1. 概要
アグスティン・サンチョ・アグスティナ(Agustín Sancho Agustinaアグスティン・サンチョ・アグスティナスペイン語、1896年7月18日 - 1960年8月25日)は、スペインのサッカー選手である。主にミッドフィールダーとしてプレーした。

彼はFCバルセロナの歴史において「黄金時代」を築いた伝説的なチームの重要な一員であり、クラブ史上最多となる9度のカタルーニャ選手権優勝と、4度のコパ・デル・レイ優勝に貢献した。また、スペイン代表としても活躍し、1920年アントワープオリンピックで銀メダルを獲得した。選手引退後は、複数のクラブで監督を務めるなど、指導者としてもキャリアを積んだ。
2. 生い立ちと背景
2.1. 幼少期と教育
アグスティン・サンチョは1896年7月18日にバレンシア州カステリョン県のベンヨチで生まれた。幼少期にバルセロナのサンツ地区に移住し、そこで育った。
2.2. 初期サッカーキャリア
サンツ地区では、後にCEサンツとして再編されるGladiator de Santsなど、様々な地元クラブでプレーした。UEサンツでの彼の優れたパフォーマンスは、バルセロナの主要クラブの注目を集め、RCDエスパニョールと事前合意があったにもかかわらず、1916年にFCバルセロナに入団した。
3. クラブキャリア
アグスティン・サンチョはFCバルセロナでの輝かしい時期を過ごし、数多くのタイトルを獲得した。また、一時的にUEサンツへ復帰する経験もしている。
3.1. FCバルセロナ時代
1916年にFCバルセロナに入団し、その後12シーズンにわたってプレーした(1922-23シーズンはUEサンツに一時移籍)。彼はジャック・グリーンウェルが監督を務め、パウリーノ・アルカンタラ、サギバルバ、リカルド・サモラ、ジョゼップ・サミティエールといった伝説的な選手たちが名を連ねたFCバルセロナのチームの一員であった。彼らと共に、FCバルセロナはカタルーニャ選手権で9度の優勝(1918-19、1919-20、1920-21、1921-22、1923-24、1924-25、1925-26、1926-27、1927-28シーズン)、コパ・デル・レイで4度の優勝(1920年、1922年、1925年、1926年)を達成した。特に1925年の決勝では、アレナス・クルブ・デ・ゲチョを相手に2-0で勝利した試合で、バルセロナの2点目を挙げた。
3.2. 移籍と復帰
1922年6月、体重超過などに対する批判を受け、サンチョはバルセロナを離れることを希望した。彼は故郷のサンツに戻り、FCインテルナシオナルと自身の古巣であるウニオ・エスポルティーバ・サンツの合併によって新しく設立されたUEサンツと契約した。サンツのクラブは彼にバルセロナ市議会の建設請負人としての仕事も提供した。これは、1920年代末までスペインではサッカー選手のプロフェッショナリズムが公式に認められていなかったため、サンチョがキャリアを通じてサッカーとレンガ職人としての仕事を両立させていたためである。サンチョはUEサンツでわずか1シーズンを過ごした後、FCバルセロナの幹部が彼を説得し、1923年6月にバルセロナに再加入した。
4. 代表キャリア
アグスティン・サンチョはスペイン代表およびカタルーニャ代表として、国際舞台や地域大会で活躍し、重要なタイトル獲得に貢献した。
4.1. スペイン代表
サンチョは1920年アントワープオリンピックにスペインナショナルチームの一員として参加し、ベルギー代表とイタリア代表との2試合に出場した。スペインはこの大会で銀メダルを獲得した。彼の最後の代表キャップは1923年12月16日に行われたポルトガル代表との親善試合であった。
4.2. カタルーニャ代表
FCバルセロナの選手として、サンチョはカタルーニャナショナルチームに招集された。彼はRFEFが主催する地域間大会であるアストゥリアス公杯の1923-24シーズンで優勝したチームの一員であった。サンチョはカスティージャ/マドリード選抜との決勝戦の2試合に先発出場し、再試合でカタルーニャが3-2で勝利するのに貢献し、同大会でチームにとって2度目のタイトル獲得を確実にした。
5. 指導者キャリア
選手引退後、アグスティン・サンチョはスペインの複数のクラブで監督を務め、FCバルセロナではアシスタントコーチとしても活動した。
5.1. 初期指導者活動
1922年夏、サンチョはカステリョン・デ・ラ・プラナで休暇中に、地元のサッカーチームであるCDカステリョンが設立された。彼はカステリョン県で最も経験豊富で代表的なサッカー選手であったため、新設チームの最初の試合を指揮するよう依頼された。翌年にはバレンシアCFでも数試合を指揮した(1922年から1923年)。また、CEサバデルFCでは1928年から1929年まで、CFレウス・デポルティウでは1943年から1944年まで監督を務めた。
5.2. FCバルセロナコーチ
サッカー選手を引退した後、サンチョはFCバルセロナの技術部門でホセ・プラナスのアシスタントコーチを務めた。
6. ポジションとプレースタイル
アグスティン・サンチョは主にミッドフィールダーとしてプレーした。
7. 私生活
サッカー選手としてのキャリアとは別に、サンチョはキャリアを通じてレンガ職人としての仕事も兼業していた。これは、1920年代後半までスペインでサッカー選手のプロフェッショナリズムが公式に認められていなかったためである。
なお、一部の文献では彼の生年月日が1896年9月3日であったと記録されている。
8. 受賞歴
アグスティン・サンチョが選手として獲得した主なタイトルは以下の通りである。
- FCバルセロナ**
- コパ・デル・レイ: 4回(1920年、1922年、1925年、1926年)
- カタルーニャ選手権: 9回(1918-19、1919-20、1920-21、1921-22、1923-24、1924-25、1925-26、1926-27、1927-28)
- スペイン代表**
- オリンピック: 銀メダル(1920年)
- カタルーニャ代表**
- アストゥリアス公杯: 1回(1923-24年)
9. 死去
アグスティン・サンチョは1960年8月25日にバルセロナで死去した。
10. 功績と評価
アグスティン・サンチョは、FCバルセロナの「黄金時代」を築いた伝説的なチームの重要な一員として記憶されている。彼のミッドフィールダーとしての貢献は、クラブが数々の国内タイトルを獲得する上で不可欠であった。また、スペイン代表として初の国際大会であるオリンピックで銀メダル獲得に貢献したことは、スペインサッカー史における彼の地位を確固たるものにしている。プロ化以前の時代に、サッカーと職業を両立させた彼の姿勢は、当時の選手たちの厳しい環境を示すものでもある。