1. 概要
さくらももこ(さくら ももこさくら ももこ日本語、本名:三浦 美紀みうら みき日本語)は、1965年5月8日に静岡県清水市(現・静岡市清水区)で生まれ、2018年8月15日に53歳で逝去した日本の著名な漫画家、著作家、随筆家、作詞家である。自身の幼少期をモデルにした代表作『ちびまる子ちゃん』は、漫画のみならずアニメ化され、国民的な人気を博し、その主題歌「おどるポンポコリン」の作詞で日本レコード大賞を受賞するなど、多岐にわたる分野で才能を発揮した。
彼女の作品は、独特の「ヘタウマ」と評される画風と、日常の出来事や家族関係をシニカルかつ温かいユーモアで描く作風が特徴である。『ちびまる子ちゃん』以外にも、『コジコジ』や『永沢君』などの漫画作品、ミリオンセラーを記録した初期エッセイ三部作『もものかんづめ』、『さるのこしかけ』、『たいのおかしら』など、数多くのエッセイを発表し、その独特な文体と人生観で幅広い読者を魅了した。晩年にはゲームキャラクターデザインや地域振興のための活動にも尽力し、その創造性は多方面に及んだ。さくらももこの死去は、日本のみならずアジア各国のファンに大きな衝撃を与え、彼女の作品は没後も世代を超えて愛され続けている。
2. 生涯
さくらももこは、漫画家としてだけでなく、エッセイスト、作詞家としても多大な功績を残し、日本の大衆文化に深く影響を与えた。
2.1. 幼少期と教育
さくらももこは、1965年5月8日、静岡県清水市(現在の静岡市清水区)の八百屋の次女として生まれた。本名は三浦美紀(三浦 美紀みうら みき日本語)であるが、生前は公表を避けていた。
幼少期は、漫画やエッセイに描かれているように、怠け者で勉強に真面目に取り組まなかったため、母親によく叱られていた。しかし、本人は「居眠りで他人に迷惑をかけているわけではない」「万引きや、家庭内暴力みたいに人や物を傷付けたりはしてないので、怒られる筋合いは無い」と反省することはなかったと語っている。17歳までは怠け癖が直らず、母親を泣かせたこともあった。小学校ではそろばん塾やバトントワリングの教室、中学校では学習塾に通っていたが、いずれも苦痛だったと述べている。
清水市立入江小学校(現・静岡市立清水入江小学校)に入学後、1年生の時に生涯の親友となる穂波珠絵(『ちびまる子ちゃん』の穂波たまえのモデル)と出会い、親交を深めていく。この幼少期の経験や友人関係は、後に『ちびまる子ちゃん』の作品世界に色濃く反映されることとなる。
1978年に清水市立入江小学校を卒業し、1981年に清水市立第八中学校(現・静岡市立清水第八中学校)を卒業。1984年には静岡県立清水西高等学校を卒業した。高校在学中、特に2年生の終わり頃から漫画家を目指して『りぼん』への投稿活動を開始した。この夢は、高校3年生の夏に親友の穂波に明かすまでは誰にも語っていなかったが、一部の教師や友人にはそれ以前に気づかれていたという。また、中学・高校時代には、最終的にはエッセイストになりたいという夢も抱いていた。
短大時代には、模擬試験の作文課題で採点者から「清少納言が現代に来て書いたようだ」と評価されるほど作文が得意であった。このことが、彼女がエッセイ漫画へと方向性を定めるきっかけの一つとなった。
2.2. デビューと初期のキャリア
1984年、静岡英和女学院短期大学(現・静岡英和学院大学短期大学部)国文学科在学中に、集英社の『りぼんオリジナル』冬の号に掲載された「教えてやるんだありがたく思え!」(「教師」をテーマとしたオムニバス作品で、『ちびまる子ちゃん』第1巻にも収録)で漫画家としてデビューを果たした。
投稿時代、編集部からは何度もストーリーギャグ漫画への路線変更を勧められたが、さくらはエッセイ漫画での勝負を貫いた。最終的に編集部も彼女の才能を認め、エッセイ漫画でのデビューが実現した。
1986年3月に静岡英和女学院短期大学を卒業後、同年4月に上京し、出版社のぎょうせいに入社した。しかし、漫画の連載が決まっていたこともあり、勤務中に居眠りをするなどして、上司から「会社を取るか、漫画を取るかどちらか選べ」と迫られた。さくらは「漫画家として生活していく」と回答し、同年5月末には入社わずか2か月で退職した。
そして、1986年8月、自身の少女時代をモデルにした『ちびまる子ちゃん』の連載を『りぼん』で開始した。この作品は、作者の幼少期を1970年代の日本の郊外を舞台に描いたもので、瞬く間に読者の心を掴み、さくらももこの作家としてのアイデンティティを確立する代表作となった。
3. 主な作品
さくらももこは、漫画家としてだけでなく、エッセイスト、作詞家、さらにはゲームデザインや雑誌編集など、多岐にわたる創作活動を展開した。
3.1. 漫画
さくらももこは、そのキャリアを通じて数々の漫画作品を世に送り出した。
3.1.1. 『ちびまる子ちゃん』
『ちびまる子ちゃん』は、さくらももこの最もよく知られた代表作である。1986年8月に少女漫画雑誌『りぼん』(集英社)で連載が開始され、作者自身の幼少期をモデルに、1974年の静岡県清水市を舞台とした日常を描いている。作中の主人公「まる子」(本名:さくらももこ)は、作者の分身ともいえる存在で、家族や友人との温かくも時にシニカルなやり取りが多くの読者の共感を呼んだ。
連載開始当初から人気を博し、1990年にはフジテレビ系でアニメ化された。アニメは初回放送で39.9%という驚異的な視聴率を記録し、当時の日本のアニメ番組史上最高視聴率を樹立。社会現象を巻き起こし、アジア各国でも絶大な人気を得た。アニメは1992年9月に一旦終了したが、1995年1月には第2期として放送が再開され、現在に至るまで長期にわたり放送が続いている。単行本の累計発行部数は3000万部を超え、「平成のサザエさん」とも称される国民的漫画となった。
作品の人気は、登場人物たちの個性豊かなキャラクター造形と、子供ならではの純粋な視点から描かれる日常の出来事、そして大人も楽しめる絶妙なユーモアのセンスに起因する。特に、登場人物が驚いたり困惑したりした際に顔に現れる縦線(「汗たら縦線」と称される)は、台湾の若者の間で同様の感情を表すスラングになるほど有名である。
さくらももこは、アニメの脚本も自ら手掛けた(1991年 - 1999年4月)。彼女の死後も、かつてアニメ用に書き下ろした脚本を基に、さくらプロダクション所属のアシスタント・小萩ぼたんの作画による新作漫画が『りぼん』で不定期連載されている。
3.1.2. その他の漫画シリーズ
さくらももこは、『ちびまる子ちゃん』以外にも、多様なテーマと作風の漫画作品を発表している。
- 『神のちから』(1989年 - 1992年、ビッグコミックスピリッツ、小学館):『ちびまる子ちゃん』とは異なる、ナンセンスで不条理なギャグを追求した作品。
- 『永沢君』(1993年 - 1995年、ビッグコミックスピリッツ、小学館):『ちびまる子ちゃん』に登場する永沢君を主人公にしたスピンオフ作品。彼の視点から描かれる日常が、独特のユーモアで表現されている。2013年には実写ドラマ化もされた。
- 『コジコジ』(1994年 - 1997年、きみとぼく→りぼん、ソニー・マガジンズ→集英社):シュールで哲学的なファンタジー作品。登場人物たちが繰り広げる奇妙な会話や、人生の真理を突くようなセリフが特徴で、アニメ化もされた(1997年 - 1999年)。
- 『スーパー0くん』(2001年 - 2002年、小学一年生、小学館):小学生向けの雑誌に連載された作品。
- 『神のちからっ子新聞』(2004年 - 2008年、ビッグコミックスピリッツ、小学館):『神のちから』の続編。
- 『ひとりずもう』(2006年 - 2007年、ビッグコミックスピリッツ、小学館):自身の学生時代を赤裸々に描いた自伝的エッセイの漫画化作品。漫画家を志す過程や、内向的な性格が描かれている。
- 『4コマちびまる子ちゃん』(2007年 - 2011年、中日新聞・東京新聞ほか):主要な地方紙に連載された4コマ漫画。2011年東北地方太平洋沖地震の際には、作品を通じて被災者へのメッセージを発信した。
- 『まんが倶楽部』(2015年 - 2016年、グランドジャンプ、集英社):さくらももこが生前に発表した最後の長編連載漫画。
- 『ちびしかくちゃん』(2016年 - 2018年、グランドジャンプ、集英社):『ちびまる子ちゃん』のセルフパロディ作品。元のキャラクターを意図的に「意地悪」に描くなど、よりブラックユーモアの強い作風が特徴で、読者の間で賛否が分かれた。この作品が彼女の最後の連載漫画となった。
3.2. エッセイ・執筆活動
さくらももこは、漫画家としての活動と並行して、エッセイストとしても絶大な人気を誇った。彼女の文章は、独特の視点と歯に衣着せぬ語り口、そして毒気を含んだ比喩表現が特徴で、読者を魅了し続けた。
1991年3月に発表された初の単独エッセイ集『もものかんづめ』(集英社)は、発売からわずか3年で200万部を超えるミリオンセラーを記録した。続く『さるのこしかけ』(1992年)と『たいのおかしら』(1993年)もそれぞれ100万部以上を売り上げ、初期エッセイ三部作として知られている。これらの成功により、さくらももこは日本を代表するベストセラーエッセイストの一人となった。
エッセイでは、家族や親しい友人に対しても率直な物言いで綴られており、時に自虐的な表現も用いられた。例えば、『もものかんづめ』の「メルヘン翁」で祖父の死を扱った際に批判が寄せられたことに対し、彼女は「私は自分の感想や事実に基づいた出来事をばからしくデフォルメする事はあるが美化して書く技術は持っていない。それを嫌う人がいても仕方ないし、好いてくれる人がいるのもありがたい事である」と自著で述べている。
2000年代以降のエッセイでは、過去の体験談に加えて、直近の体験や仕事に基づいた内容が主流となり、絵日記形式の作品も増えた。初期のエッセイに見られた自嘲的な表現は後年、家族や他者への恨み節が混ざった表現も見られるようになった。エッセイの挿絵では、両親が執筆当時の実年齢に関わらず『ちびまる子ちゃん』時代の姿で描かれることが多かった。
主なエッセイ集は以下の通りである。
- 『もものかんづめ』(1991年、集英社)
- 『ももこのしゃべりことば』(1992年、ニッポン放送)
- 『さるのこしかけ』(1992年、集英社)
- 『たいのおかしら』(1993年、集英社)
- 『ももこのいきもの図鑑』(1994年、マガジンハウス)
- 『そういうふうにできている』(1995年、新潮社)
- 『あのころ』(1996年、集英社)
- 『ももこの世界あっちこっちめぐり』(1997年、集英社)
- 『まる子だった』(1997年、集英社)
- 『赤ちゃん日記-First year memories』(1997年、小学館)
- 『ももこの話』(1998年、集英社)
- 『憧れのまほうつかい』(1998年、新潮社)
- 『ももこのおもしろ健康手帖』(1999年、幻冬舎)
- 『さくら日和』(1999年、集英社)
- 『のほほん絵日記』(2000年、集英社)
- 『ツチケンモモコラーゲン』(2001年、土屋賢二共著、集英社)
- 『ももこのトンデモ大冒険』(2001年、徳間書店)
- 『さくらえび』(2002年、新潮社)
- 『ももこの宝石物語』(2002年、集英社)
- 『ももこのおもしろ宝石手帖』(2003年、幻冬舎)
- 『またたび』(2003年、新潮社)
- 『さくらめーる』(2003年、集英社)
- 『ももこの70年代手帖』(2004年、幻冬舎)
- 『ひとりずもう』(2005年、小学館)
- 『MOMOKO TIMES』(2005年、集英社)
- 『焼きそばうえだ』(2006年、小学館)
- 『おんぶにだっこ』(2006年、小学館)
- 『さくら横丁』(2007年、集英社)
- 『ももこの21世紀日記』No.1 - 8(2002年 - 2008年、幻冬舎)
- 『ももこのまんねん日記』(2010年、集英社)
- 『ももこのまんねん日記 2011』(2011年、集英社)
- 『ももこのまんねん日記 2012』(2012年、集英社)
3.3. 作詞活動
さくらももこは、漫画家やエッセイストとしてだけでなく、作詞家としても数々のヒット曲を生み出した。特に、自身の代表作である『ちびまる子ちゃん』のアニメ主題歌や挿入歌の作詞を多く手掛け、その才能は音楽分野でも高く評価された。
1990年に放送開始されたアニメ『ちびまる子ちゃん』の初代エンディングテーマ「おどるポンポコリン」(歌:B.B.クィーンズ)では作詞を担当し、この曲で第32回日本レコード大賞を受賞した。この楽曲はオリコンチャートで数週間にわたり1位を獲得し、173.00 万 JPY枚以上のCDを売り上げる大ヒットとなった。
また、1991年には西城秀樹が歌う『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマ「走れ正直者」の作詞も手掛けた。西城秀樹は、さくらももこが生涯ファンであった歌手であり、作品中にもまる子の姉がファンという設定でたびたび登場させている。西城の死去(2018年5月)からわずか3ヶ月後にさくらももこも逝去したことは、多くのファンに「西城秀樹を追うように逝った」と語られた。
彼女の作詞活動は、『ちびまる子ちゃん』関連楽曲に留まらず、他のアーティストへの提供も多数にわたる。2012年には桑田佳祐の「100万年の幸せ!!」の作詞を担当し、2015年には『映画ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年』の主題歌「キミを忘れないよ」を大原櫻子のために作詞した。
彼女の死後、2019年にリリースされた斉藤和義の楽曲「いつもの風景」は、さくらももこが生前に作詞したものであり、アニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマとしても使用された。
主な作詞楽曲は以下の通りである。
- 1990年 B.B.クィーンズ 「おどるポンポコリン」
- 1991年 西城秀樹 「走れ正直者」
- 1992年 高橋由美子「だいすき」
- 1993年 藤川なお美 「演歌はぐれ鳥」
- 1995年 渡辺満里奈 「うれしい予感」
- 1995年 たま 「あっけにとられた時のうた」
- 1996年 カヒミ・カリィ 「ハミングがきこえる」
- 1997年 ホフディラン 「コジコジ銀座」
- 1998年 ManaKana 「ちびまる子音頭」
- 1998年 ManaKana 「じゃがバタコーンさん」(作曲も一部担当)
- 1999年 カジヒデキ 「Johnny,Johnny 死ぬほど恋して」
- 2000年 KinKi Kids 「KinKiのやる気まんまんソング」
- 2000年 NHK全国学校音楽コンクール中学校の部課題曲 「こうしていよう」
- 2003年 LOVE JETS 「宇宙大シャッフル」
- 2004年 ちびまる子ちゃん(TARAKO) with 爆チュー問題 (爆笑問題)「アララの呪文」
- 2005年 山上兄弟 「まじかる まじかる てじなーにゃ」
- 2011年 さくらももこの詩による無伴奏混声合唱曲集「ぜんぶ ここに」
- 2012年 桑田佳祐 「100万年の幸せ!!」
- 2012年 松雪陽 「あの日のキミ」
- 2012年 ライム with コジコジバンド 「バイバイベイビー」
- 2013年 坂本冬美 with M2 「花はただ咲く」
- 2013年 ピエール瀧 「まるちゃんの静岡音頭」(静岡市公式音頭)
- 2013年 松雪陽「レッツGOしずおか」
- 2013年 八代亜紀「赤い街」
- 2014年 和田アキ子「すばらしき人よ」(作曲も一部担当)
- 2014年 イエローパープル「ロマンティックタイム」「Loop」
- 2015年 MACO「幸せのはじまり」
- 2015年 けーこ「ワンニャンパラダイス」
- 2015年 ウルフルズ「おーい!!」
- 2015年 大原櫻子「キミを忘れないよ」
- 2015年 けこり「春のうた」
- 2016年 ジャニーズWEST 「ボクら」
- 2016年 BOBヒロオ「GJ8マンのテーマ」・やまたろう「長良川鉄道の夜」
- 2017年 アルバム『One Week』収録の7曲
- 2017年 PUFFY「すすめナンセンス」
- 2017年 ヨシケン「GJ8マン音頭」
- 2018年 パチンコ『CRさくらももこ劇場コジコジ2』収録の2曲
- (作詞時期不明) 斉藤和義「いつもの風景」(2019年リリース)
3.4. その他の創作活動
さくらももこは、漫画やエッセイ、作詞といった主要な活動以外にも、多岐にわたる創造的なプロジェクトに深く関与した。
1999年12月には、自らが編集長を務めた雑誌『富士山』(新潮社)の第1号が発売された。この雑誌は「日本一の雑誌」と称され、故郷静岡県に関する記事や、北野武などの著名人との対談などが掲載された。2000年半ばまでに、最初の2号で68万部を売り上げる成功を収めた。
ゲーム分野では、キャラクターデザインを多数手掛けた。2000年にはマーベラスインタラクティブのドリームキャスト用ソフト『さくらももこ劇場コジコジ』、2002年には任天堂のゲームボーイアドバンス用ソフト『さくらももこのウキウキカーニバル』のキャラクターデザインを担当した。『さくらももこのウキウキカーニバル』では、実姉の三浦範子がゲームの企画・シナリオを手掛けている。2005年にはXbox 360用ソフト『エブリパーティ』のキャラクターデザインも担当した。
また、2005年から2010年にかけて、バリ島に焼きそば店「YAKISOBA UEDA(焼きそばうえだ)」をプロデュースし、看板デザインなども手掛けた。これは彼女が結成した「男子の会」の活動の一環であった。
故郷静岡市への愛着も深く、市の広報活動にも積極的に協力した。2011年以降、「静岡市はいいねぇ。」というシティプロモーションのオリジナルイラストを手掛け、2018年8月7日には『ちびまる子ちゃん』があしらわれたマンホールの蓋2種類を静岡市に寄贈した。これらのマンホールは、彼女の生前最後の作品の一つとされている。その他、都営バスやしずてつジャストラインのラッピング広告、静岡鉄道1000形電車のラッピング車両デザイン、清水まちなか巡回バスのデザインなども手掛け、故郷の魅力を発信し続けた。
2016年からは、岐阜県郡上八幡をテーマにした短編ウェブアニメ『GJ8マン』の企画・脚本・キャラクターデザインを担当し、自身も悪者役で出演した。この作品も彼女の遺作となった。
化粧品メーカーニベアのクリーム容器のイラストも手掛けた。これは当初、日本でのニベア発売50周年を記念した限定版として企画されたものだが、彼女の逝去後、そのイラストは彼女の遺作として発表され、多くの人々に記憶されることとなった。
4. 作風とテーマ
さくらももこの作品は、その独特な画風と、日常に潜むユーモアや人間模様を鋭く、そして温かく描くテーマ性によって、幅広い世代に愛された。
4.1. 画風
さくらももこの絵柄は、「ヘタウマ」(下手だけど味がある、巧い)と評される素朴なタッチが特徴である。デビュー当初は正統派の少女漫画風のタッチであったが、エッセイ漫画へと舵を切った際に、意図的な戦略として現在の独特なタッチへと変更した。人物を描く際には、身体のラインを極力出さないように工夫されており、女性の水着姿であっても、身体のラインを多少膨らませた形状にアレンジすることがあった。
一方で、『ひとりずもう』の漫画版などでは、時折少女漫画風のタッチを用いることもあった。また、『ちびまる子ちゃん』や『コジコジ』の扉絵は、彼女が一時期傾倒していたインドの美術や、敬愛する絵本作家エロール・ル・カインの影響を受け、絵画風の凝ったデザインで描かれることもあった。
4.2. テーマとユーモア
さくらももこの作品の主要なテーマは、自身の子供時代の純粋さ、家族関係、日常の出来事、そしてノスタルジアである。特に『ちびまる子ちゃん』では、1970年代の日本の郊外での生活が、子供の視点を通して生き生きと描かれ、当時の社会を知らない若い読者にも親しみやすさを与えつつ、当時の時代を経験した世代には深い郷愁を呼び起こした。
初期の作品は、学生時代の「あるあるネタ」やほのぼのとした作風が中心であったが、次第にシニカル・ブラックユーモア・不条理ギャグ的な作風も色濃くなっていった。例えば、『ちびまる子ちゃん』の藤木が「卑怯」呼ばわりされたり、永沢が意地悪な性格に変わっていく描写、あるいは登場人物の容姿にまつわるルッキズムともとれる内容や、ネガティブなオチで話が終わる展開などが見られる。これらの作風は、彼女が学生時代に愛読していた漫画雑誌『月刊漫画ガロ』の作風にも通じている。晩年に発表した『4コマちびまる子ちゃん』や『ちびしかくちゃん』ではその傾向が強く、読者の評価もはっきりと分かれる形となった。
漫画家の尾田栄一郎は、さくらももこのユーモアについて「さくらさんは少しいじわるな笑いが大好き。人が持っているムズがゆい部分をつつく。これができるのは、人間が大好きで鋭く見ていて、正直な人。」と評している。エッセイも含めて、「〇〇って一体...」「あたしゃ情けないよ」といった自虐的なフレーズも頻繁に用いられた。
エッセイでは、家族や親しい友人に対しても歯に衣着せぬ物言いで綴られており、毒気を含んだ独特の比喩表現も多く用いられた。例えば、祖父の死を扱ったエッセイ「メルヘン翁」では、読者からの批判もあったが、さくらは「私は自分の感想や事実に基づいた出来事をばからしくデフォルメする事はあるが美化して書く技術は持っていない」と自身の表現スタイルを貫いた。
『神のちから』や『神のちからっ子新聞』では、『ちびまる子ちゃん』とは一線を画すナンセンスさを追求した作風となり、このナンセンスな要素は漫画・アニメ『コジコジ』にも受け継がれている。
5. 人物・交友関係
さくらももこは、その作品を通じて多くの読者に親しまれたが、私生活についてはあまり公に語られることはなかった。しかし、彼女の作品や関係者の証言からは、その人間性や交友関係が垣間見える。
5.1. 家族関係・結婚
さくらももこは、1989年に『りぼん』の担当編集者であった宮永正隆と結婚した。1994年4月には長男の陽一郎(陽一郎よういちろう日本語、後に「さくらめろん」名義で活動)が誕生した。しかし、1998年に宮永と離婚。さくらプロダクションの代表も彼女が務めることとなった。
2003年には、イラストレーターのうんのさしみと再婚した。長男の陽一郎とは非常に親密な関係を築いており、さくらは自身のブログで頻繁に息子のことに言及していた。陽一郎は、さくらの死後、さくらプロダクションの社長職を継承し、作品管理を担当している。
両親や姉との関係は、作品中でユーモラスに描かれているが、実生活でも様々なエピソードがあった。幼少期は姉との喧嘩が絶えず、母親を困らせていたという。成人後、1995年頃には姉と大喧嘩をして2年間絶縁状態に陥ったこともあったが、その後関係を修復した。2002年には姉妹共同でゲームソフトの制作にも携わっている。
5.2. 交友関係・コラボレーション
さくらももこは、漫画家、作家、音楽家など、多岐にわたる分野の著名人と交流があった。
ペンネーム「さくらももこ」は、高校3年生の夏に漫才師か落語家を目指そうと考えていた時期に、自身の好きな花である「さくら」と「もも」を繋げて考案したものである。
高校時代の同級生には、元サッカー日本代表の長谷川健太や放送作家の平岡秀章がいる。長谷川健太は『ちびまる子ちゃん』の登場人物「ケンタ」のモデルとなり、平岡秀章も「ヒラバ」のモデルとなった。また、『ちびまる子ちゃん』の「はまじ」のモデルとなった浜崎憲孝とは親友であり、彼が自伝を出版した際にはさくらが表紙のイラストを書き下ろした。浜崎によると、さくらは小学生時代はかなり内気な性格で、穂波たまえのモデルとなった友人の方が「まる子」に近いキャラクターだったという。さくら自身も、自著で自身を内向的で華のないタイプと評している。
子供の頃、「青島幸男みたいに偉くなりたい。歌を作りたい」と父親に話したが、「国会議員だ、無理に決まっている」と一蹴された。しかし、大人になって彼女が作詞した「おどるポンポコリン」は、その青島幸男が歌うことになった。学生時代には春風亭小朝に弟子入りしようとしたこともある。
西城秀樹の大ファンであり、『ちびまる子ちゃん』の作中では、まる子の姉が西城のファンという設定で何度か登場させている。西城は1991年から1992年にかけて使われたエンディングテーマ曲「走れ正直者」の歌唱も担当した。
高校時代にアマチュア無線技士の免許を取得しており、月刊誌『CQ ham radio』1998年1月号の表紙に『ちびまる子ちゃん』のイラストを寄稿したこともある。
健康法にも関心が高く、飲尿療法、茶葉による水虫治療、ドクダミによる痔の治療など、多くの民間療法を実践していた。30代の時には『ももこのおもしろ健康手帖』を出版している。しかし、一方で大のヘビースモーカーでもあり、自著では「タバコは私に健康の大切さを考えさせ、吸うからにはまず健康を確保しろということに気づかせてくれた」と語っていたが、若くして乳がんを患い、53歳で死去する結果となった。
さくらと交流があった和田アキ子は、さくらの死後に「私よりお酒が強かった」と証言しており、さくら自身も父と祖父が酒豪だった影響で酒に興味を持つようになったと述べている。
彼女の書籍の装丁を多数手掛けたデザイナーの祖父江慎は、さくらももこを「まる子がそのまま大人になったような人物」「面倒臭がり」と評し、「楽しいことにはノリノリだが、義務っぽい雰囲気が出るとすぐ消極的になる」と語っている。小説家の吉本ばななは、普段はまる子そのものな人物でありながら、時折全ての感情を超越して俯瞰しているような、コジコジにも通じる状態を見せることがあったと評している。長男の陽一郎は、彼女を「理屈よりも直感で動くタイプの人で、それが作品にも現れているのではないか」と評している。
宝石商の岡本憲将の著書を読んで以降、宝石に興味を持つようになり、宝石の収集を行った経験をもとに『ももこの宝石物語』『ももこのおもしろ宝石手帖』を出版した。
絶滅危惧種であるビルマホシガメのメス「カメミ」を飼っていた。さくらの没後はiZooに引き取られ、現在も飼育展示されている。
彼女のアシスタントには、小花美穂、小泉晃子、小萩ぼたんなどがいた。特に小萩ぼたんは、さくらの死後、『ちびまる子ちゃん』の新作漫画の作画を担当している。
6. 死と遺産
さくらももこは、日本の漫画界、文学界、そして大衆文化に多大な影響を与えた。その死は多くの人々に惜しまれ、彼女の遺した作品は今もなお愛され続けている。
6.1. 死去
さくらももこは、2018年8月15日20時29分、乳がんのため53歳で死去した。通夜・告別式は遺族の意向により親族・近親者のみで執り行われ、同年8月27日に死去が公表された。彼女の死は、日本のアニメ・漫画業界にとって「大きな損失」であると評された。
死去が公表された2018年8月27日にフジテレビで放送されたアニメ『ちびまる子ちゃん』では、エンディング直後に「さくらももこ先生のご冥福をお祈りします」と追悼メッセージがナレーション付きで放送された。同年11月16日には、著名人や関係者を対象としたお別れ会「さくらももこさん ありがとうの会」が青山葬儀所にて営まれた。会場は、さくらももこが生前好きだった風船やダリア30,000本で彩られ、TARAKOや桑田佳祐など1000人以上の関係者が参列し、故人を偲んだ。一般向けには、2019年1月から4月にかけて静岡県のエスパルスドリームプラザで追悼個展「さくらももこ ありがとうの会」が開催された。
6.2. 受賞歴・栄誉
さくらももこは、その輝かしいキャリアの中で数々の賞を受賞し、死後も様々な栄誉が贈られた。
- 1989年:『ちびまる子ちゃん』で第13回講談社漫画賞少女部門を受賞。
- 1990年:アニメ『ちびまる子ちゃん』の主題歌「おどるポンポコリン」の作詞で第32回日本レコード大賞を受賞。
- 1992年:エッセイ集『さるのこしかけ』で第27回新風賞を受賞。
- 1992年:『神のちから』で第27回造本装填コンクール「コミックス部門」を受賞。
- 1995年:『そういうふうにできている』で第30回造本装填コンクール「日本図書館協会賞」を受賞。
- 2018年12月:故郷である静岡市から、初の「静岡市市民栄誉賞」を受賞。
- 2021年:『ちびまる子ちゃん』の功績が称えられ、東京アニメアワードフェスティバルの「アニメ功労部門」を受賞。
6.3. 文化的影響・死後の評価
さくらももこの死去は、日本のみならず、彼女の作品が広く親しまれていた中国、台湾、香港、タイなどのアジア諸国でも大きな衝撃をもって報じられた。『ちびまる子ちゃん』は、これらの国々で日本の大衆文化の象徴として認識されており、中国新聞網は同作を「日本とアジア全般の文化アイコン」と評した。ベトナムのテレビ局VTV1は、『ちびまる子ちゃん』がベトナムで出版された初の少女漫画であると報じ、その影響力の大きさを伝えた。
彼女の死後、『ちびまる子ちゃん』の単行本やエッセイは書店で品切れが相次ぎ、集英社は『ちびまる子ちゃん』を含む85万部の緊急増刷を行った。これは、彼女の作品が世代を超えて深く愛されている証拠である。
『りぼん』の相田聡一編集長は、さくらももこの早すぎる死を惜しみつつも、「まる子と仲間たちの笑顔は、子どもから大人まで、読者の心の中で永遠に輝き続ける」とコメントした。まる子の声優を務めるTARAKOも、さくらの死を「早すぎる」と悼みつつ、「まる子というさくら先生の分身を、これからも大切に演じ続けていく」と語った。評論家の中森明夫は、さくらももこの死が平成時代の終わりを告げる象徴的な出来事であり、手塚治虫の死が昭和の終わりを象徴したのと同様であると評した。
多くの漫画家や著名人が、さくらももこへの追悼の意を表した。『ONE PIECE』の作者である尾田栄一郎は、さくらももことの親交を明かし、彼女の死を悼むイラストを公開した。
さくらももこの故郷である静岡市では、2019年に静岡市立清水中央図書館にさくらももこ作品の常設コーナーが設置された。また、2022年11月からは、彼女の没後初となる大規模な展覧会「さくらももこ展」が全国各地で開催され、多くのファンが訪れている。
彼女の作品は、漫画、アニメ、エッセイ、作詞など多岐にわたり、日本の大衆文化に計り知れない影響を与えた。その独特な世界観とユーモアは、これからも多くの人々に感動と笑顔を与え続けるだろう。
7. 外部リンク
- [https://sakuraproduction.jp/ さくらプロダクション]
- [https://note.com/sakuraproduction/n/n2f17775d6787 株式会社さくらプロダクション公式note]
- [https://www.1101.com/sakura/index.html オトナな会話(仮)さくらももこ×糸井重里の対談] - ほぼ日刊イトイ新聞
- [http://users.skynet.be/mangaguide/au1612.html The Ultimate Manga Pageのプロフィール]