1. 概要
アイリーン・サン・パブロ・バビエラ(1959年 - 2020年)は、フィリピンの著名な政治学者であり、特に中国問題に関する第一人者でした。彼女は生涯を通じて、フィリピン大学での学術研究と教育に深く貢献し、国内外の様々な機関で指導的な役割を果たしました。バビエラの学術的貢献は、中国近代史、東アジアの安全保障、地域協力といった分野に焦点を当てており、その見識はフィリピンの外交政策にも大きな影響を与えました。
彼女の思想は、中国での経験を通じて政治的プロパガンダの表層性を批判的に認識するようになったことで、中道左派の視点から変化を遂げました。この変化は、彼女の研究において客観性と深い分析を重視する姿勢を形成しました。バビエラは、単なる学者に留まらず、フィリピン社会における中国理解の深化に尽力し、その知識と洞察力は、国際関係の複雑さを読み解く上で不可欠なものでした。
2. 生涯
アイリーン・サン・パブロ・バビエラは、教育者として、またフィリピンを代表する中国専門家として、多岐にわたる学術的・行政的キャリアを築きました。
2.1. 幼少期と教育
アイリーン・バビエラの初期の人生と学術的背景は、彼女の後のキャリアの基盤を形成しました。
2.1.1. 出生と家族背景
アイリーン・サン・パブロ・バビエラは、1959年8月26日にフィリピンのマニラで生まれました。
2.1.2. 学歴
彼女は学術の道を深く進み、複数の高等教育機関で学位を取得しました。1979年10月には、フィリピン大学ディリマン校で外交学の理学士号を優等(cum laude)で取得しました。その後、1981年から1983年にかけて、北京大学で中国近代史の学生として、初めて中国での研究を許されました。この期間中に彼女は中国語を習得し、北京語言学院(Beijing Language Institute)から卒業証書を受け取り、中国北部や西部を旅しました。この中国での経験は、彼女の後の学術的視点に大きな影響を与えました。1987年には、中国と東アジアを専門とするアジア研究の文学修士号を、そして2003年には政治学の博士号をそれぞれ取得しています。
3. 経歴
アイリーン・バビエラの専門的なキャリアは、学術研究、教育、そして行政的なリーダーシップの三つの主要な柱によって特徴づけられます。
3.1. 学術・研究職
バビエラは、教育機関や研究機関において、長年にわたり学術的および研究者としての重要な役割を担いました。1980年から1986年までは、フィリピン外務省の外交サービス研究所で研究員および研修員として勤務しました。1990年まではフィリピン大学政治学部で教鞭をとり、その後、1996年から1997年にはアテネオ・デ・マニラ大学政治学部でも並行して教えました。
1998年6月から2005年6月にかけては、フィリピン大学アジアセンターの准教授を務め、2005年7月からは教授として教鞭をとりました。また、2010年7月からはワシントンD.C.に拠点を置く政策研究機構(Policy Studies Organization)のアジア政治・政策分野の編集長を務め、学術誌の発展にも貢献しました。
3.2. リーダーシップ・行政職
バビエラは、その学術的専門知識を活かし、様々な機関でリーダーシップを発揮しました。1993年まではフィリピン・中国開発資源センターのリサーチコーディネーターを務めました。1993年6月から1998年5月にかけては、外交サービス研究所の国際関係・戦略研究センター長として、フィリピンの外交政策における重要な役割を担いました。
1998年6月から2001年12月まで、フィリピン・中国開発資源センターの事務局長を務め、同センターの運営を統括しました。さらに、2003年9月から2009年10月までフィリピン大学アジアセンターの学部長を務め、アジア研究分野の発展を主導しました。晩年は、アジア太平洋進歩財団(Asia Pacific Pathways to Progress Foundation)の理事長兼最高経営責任者を務め、フィリピンとアジア太平洋地域の関係構築に尽力しました。
4. 学術的貢献と見解
アイリーン・バビエラの学術的貢献は、彼女が中国専門家としての地位を確立する上で不可欠な要素であり、その政治的見解の変遷は彼女の研究の深みと客観性を示しています。
4.1. 中国研究とその焦点
バビエラは、フィリピンにおける中国学の第一人者として広く認識されていました。彼女の研究は、中国近代史、東アジアの安全保障、そして地域協力といった多岐にわたる分野に焦点を当てていました。特に、シノポリティカル研究(中国の政治研究)を通じて、中国の国内情勢とそれが地域および国際関係に与える影響について深く分析しました。彼女の専門知識は、南シナ海問題など、フィリピンと中国間の複雑な関係を理解する上で不可欠なものでした。
4.2. 政治的見解の変化
バビエラは、中国に留学する以前は左派的視点を持っていたとされていますが、1981年から1983年の中国滞在中にその見解は大きく変化しました。彼女自身が語ったように、中国での経験を通じて「政治的プロパガンダの表層性を認識し、それを避けることを学んだ」のです。この変化は、毛沢東のプロパガンダだけでなく、フィリピンのフェルディナンド・マルコス大統領のプロパガンダに対しても同様の批判的視点を持つことを示唆しています。この経験は、彼女が特定のイデオロギーに囚われず、事実に基づいた客観的かつ批判的な分析を行う学者としての姿勢を形成する上で決定的な役割を果たしました。この変遷は、中道左派の視点から、権威主義的なプロパガンダの危険性を看破し、より人間中心的な視点から社会や政治を分析する彼女の学者としての強みとなりました。
5. 主要著作
アイリーン・バビエラは、中国研究とアジアの安全保障に関する重要な著作を複数発表しました。
- 『マニラ首都圏の中国人の現代の政治的態度と行動』(Contemporary Political Attitudes and Behavior of the Chinese in Metro Manila、1994年)
- 『東アジアの地域安全保障:協力とコミュニティ構築への挑戦』(Regional Security in East Asia: Challenges to Cooperation and Community Building、2008年)
6. 私生活
アイリーン・バビエラは、2018年に心臓発作で亡くなったホルヘ・ビジェガス・バビエラ(Jorge Villegas Baviera)の妻でした。彼らには3人の子供がいました。彼らの子供たちは、1985年生まれのヴィータ・アマルヤ(Vita Amalya)、1986年生まれのマーラ・ヤスミン(Mara Yasmin)、そして1991年生まれのホルヘ・ヴィットリオ(Jorge Vittorio)です。
7. 死去
アイリーン・バビエラは、2020年3月21日早朝、マニラのサン・ラサロ病院でCOVID-19ウイルスによる肺炎のため60歳で死去しました。彼女は同年3月12日にフランスのパリで開催された安全保障会議に参加した後、帰国した際にこの病気に感染しました。この会議で彼女とともに感染し、後に死亡したもう一人のフィリピン代表はアラン・T・オルティスでした。彼女の死は、フィリピンの学術界、特に中国研究分野に大きな衝撃を与えました。

8. 評価と遺産
アイリーン・サン・パブロ・バビエラは、フィリピンの中国専門家として、その生涯を通じて多大な学術的・社会的貢献を果たしました。彼女はフィリピン大学の教授として多くの学生を指導し、中国に関する深い知識と批判的思考を次世代に伝えました。また、様々な研究機関や政策立案機関でのリーダーシップは、フィリピンの外交政策、特にアジア地域における安全保障と国際関係の理解を深める上で不可欠なものでした。
バビエラの遺産は、彼女の著作や研究成果だけでなく、フィリピンにおける中国理解の深化に果たした役割によっても形成されています。彼女は、単なる知識の伝達者ではなく、中国の複雑な現実を客観的に分析し、政治的プロパガンダの危険性を看破する姿勢を貫きました。この姿勢は、彼女の学者としての誠実さと社会への貢献意欲の表れであり、フィリピンの中道左派的な言論空間において、重要な道標となりました。彼女の死は早すぎたものの、その学術的業績と国際関係における貢献は、今後もフィリピンとアジア地域の研究者たちに影響を与え続けるでしょう。