1. 初期と背景
アフメド・デミル・ドガンの生い立ちと教育は、彼の後の政治的キャリアに大きな影響を与えた。
1.1. 生い立ちと家族
ドガンは1954年3月29日、ドブリチ州のプチェラロヴォで生まれた。彼の母親はドランダル出身のデミレ・ドガンで、父親はプチェラロヴォ出身の氏名不詳の人物である。
1.2. 教育
1981年、ドガンはソフィア大学で哲学の課程を修了した。その後、1986年には「対称性の原理の哲学的分析」というテーマの論文を完成させ、博士号に相当する学位を取得した。
2. 政治的経歴
ドガンはブルガリアの政治において重要な役割を果たし、特にトルコ系少数民族の権利擁護に尽力した。
2.1. 権利と自由のための運動 (DPS) の創設と指導
ドガンは1990年に権利と自由のための運動(DPS)を創設した。この党は自由主義政党であり、ブルガリア国内のトルコ系少数民族の利益を代表すると主張している。彼は党創設から2013年に辞任するまで、長きにわたり党首を務めた。
2.2. トルコ系少数民族への支持
ドガンはブルガリアの少数民族であるトルコ系住民の人権運動に深く関与した。彼はこの運動の主要な指導者の一人として、トルコ系住民の権利と自由の擁護に尽力し、DPSを通じて彼らの政治的代表としての役割を担った。
3. 思想と活動
ドガンの思想は、彼の学術的背景と政治的活動が密接に結びついている。彼は哲学研究で培った分析的思考を、ブルガリアにおけるトルコ系少数民族の権利擁護という社会運動に応用した。特に「対称性の原理の哲学的分析」という博士論文のテーマは、異なる集団間のバランスや公平性といった概念への彼の関心を示唆しており、これが少数民族の権利を追求する彼の政治活動の根底にあったと考えられる。彼は自由主義政党であるDPSを率いることで、少数民族の政治参加と人権保障を目指した。
4. 論争と法的問題
ドガンの政治キャリアは、いくつかの重大な論争と法的問題に直面してきた。
2007年9月、ドガンの名前は、共産主義時代の秘密警察協力者に関する公式報告書に記載された。この報告書によると、ドガンは1974年8月から1988年3月まで国家保安委員会の有給エージェントであったとされる。
また、ドガンは1987年にテロ容疑で逮捕され、10年の懲役刑を宣告された。しかし、1989年12月22日には釈放された。
2010年10月、ソフィアの最高行政裁判所(SAC)は、2008年と2009年に水力発電プロジェクトに関して支払われたコンサルティング料に関する議会委員会の提訴に対し、ドガンに汚職容疑での無罪判決を下した。
5. 暗殺未遂事件
2013年1月19日、ドガンはソフィアで開催された権利と自由のための運動の党討論会で演説中に暗殺未遂事件に遭遇した。
演壇で演説していたドガンに対し、トルコ系ブルガリア人のオクタイ・エニメフメドフ(Октай Енимехмедовブルガリア語)がステージに駆け上がった。エニメフメドフはドガンの頭から0.3 m (1 ft)以内にガス銃を向けたが、銃は発射されなかった。報道によると、この銃には空包と催涙スプレー入りのカートリッジが含まれており、仮に発射されても致命傷にはならなかったとされている。
ドガンはエニメフメドフと格闘し、その後、警備員や他の代表者たちによってエニメフメドフは取り押さえられ、地面に倒された。彼は逮捕されるまでの数分間、殴打や蹴りを受けた。エニメフメドフは過去に強盗、暴力、違法薬物所持などの前科があった。
2014年2月、エニメフメドフは3年6か月の懲役刑を宣告された。
6. 評価と遺産
アフメド・デミル・ドガンは、ブルガリアの政治において極めて影響力のある人物であった。彼は権利と自由のための運動(DPS)の創設者として、長年にわたりブルガリアのトルコ系少数民族の政治的利益を代表し、彼らの人権擁護に貢献した。この功績は、ブルガリアの民主化プロセスにおける少数民族の統合という点で高く評価される。
しかし、彼のキャリアは、共産主義時代の秘密警察との協力疑惑や、テロ容疑での逮捕と服役、そして汚職容疑での裁判といった、数々の論争に影を落としている。特に秘密警察との関係は、彼の政治的信頼性に対する疑問を投げかけるものであった。2013年の暗殺未遂事件は、彼がブルガリア社会において依然として強い影響力を持つ一方で、激しい政治的対立の対象でもあったことを示している。ドガンの遺産は、少数民族の権利擁護者としての役割と、過去の論争や権力構造との関係という複雑な側面を併せ持つものとして評価される。