるなど、多くの逸話がある。2014年にジュビロ磐田でチームメイトとなった松井大輔は、入団会見で「チームの中で1年間駒野をずっといじっていこうかなと思っています」と語った。
2度のワールドカップでも着用した日本代表の背番号「3」に強いこだわりを持っており、2012年に本田圭佑から3番を譲ってほしいと頼まれた際もこれを拒否したため、本田は4番に定着した。
2014年からは「ふるさとアスリート」としてよしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属していた。
5. 現役引退後の活動
プロサッカー選手引退後の2023年4月より、古巣であるサンフレッチェ広島のアカデミー普及部コーチに就任し、若手の育成に携わっている。
2023年10月24日には、長年の功績が称えられ、Jリーグ功労選手賞を受賞した。
2025年2月からはサンフレッチェ広島アカデミーのユースコーチに就任することが発表されている。
6. 統計
6.1. クラブ
駒野友一のクラブキャリアにおける出場試合数と得点記録は以下の通りである。
クラブ | シーズン | リーグ | ナショナルカップ | リーグカップ | 大陸大会 | 合計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ディビジョン | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
サンフレッチェ広島 | 2000 | J1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | - | 4 | 0 | |
2001 | 24 | 1 | 2 | 0 | 3 | 0 | - | 29 | 1 | |||
2002 | 27 | 1 | 4 | 0 | 2 | 0 | - | 33 | 1 | |||
2003 | J2 | 23 | 0 | 0 | 0 | - | - | 23 | 0 | |||
2004 | J1 | 18 | 1 | 1 | 0 | 3 | 0 | - | 22 | 1 | ||
2005 | 34 | 2 | 1 | 0 | 4 | 0 | - | 39 | 2 | |||
2006 | 31 | 2 | 2 | 0 | 1 | 0 | - | 34 | 2 | |||
2007 | 34 | 2 | 5 | 1 | 3 | 0 | - | 42 | 3 | |||
合計 | 191 | 9 | 16 | 1 | 19 | 0 | - | 226 | 10 | |||
ジュビロ磐田 | 2008 | J1 | 34 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | - | 35 | 2 | |
2009 | 34 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | - | 36 | 1 | |||
2010 | 23 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | - | 27 | 0 | |||
2011 | 34 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | 38 | 2 | ||
2012 | 34 | 3 | 1 | 0 | 4 | 0 | - | 39 | 3 | |||
2013 | 34 | 2 | 2 | 0 | 4 | 1 | - | 40 | 3 | |||
2014 | J2 | 35 | 3 | 2 | 0 | - | - | 37 | 3 | |||
2015 | 29 | 1 | 0 | 0 | - | - | 29 | 1 | ||||
合計 | 257 | 13 | 6 | 0 | 17 | 2 | 1 | 0 | 281 | 15 | ||
FC東京 | 2016 | J1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 |
FC東京U-23 | 2016 | J3 | 4 | 0 | - | - | - | 4 | 0 | |||
アビスパ福岡 | 2016 | J1 | 12 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 12 | 1 | |
2017 | J2 | 39 | 1 | 0 | 0 | - | - | 39 | 1 | |||
2018 | 24 | 1 | 1 | 0 | - | - | 25 | 1 | ||||
合計 | 75 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | - | 76 | 3 | |||
FC今治 | 2019 | JFL | 29 | 1 | - | - | - | 29 | 1 | |||
2020 | J3 | 24 | 1 | - | - | - | 24 | 1 | ||||
2021 | 23 | 0 | 1 | 1 | - | - | 24 | 1 | ||||
2022 | 17 | 0 | - | - | - | 17 | 0 | |||||
キャリア通算 | 621 | 27 | 24 | 2 | 36 | 2 | 3 | 0 | 684 | 31 |
6.2. 日本代表
駒野友一の日本代表における出場試合数と得点記録は以下の通りである。
代表チーム | 年 | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
日本 | 2005 | 5 | 0 |
2006 | 10 | 0 | |
2007 | 12 | 0 | |
2008 | 13 | 0 | |
2009 | 9 | 0 | |
2010 | 11 | 0 | |
2011 | 7 | 1 | |
2012 | 5 | 0 | |
2013 | 6 | 0 | |
通算 | 78 | 1 |
6.3. 国際Aマッチでの得点
駒野友一が日本代表として記録した国際Aマッチでの唯一のゴールは以下の通りである。
No. | 開催日 | 開催地 | 対戦相手 | スコア | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2011年10月11日 | 長居スタジアム、大阪市、日本 | タジキスタン | 3-0 | 8-0 | 2014 FIFAワールドカップ・アジア3次予選 |
6.4. 出場歴
駒野友一のキャリアにおける重要な出場試合数の節目や、特筆すべき公式戦初出場、初得点などの記録は以下の通りである。
- 2000年3月25日:公式戦初ベンチ入り - J1・1stステージ第3節 vs川崎フロンターレ(等々力陸上競技場)
- 2000年4月12日:公式戦初出場 - ナビスコカップ1回戦第1戦 vsモンテディオ山形(山形県総合運動公園陸上競技場)
- 2001年3月31日:Jリーグ初出場 - J1・1stステージ第3節 vsコンサドーレ札幌(広島ビッグアーチ)
- 2001年5月19日:Jリーグ初得点 - J1・1stステージ第10節 vs東京ヴェルディ1969(広島スタジアム)
- 2005年11月20日:J1 100試合出場達成 - J1第31節 vs横浜F・マリノス(日産スタジアム)
- 2008年11月23日:J1 200試合出場達成 - J1第32節 vs柏レイソル(ヤマハスタジアム)
- 2012年4月21日:J1 300試合出場達成 - J1第7節 vs横浜F・マリノス(ヤマハスタジアム)
- 2013年8月28日:J1 350試合出場達成 - J1第23節 vsアルビレックス新潟(東北電力ビッグスワンスタジアム)
- その他の公式戦**
7. 栄誉
駒野友一は、そのキャリアを通じてクラブ、代表、そして個人として数々の栄誉を獲得した。
7.1. クラブ
- Jリーグカップ: 2010 (ジュビロ磐田)
- スルガ銀行チャンピオンシップ: 2011 (ジュビロ磐田)
7.2. 代表チーム
- SBSカップ 国際ユースサッカー: 1999、2000 (U-18日本代表、U-19日本代表)
- ジャパンユースカップ: 2001 (U-20日本代表)
- アジア競技大会 サッカー 銀メダル: 2002 (U-21日本代表)
- EAFF東アジアカップ: 2013 (日本代表)
7.3. 個人
- Jリーグ優秀選手賞: 2005、2007、2012
- Jリーグベストイレブン: 2012
- JFLベストイレブン: 2019
8. 評価と影響
駒野友一は、その長きにわたるキャリアと献身的なプレーで、日本のサッカー界に大きな影響を与えた選手として評価されている。特に、サンフレッチェ広島での主力としての活躍や、ジュビロ磐田のJ1昇格への貢献は、所属クラブにおける彼の存在の大きさを物語っている。
また、2010 FIFAワールドカップのPK戦での失敗という厳しい経験を経ながらも、帰国後には和歌山県からその功績と努力を称える「スポーツ特別賞」を受賞したことは、彼の人間性やプロフェッショナルとしての姿勢が広く認められていたことの証である。
引退後も、古巣のサンフレッチェ広島のアカデミーで若手指導に携わるなど、サッカー界への貢献を続けている。2023年には、長年の功績が評価され、Jリーグ功労選手賞を受賞し、彼の日本サッカーへの多大な貢献が改めて称えられた。