1. 概要
アブドゥル・ハリム(Abdul Halimインドネシア語、1911年12月27日 - 1987年7月4日)は、インドネシアの政治家であり、第4代首相を務めました。彼はインドネシア独立戦争期にインドネシア共和国臨時政府の設立に貢献し、インドネシア連邦共和国時代には首相として、また国防大臣として国家運営に尽力しました。
政治経歴の傍ら、ハリムは著名な医師としても活動し、チプト・マングンクスモ病院の院長や監察官を歴任しました。また、サッカークラブ「プルシジャ・ジャカルタ」の設立に関与し、インドネシアオリンピック委員会の要職を務めるなど、スポーツ界の発展にも貢献しました。その功績により、ビンタン・マハプトゥラ・ウタマ(Bintang Mahaputera Utamaインドネシア語)などの栄誉を授与されています。彼の生涯は、インドネシアの独立と国家建設における多角的な貢献によって特徴づけられます。
2. 生涯と背景
アブドゥル・ハリムの幼少期は、家族の支援と、より良い教育を求める移住によって特徴づけられ、彼はジャカルタで高等教育を受ける機会を得ました。
2.1. 出生と家族
アブドゥル・ハリムは、1911年12月27日に西スマトラ州のブキティンギで、アハマド・スタン・マングクト(Achmad St. Mangkutoインドネシア語)とハジャ・ダラマ(Hj. Daramaインドネシア語)夫妻の間に生まれました。彼が7歳の時、母方の従兄弟であるアブドゥッラー(Abdullahインドネシア語)が彼をジャカルタに連れて行きました。アブドゥッラーは当時、バタヴィア石油会社(Bataafsche Petroleum Maatschappijオランダ語、現在のプルタミナ)の主要な役員の一人であり、ハリムにより良い教育を受けさせることを目的としていました。
2.2. 教育
ジャカルタに移り住んだハリムは、HIS(Hollandsch-Inlandsche Schoolオランダ語)、MULO(Meer Uitgebreid Lager Onderwijsオランダ語)、AMS B(Algemene Middelbare Schoolオランダ語 B)といった教育機関で学びました。その後、医学校であるヘネースクンディヘ・ホーヘスクール(Geneeskundige Hoogeschoolオランダ語、現在のインドネシア大学医学部)に進学し、卒業しました。
3. 政治経歴
アブドゥル・ハリムは、インドネシアの独立運動に深く関わり、その後の国家建設において重要な政治的役割を担いました。
3.1. 独立運動への参加
1945年のインドネシア独立宣言以降、アブドゥル・ハリムはインドネシア中央国家委員会(Komite Nasional Indonesia Pusatインドネシア語、略称: KNIP)の作業部会(Badan Pekerjaインドネシア語、略称: BP)で副議長を務めました。この作業部会は、アッサート(Assaatインドネシア語)が議長を務めるKNIP(137名の委員で構成)の日常業務を遂行する執行機関でした。
1948年には、モハマッド・ナシール(Mohammad Natsirインドネシア語)やヨハネス・ライメナ(Johannes Leimenaインドネシア語)と共に、西スマトラ州(一部資料では中央スマトラ州)に設立されたインドネシア共和国臨時政府(Pemerintah Darurat Republik Indonesiaインドネシア語、略称: PDRI)の設立に貢献しました。1945年から1949年のインドネシア独立戦争の期間中、彼は医師としての実務を行うことはありませんでした。
3.2. 首相としての在任期間
1950年1月16日から同年9月5日まで、アブドゥル・ハリムはインドネシア連邦共和国(Republik Indonesia Serikatインドネシア語)の一部であったインドネシア共和国の第4代首相を務めました。この期間中、アッサート(Assaatインドネシア語)が大統領代行を務めていました。彼が率いた内閣は「ハリム内閣」(Kabinet Halimインドネシア語)として知られています。
3.3. 国防大臣としての在任期間
首相職を退任した後、アブドゥル・ハリムは1950年9月6日から1951年4月27日まで、ナシール内閣(Kabinet Natsirインドネシア語)において国防大臣(暫定)を務めました。彼はナシール内閣における初代国防大臣であり、インドネシア共和国全体としては第6代の国防大臣でした。
4. 専門職経歴とその他の活動
政治家としての顔を持つ一方で、アブドゥル・ハリムは医師としての専門職務や、スポーツ界における重要な役割も果たしました。
4.1. 医師としての経歴
政治の第一線から退いた後、アブドゥル・ハリムは再び医師としてのキャリアに専念しました。1951年7月から1961年7月まで、ジャカルタにあるRSUP(Rumah Sakit Umum Pusatインドネシア語、現在のチプト・マングンクスモ病院(Dr. Cipto Mangunkusumo Hospitalインドネシア語、略称: RSCM))の院長を務めました。院長職を退いた後は、1987年7月4日に死去するまで、同病院の監察官として勤務しました。
4.2. スポーツおよび社会活動
アブドゥル・ハリムはサッカーを趣味としており、スポーツ界でも多大な貢献をしました。
1927年(一部資料では1928年)には、ヴォートバルボンド・インドネシシェ・ジャカトラ(Voetbalbond Indonesische Jacatraオランダ語、現在のプルシジャ・ジャカルタ(Persija Jakartaインドネシア語))の設立に関与し、数年間にわたり同クラブの会長を務めました。

1951年から1955年にかけては、インドネシアオリンピック委員会(Komite Olimpiade Indonesiaインドネシア語、略称: KOI)の副会長、そして会長を歴任しました。また、ジャカルタ中央区のムルデカ広場にイカダ競技場(Stadion Ikadaインドネシア語)を建設するためのイカダ財団(IKADA Foundationインドネシア語)の会長にも任命されました。
1952年には、1952年ヘルシンキオリンピックに派遣されたインドネシア初のオリンピック選手団を率いる団長を務めました。
5. 受賞歴と栄誉
アブドゥル・ハリムは、その国家への貢献が認められ、複数の栄誉を授与されました。
1987年6月22日には、インドネシアの最高位の勲章の一つである「ビンタン・マハプトゥラ・ウタマ」(Bintang Mahaputera Utamaインドネシア語)を授与されました。

6. 個人的な側面
アブドゥル・ハリムは、公的な役割の傍らで、趣味や愛称を通じて親しまれていました。
彼はサッカーを趣味としていたほか、自身の愛車を大切に手入れすることでも知られていました。この車の整備に対する情熱から、友人たちの間では「ドクター・モービル」(dokter mobilインドネシア語)あるいは「モンティール・モービル」(montir mobilインドネシア語、自動車整備士)という愛称で呼ばれていました。
7. 死去
アブドゥル・ハリムは、1987年7月4日にインドネシアのジャカルタで死去しました。彼は死去するまで、チプト・マングンクスモ病院の監察官を務めていました。
8. 評価と影響
アブドゥル・ハリムは、インドネシアの独立と国家建設において極めて重要な役割を果たした人物です。彼は、インドネシア独立戦争期にインドネシア共和国臨時政府の設立に貢献し、その後のインドネシア連邦共和国時代には首相として、また国防大臣として、不安定な時期の国家運営に尽力しました。
彼の医療分野における貢献も特筆すべきであり、チプト・マングンクスモ病院の院長や監察官として、インドネシアの公衆衛生の発展に寄与しました。さらに、プルシジャ・ジャカルタの設立やインドネシアオリンピック委員会の要職を歴任し、インドネシアのスポーツ振興においても先駆的な役割を果たしました。
提供された資料には、彼の業績に対する詳細な歴史的・社会的な評価は明示されていませんが、その多岐にわたる公的活動と指導的役割は、インドネシアの民主主義の確立と社会発展に肯定的な影響を与えたと評価できます。彼は、独立後の混乱期において、政治、医療、スポーツの各分野で国家の基盤を築く上で不可欠な存在でした。