1. 概要
黒崎久志(くろさき ひさし、Hisashi Kurosaki英語)は、栃木県鹿沼市(旧:上都賀郡粟野町)出身の元サッカー日本代表選手であり、現在はサッカー指導者として活動している。現役時代のポジションは主にFWだったが、MFとしてもプレーした。特に鹿島アントラーズでの活躍が知られ、Jリーグの黎明期を牽引した選手の一人である。指導者としては、JFA公認S級コーチの資格を持ち、アルビレックス新潟の監督や大宮アルディージャのヘッドコーチなどを歴任した。また、海外ではドイツでの研修経験があり、近年は中国サッカー・スーパーリーグのチームで監督やヘッドコーチを務めている。1992年から1999年の間は、登録名を「黒崎 比差支」(読みは同じ)としていた。
2. 選手経歴
黒崎久志のサッカー選手としてのキャリアは、高校時代からプロフェッショナルとして引退するまで多岐にわたる。
2.1. 初期キャリアとアマチュア時代
黒崎は少年時代から将来を嘱望される選手であり、アマチュア時代には全国レベルでの活躍を見せた。
2.1.1. ユース時代
宇都宮学園高校(現:文星芸大付高)時代からその才能は際立っていた。彼は全国高等学校サッカー選手権大会に2度出場している。2年生だった1986年1月の第64回大会では、1学年先輩の小泉淳嗣と共に準々決勝で3連覇を目指す帝京高校を破り、ベスト4に進出した(準決勝で江尻篤彦や真田雅則が所属する清水商業高校に敗退)。この大会で黒崎は5得点を挙げ、大会得点王に輝いた。翌1987年1月の第65回大会では、1学年下のDF根岸誠一と共にプレーし、準々決勝で室蘭大谷高校と激戦を繰り広げた。PK戦の途中でテレビ中継が終わるほどの死闘となり、最終的に14-15で敗れた。高校時代のクラスメートによると、授業中はほとんど昼寝をしていたにもかかわらず、成績は常に優秀だったという。
2.1.2. 本田技研工業時代
高校卒業後、1987年に日本サッカーリーグ(JSL)1部所属の本田技研工業サッカー部(現:Honda FC)に入団した。同期入社には古川昌明や北澤豪がいた。本田技研がJリーグへの不参加を表明した1992年、黒崎は師と仰ぐ前監督の宮本征勝や同学年の長谷川祥之、1年後輩の本田泰人、そして黒崎を追って本田技研に入社した根岸誠一と共に鹿島アントラーズへ移籍した。鹿島の母体であったJSL2部の住友金属工業蹴球団は、Jリーグでの競争力強化のために戦力補強を必要としており、本田技研からの移籍組は日本人選手の中核として歓迎された。ただし、根岸は1993年のJリーグ開幕前に退団している。
2.2. プロクラブでのキャリア
Jリーグ発足後、黒崎は複数のプロサッカークラブで活躍し、そのキャリアの全盛期を築いた。
2.2.1. 鹿島アントラーズ
鹿島アントラーズでは、1992年の移籍後、登録名を本名の「黒崎 久志」から「黒崎 比差支」に改名し、2000年に本名に戻すまでこの名前を使用した。長身の長谷川祥之と共に2トップを組み、日本人エースとして活躍。Jリーグ黎明期の鹿島アントラーズを牽引する存在となった。この時期、チームは多くの成功を収め、1996年にはJ1リーグで優勝を果たした。さらに1997年にはJリーグカップと天皇杯も制覇し、日本スーパーカップも獲得した。しかし、増田忠俊や柳沢敦の台頭により、徐々に出場機会が減少していった。黒崎は鹿島に6年間在籍した。
2.2.2. 京都パープルサンガ、ヴィッセル神戸
1998年、京都パープルサンガへ移籍した黒崎は、その年に13得点を挙げる活躍を見せた。しかし、翌1999年には出場機会が減少した。2000年にはヴィッセル神戸に移籍したが、ここでは目立った成績を残すことはできなかった。
2.2.3. アルビレックス新潟、大宮アルディージャ
2001年にアルビレックス新潟へ移籍すると、チームトップとなる21得点を挙げる活躍を見せた。2002年からは大宮アルディージャに移籍し、2003年シーズン終了後に現役を引退した。
2.3. 日本代表でのキャリア
黒崎久志はサッカー日本代表としてもプレーした。1989年5月5日の韓国戦で代表デビューを果たした。その後、1990 FIFAワールドカップ予選や1990年アジア競技大会にも出場した。1993年には3年ぶりに日本代表に選出されたが、同じ長身FWである高木琢也とのポジション争いに敗れ、目立った実績は残せなかった。しかし、1995年に香港で開催されたダイナスティカップでは、大会不参加の三浦知良に代わって招集され、大会得点王に輝いた。日本代表としては、1997年までに国際Aマッチ24試合に出場し、4得点を記録している。
2.4. 選手成績
黒崎久志のプロキャリアにおけるクラブおよび日本代表での主要な成績は以下の通りである。
クラブパフォーマンス | リーグ | カップ | リーグカップ | 合計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
日本 | リーグ | 天皇杯 | Jリーグカップ | 合計 | ||||||
1987-88 | 本田技研工業 | JSL1部 | 18 | 2 | 2 | 0 | 3 | 0 | 23 | 2 |
1988-89 | 22 | 7 | 2 | 1 | 0 | 0 | 24 | 8 | ||
1989-90 | 21 | 11 | 2 | 2 | 0 | 0 | 23 | 13 | ||
1990-91 | 16 | 7 | 1 | 0 | 17 | 7 | ||||
1991-92 | 18 | 4 | 4 | 9 | 22 | 13 | ||||
1992 | 鹿島アントラーズ | J1 | - | 3 | 5 | 8 | 4 | 11 | 9 | |
1993 | 30 | 11 | 5 | 3 | 0 | 0 | 35 | 14 | ||
1994 | 30 | 10 | 0 | 0 | 1 | 0 | 31 | 10 | ||
1995 | 39 | 11 | 0 | 0 | - | 39 | 11 | |||
1996 | 19 | 6 | 2 | 0 | 14 | 3 | 35 | 9 | ||
1997 | 26 | 10 | 2 | 0 | 5 | 3 | 33 | 13 | ||
1998 | 京都パープルサンガ | J1 | 27 | 13 | 2 | 4 | 4 | 3 | 33 | 20 |
1999 | 14 | 3 | 1 | 0 | 1 | 0 | 16 | 3 | ||
2000 | ヴィッセル神戸 | J1 | 17 | 5 | 4 | 1 | 0 | 0 | 21 | 6 |
2001 | アルビレックス新潟 | J2 | 44 | 21 | 4 | 2 | 2 | 0 | 50 | 23 |
2002 | 大宮アルディージャ | J2 | 35 | 7 | 3 | 1 | - | 38 | 8 | |
2003 | 25 | 2 | 3 | 1 | - | 28 | 3 | |||
総通算 | 401 | 130 | 35 | 20 | 43 | 22 | 479 | 172 |
その他の公式戦:
- 1990年 コニカカップ: 1試合0得点
- 1991年 コニカカップ: 7試合4得点
- 1993年 Jリーグチャンピオンシップ: 2試合0得点
- 1996年 サントリーカップ: 1試合0得点
国際大会:
- アジアクラブ選手権: 4試合1得点
日本代表での国際Aマッチ出場記録:
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1989 | 7 | 1 |
1990 | 2 | 0 |
1991 | 0 | 0 |
1992 | 0 | 0 |
1993 | 1 | 0 |
1994 | 1 | 0 |
1995 | 10 | 3 |
1996 | 2 | 0 |
1997 | 1 | 0 |
総計 | 24 | 4 |
国際Aマッチ得点:
# | 開催日 | 開催地 | 会場 | 対戦相手 | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1989年6月11日 | 東京都 | 国立西が丘サッカー場 | インドネシア | 5-0 | 1990 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
2 | 1995年2月21日 | 香港 | 韓国 | 1-1 | ダイナスティカップ | |
3 | 1995年2月23日 | 香港 | 中国 | 2-1 | ダイナスティカップ | |
4 | 1995年6月10日 | ノッティンガム | スウェーデン | 2-2 | アンブロカップ |
2.5. 選手としての個人タイトル・受賞歴
黒崎久志が選手として獲得した主な個人タイトルと受賞歴は以下の通りである。
- 1995年 ダイナスティカップ(現 EAFF E-1サッカー選手権)得点王
- 2009年 アントラーズ功労賞
3. 指導者経歴
選手引退後、黒崎久志はサッカー指導者としての道を歩み、国内外で様々な役職を歴任してきた。
3.1. 指導者資格と初期の活動
現役引退後の2004年にはJFA公認B級コーチライセンスを取得し、古巣である鹿島アントラーズのジュニアユースコーチに就任した。同年にはブラジルへ遠征するU-15日本代表のコーチも務めた。2004年から2005年にかけては日本サッカー協会ナショナルトレセンコーチとして活動し、2005年からは鹿島アントラーズユースのコーチを務めた。そして2006年には、より上位の指導者資格であるJFA公認S級コーチライセンスを取得した。
3.2. アルビレックス新潟監督時代
2007年より、再び古巣であるアルビレックス新潟のトップチームコーチに就任した。2009年にはヘッドコーチに昇格し、2010年には監督に就任した。
監督就任当初は開幕から8試合未勝利と低迷したが、第9節でヴィッセル神戸に2-1で勝利すると、そこから2004年以来となるリーグ戦4連勝を果たし、最終的に11試合無敗記録を樹立した。このシーズンは9位でリーグ戦を終えた。
2011年シーズンは開幕から5試合無敗と好スタートを切ったものの、5月から6月にかけては9試合勝利がないなど苦戦が続いた。残り7試合となった第27節終了時点ではJ2降格圏の16位ヴァンフォーレ甲府と勝ち点2差まで迫られたが、その後の3連勝で持ち直し、第32節でガンバ大阪と引き分けてJ1残留を決定した。しかし、11月には公式戦5試合で1分4敗と成績が振るわず、この中には第91回天皇杯全日本サッカー選手権大会3回戦で日本フットボールリーグ(JFL)所属の松本山雅FCに敗れた試合も含まれる。最終的には前年を下回る14位でシーズンを終えた。
2012年シーズンも新潟の監督を続投したが、開幕からのリーグ戦3連敗や、第12節でジュビロ磐田に1-6と大敗するなど不調が続き、12節終了時点で2勝3分7敗の17位と低迷した。この結果を受け、5月21日に新潟の監督を辞任した。これはクラブ史上初のシーズン途中での監督交代であった。
3.3. 大宮アルディージャでのコーチ経験
アルビレックス新潟の監督辞任後、2013年2月1日に古巣である大宮アルディージャの地域プロデュース部インストラクターに就任することが発表された。同年6月6日には大宮のトップチームコーチに就任。さらに2014年9月5日にはヘッドコーチに就任した。しかし、2017年5月28日、成績不振を理由に、監督の渋谷洋樹と共にヘッドコーチ職を解任された。
3.4. 海外での指導者活動とその他の活動
大宮アルディージャのヘッドコーチ辞任後、黒崎は地元栃木県鹿沼市の「かぬまふるさと大使」に就任し、中学生を対象としたサッカー教室を開催するなど地域貢献活動に携わった。また、スカパー!プレミアムサービスのサッカー解説者も務めた。
2017年12月からは約4か月にわたり、JFA公認指導者の海外派遣プログラムの一環としてドイツに渡り、ブンデスリーガ2部のフォルトゥナ・デュッセルドルフを中心に、同リーグにおける指導法などを学んだ。
2018年6月20日、規律違反により辞任した柳沢敦の後任として、再び鹿島アントラーズのトップチームコーチに就任した。この期間中、彼は同年のAFCチャンピオンズリーグ制覇に貢献した。大岩剛監督の退任に伴い2019シーズンで退任し、2020シーズンは同アカデミースタッフを務めた。
2021年2月には、中国超級リーグの山東泰山の監督に就任したハオ・ウェイに請われ、同クラブのヘッドコーチに就任した。同年のリーグ優勝と中国FAカップの2冠獲得に貢献している。
2023年には、武漢三鎮のアシスタントコーチに就任。そして2024年には、青島西海岸の監督に就任した。
3.5. 監督成績
黒崎久志が監督として指揮したチームの成績は以下の通りである。
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 試合 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | Jリーグカップ | 天皇杯 | |||
2010 | J1 | アルビレックス新潟 | 9位 | 34 | 49 | 12 | 13 | 9 | 予選リーグ敗退(3勝1分2敗) | 4回戦敗退(2勝1敗) |
2011 | 14位 | 34 | 39 | 10 | 9 | 15 | 準々決勝敗退(2勝1敗) | 3回戦敗退(1勝1敗) | ||
2012 | 17位 | 12 | 9 | 2 | 3 | 7 | (予選リーグ途中)(2勝1敗) | - | ||
2024 | 中国超級 | 青島西海岸 | 23 | 5 | 5 | 13 | ||||
総通算 | - | 103 | - | 29 | 30 | 44 |
※ 2012年シーズンは2012年5月21日で解任。順位は12節終了時。
4. 評価と功績
黒崎久志は、その長いキャリアを通じて日本サッカー界に多大な貢献をしてきた。選手としては、Jリーグ草創期の鹿島アントラーズを牽引する中心選手として活躍し、クラブのタイトル獲得に貢献した。特に、フォワードとしての得点能力とリーダーシップは高く評価されている。
指導者としては、JFA公認S級コーチの資格を取得し、若手育成からトップチームの指揮まで幅広い経験を積んだ。アルビレックス新潟では、厳しい状況下でのJ1残留を果たすなど、チームを立て直す手腕を見せた。また、鹿島アントラーズではACL制覇に貢献し、中国リーグでのタイトル獲得も経験するなど、海外での指導者としても実績を残している。
彼の功績は、2009年に贈られた「アントラーズ功労賞」によっても認められている。これは、鹿島アントラーズへの長年の貢献を称えるものである。
5. 関連項目
- 鹿島アントラーズの選手一覧
- 京都サンガF.C.の選手一覧
- ヴィッセル神戸の選手一覧
- アルビレックス新潟の選手一覧
- 大宮アルディージャの選手一覧
- Jリーグ監督経験者
6. 外部リンク
- [https://www.dus.com/ オフィシャルウェブサイト]
- [http://www.jfootball-db.com/en/players/kurosaki_hisashi.html Japan National Football Team Database]
- [https://data.j-league.or.jp/SFIX07/?staff_id=2845 J.League Data Site]