1. 概要
K. アンデルス・エリクソン(K. Anders EricssonK. アンデルス・エリクソンスウェーデン語、1947年10月23日 - 2020年6月17日)は、スウェーデン出身の心理学者であり、フロリダ州立大学のコンラディ特別栄誉教授を務めました。彼は専門知識と人間の遂行能力に関する心理学的な研究で国際的に評価されています。エリクソンは、卓越したパフォーマーが意図的練習と呼ばれる広範かつ集中的な訓練を通じて、どのようにして優れた能力を習得するのかを解明する核心理論を提唱しました。
彼の研究は、才能が生まれつきのものであるという考えに異を唱え、努力と訓練によって誰でも専門能力を向上させられるという、より民主的な視点を示しました。特に、マルコム・グラッドウェルの著書『アウトライアーズ』で普及した「1万時間の法則」は、エリクソンの1993年の主要論文に基づいているものの、後にエリクソン自身によってその誤解や単純化が批判され、真の専門能力の獲得には練習の「質」が重要であることを強調しました。彼の功績は、認知心理学および能力開発の分野に多大な影響を与え、個人の潜在能力を引き出すための科学的基盤を提供しました。
2. 生涯と教育
K. アンデルス・エリクソンは、スウェーデンで生まれ、その生涯を心理学の研究に捧げました。
2.1. 幼少期と背景
エリクソンは1947年10月23日にスウェーデンで生まれました。彼の初期の人生や家族背景に関する具体的な情報は限られていますが、スウェーデンでの幼少期が彼の学術的関心の基盤を築いたと考えられます。
2.2. 教育
エリクソンはストックホルム大学で学び、1976年に博士号を取得しました。この教育は、後の彼の画期的な研究の基礎となりました。
3. 学術的経歴と研究
K. アンデルス・エリクソンの学術的経歴は、専門知識と人間性能の研究における革新的な貢献によって特徴づけられます。
3.1. 専門知識と意図的練習の研究
エリクソンの研究の中心は、卓越したパフォーマーがいかにしてその優れた能力を習得するかにありました。彼は、医学、音楽、チェス、スポーツといった多様な分野における専門家のパフォーマンスを研究しました。彼の結論は、専門家がその能力を習得するのは生まれつきの才能によるものではなく、むしろ「意図的練習(deliberate practice)」と呼ばれる広範かつ集中的な訓練の量に由来するというものでした。
意図的練習とは、単に反復するだけでなく、自身の快適領域を超えて、高い集中力を維持し、目標を定めてフィードバックを受けながら改善していく練習のことを指します。彼は、特に1993年の論文「The Role of Deliberate Practice in the Acquisition of Expert Performance」において、この核心理論を展開しました。この論文では、熟練したバイオリニストの才能は、10年以上にわたる大量の意図的練習から生まれたと結論付けています。エリクソンの研究は、認知能力、性格、興味、その他の要因が意図的練習と専門家のパフォーマンスの理解と予測にどのように影響するかを探る他の研究を直接補完するものでした。
3.2. 共同研究と理論の発展
エリクソンは、生涯を通じて多くの著名な学者と共同研究を行い、心理学の様々な理論を発展させました。
- ビル・チェイス:ビル・チェイスと共に、エリクソンは習得された例外的な記憶能力の詳細な分析に基づき、「熟練記憶理論(Theory of Skilled Memory)」を開発しました。彼の最も印象的な実験の一つは、ある学生を訓練して、100桁以上の数字列を記憶できるまでに数字幅(digit span)を向上させたことです。
- ハーバート・A・サイモン:エリクソンとハーバート・A・サイモンによる思考の言語報告に関する研究は、『プロトコル分析:データとしての言語報告(Protocol Analysis: Verbal Reports as Data)』という書籍にまとめられ、1993年に改訂されました。
- ウォルター・キントシュ:ウォルター・キントシュと共に、エリクソンは熟練したパフォーマーや記憶の専門家における優れた作動記憶を説明するために、熟練記憶理論を長期記憶の領域に拡張しました。
3.3. 「1万時間の法則」との関係
エリクソンの研究は、後に広く普及した「1万時間の法則」という概念の起源となりましたが、彼はこの法則が誤解されていることを明確にしました。
この概念は、マルコム・グラッドウェルが2008年の著書『アウトライアーズ』で、エリクソンの1993年の研究を引用し、「ある分野で成功するためには約1万時間の努力が必要である」と主張したことで、大衆に広く知られるようになりました。
しかし、エリクソンは後に「この法則はいくつかの点で間違っている」と述べています。彼が1993年の研究で算出した1万時間という数字は、20歳までにバイオリニストたちが達成した意図的練習の「平均時間」に過ぎませんでした。そして、この時点でのバイオリニストたちは「熟練者からはほど遠い」状態であったと指摘しています。さらに、専門家になるために必要な時間は分野によって異なり、また、グラッドウェルが意図的練習と他の種類の練習を区別しなかったことも問題点として挙げられています。エリクソンは、単に時間を費やすだけでなく、質の高い「意図的練習」こそが専門能力の獲得に不可欠であると強調しました。
4. 主要な著作と学術発表
K. アンデルス・エリクソンは、専門知識研究分野を形成する上で極めて影響力のある多数の著作と学術論文を発表しました。
4.1. 単著
- 『PEAK(ピーク):専門能力の科学が明かす驚くべき才能の真実』(原題: Peak: Secrets from the New Science of Expertise):2016年にロバート・プールとの共著で出版されたこの書籍は、意図的練習の概念と、いかにして人間が専門能力を開発できるかについて、一般読者向けに分かりやすく解説しています。
4.2. 主要論文および編著
- Toward a General Theory of Expertise:1991年にジャッキー・スミスとの共同編集で出版されたこの書籍は、専門知識に関する初期の重要な理論的枠組みを提供しました。
- The Road to Excellence: The Acquisition of Expert Performance in the Arts and Sciences, Sports and Games:1996年にエリクソンが編集したこの書籍は、芸術、科学、スポーツ、ゲームといった様々な分野における専門能力獲得の過程を探求しています。
- Expert Performance in Sports: Recent Advances in Research on Sport Expertise:2003年にジャネット・スタークスとの共同編集で出版されたこの書籍は、スポーツにおける専門能力に関する最新の研究成果をまとめました。
- 『ケンブリッジ専門知識・熟達能力ハンドブック』(原題: The Cambridge Handbook of Expertise and Expert Performance):2006年に共編者として出版されたこのハンドブックは、専門知識研究分野における包括的な概論書として広く参照されています。
彼の主要な学術論文には以下のものが含まれます。
- 「The Role of Deliberate Practice in the Acquisition of Expert Performance」(1993年、Psychological Review誌掲載)
- 「Long-term working memory」(1995年、Psychological Review誌掲載、ウォルター・キントシュとの共著)
- 「The Making of an Expert」(2007年、ハーバード・ビジネス・レビュー誌掲載)
5. 受賞と栄誉
K. アンデルス・エリクソンは、その卓越した学術的貢献に対し、いくつかの重要な栄誉と所属機関において評価を受けました。
彼はフロリダ州立大学のコンラディ特別栄誉教授(Conradi Eminent Scholar and Professor of Psychology)に任命され、彼の研究が大学に与えた影響の大きさを物語っています。また、彼はアメリカ心理学会のフェロー(Fellow)でもあり、これは心理学分野における顕著な貢献が認められた研究者に与えられる栄誉です。
6. 死去
K. アンデルス・エリクソンは、2020年6月17日に72歳で死去しました。彼の死去は、心理学と人間の遂行能力研究の分野に大きな喪失をもたらしました。
7. 遺産と評価
K. アンデルス・エリクソンの研究は、心理学、特に認知心理学と能力開発の分野に計り知れない影響を与え、才能や努力に関する大衆の認識にも深く刻まれています。
7.1. 学術的影響
エリクソンの研究は、心理学、特に認知心理学および遂行能力研究の分野に具体的な影響を与えました。彼の「意図的練習」という概念は、専門知識の獲得が先天的な能力よりも、体系的かつ質の高い練習に大きく依存するという理解を確立しました。これにより、研究者たちは、様々な分野で卓越したパフォーマンスがどのように発達するかを、より深く、より科学的に分析できるようになりました。彼の貢献は、後続の研究において、学習、記憶、スキル開発のメカニズムを解明するための新たな道を開きました。また、彼の仕事は、教育学やトレーニング設計の分野にも応用され、より効果的な学習方法や能力開発プログラムの開発に役立てられています。
7.2. 大衆的認識と影響
エリクソンの研究は、学術界にとどまらず、社会全体にも広範な影響を与えました。特に、マルコム・グラッドウェルの『アウトライアーズ』を通じて普及した「1万時間の法則」は、才能と努力に対する一般の人々の理解に大きな影響を与え、「成功は努力の結果である」というメッセージを強化しました。
彼自身は後に、この「1万時間の法則」が持つ誤解や単純化について活発に批判し、単に時間を費やすだけでなく、「意図的練習」の「質」が重要であることを強調しました。この批判は、大衆文化における科学的知見の伝播とその影響について重要な議論を提起しました。エリクソンの仕事は、人々が自分自身の潜在能力を最大限に引き出すためには、いかに集中力と質の高い努力が必要であるかを認識するきっかけとなり、スキル開発や自己改善に対する前向きな意識を醸成しました。これは、才能が一部の人に限定されるという考え方を打ち破り、努力を通じて誰もが成長できるという、より公正で希望に満ちた社会観を促進するものであったと言えます。