1. 概要
アブル・マアーリー・ジュワイニー(أبو المعالي الجوينيAbū al-Maʿālī al-Juwaynīアラビア語、1028年2月17日 - 1085年8月20日)は、11世紀のホラーサーン出身の著名なスンナ派の神学者(ムタカッリム)であり、シャーフィイー学派の法学者である。彼は「二聖都のイマーム」を意味するイマーム・ハラマインの尊称で広く知られている。
ジュワイニーは、その時代における最高の法学者、法理論家、そして神学者として名高く、シャーフィイー学派においてその創始者であるアッ=シャーフィイーに次ぐ「事実上の第二の創始者」と見なされている。また、アシュアリー学派の神学においても主要な人物とされ、その創始者であるアブー・アル=ハサン・アル=アシュアリーと同等の地位にあると評価された。彼は「シャイフル・イスラーム」「イスラームの栄光」「すべてのイマームの絶対的イマーム」といった名誉ある称号を与えられている。
彼の思想は、アシュアリー学派の教義を深く追求しつつも、ムゥタズィラ学派の思想にも言及するなど、当時の学界に論争を巻き起こすものであった。特に人間の行為に関する見解は、ジャバリーヤ学派とカダリーヤ学派の中間的な立場を取るとも評され、その思想は多くの学者によって議論された。彼の最も著名な弟子は、後にイスラーム史上最も影響力のある学者の一人となるガザーリーである。
2. 生涯
ジュワイニーの生涯は、学問的探求と政治的・宗教的混乱が交錯する時代に特徴づけられる。
2.1. 名前と称号
ジュワイニーの正式な名前は、ディヤーウッディーン・アブドゥルマリク・イブン・ユースフ・アル=ジュワイニー・アッ=シャーフィイー(ضياء الدين عبد الملك بن يوسف الجويني الشافعيḌiyāʾ al-Dīn ʿAbd al-Malik ibn Yūsuf al-Juwaynī al-Shāfiʿīアラビア語)である。彼のクンヤ(あだ名)はアブル・マアーリーであり、これは彼の高い人格と広範な知識を称えるものである。また、イスムとナサブは、アブドゥルマリク・イブン・アブドゥッラー・イブン・ユースフ・イブン・ムハンマド・イブン・アブドゥッラー・イブン・ハイワ・アル=ジュワイニー(أبو المعالي عبد الملك بن عبد الله بن يوسف بن محمد بن عبد الله بن حيوة الجوينيAbū al-Maʿālī ʿAbd al-Malik ibn ʿAbd Allāh ibn Yūsuf ibn Muḥammad ibn ʿAbd Allāh ibn Ḥaywah al-Juwaynīアラビア語)である。
彼はいくつかの名誉ある称号で知られている。最も一般的なのは「イマーム・ハラマイン」(إمام الحرمينImām al-Ḥaramaynアラビア語)であり、「二聖都(メッカとマディーナ)の指導者」を意味する。これは彼がメッカとマディーナで4年間(または4-5年間)滞在し、教え、ファトワ(法的見解)を出し、礼拝のイマームを務めたことに由来する。その他の称号には「ディヤーウッディーン」(ضياء الدينḌiyāʾ al-Dīnアラビア語、宗教の光)、「シャイフル・イスラーム」(イスラームの長老)、「ファフルル・イスラーム」(فخر الإسلامFakhr al-Islāmアラビア語、イスラームの栄光)、そして「すべてのイマームの絶対的イマーム」がある。
2.2. 出生と家族背景
ジュワイニーはヒジュラ暦419年ムハッラム月12日、すなわち西暦1028年2月17日から22日頃に、イランのニーシャープール近郊にあるブシュタニカン(بشتنقانBoštanekānペルシア語)というジュワイン(ジョヴェイン)村で生まれた。一部の歴史家は彼の生年月日をヒジュラ暦417年と記しているが、大半の歴史家はヒジュラ暦419年ムハッラム月18日(西暦1028年2月22日)としている。
彼は学問的な家系に生まれた。彼の父であるアブー・ムハンマド・アル=ジュワイニー(أبو محمد عبد الله بن يوسف الجوينيAbū Muḥammad ʿAbd Allāh ibn Yūsuf al-Juwaynīアラビア語)は、当時の偉大な学者であり、タフスィール、フィクフ、アダブ、アラビア語の分野でイマームと称された。父はジュワイン村で生まれ育ち、自身の父やアブー・ヤアクーブからアダブを、アブー・タイイブ・アッ=シャアルーキーからフィクフを、アル=カッファール・アル=マルワズィーからハディースを学んだ。多くの大学者が彼の教えを受け、その中にはジュワイニー自身も含まれる。父はタフスィールやフィクフなど様々な分野で多くの著作を残し、ヒジュラ暦438年ズル・カアダ月に逝去した。彼の母は、父が合法的な収入で手に入れた敬虔で善良な奴隷であった。
ジュワイニーには重要な叔父が二人いた。一人はシャイフ・アブル・ハサン・アリー・ビン・ユースフ・ビン・アブドゥッラー・ビン・ユースフ(أبو الحسن علي بن يوسف بن عبد الله بن يوسفAbū al-Ḥasan ʿAlī ibn Yūsuf ibn ʿAbd Allāh ibn Yūsufアラビア語)で、彼は当時の大学者であり、「ヒジャーズのシャイフ」として知られた。彼は自身の兄弟であるアブー・ムハンマド・アル=ジュワイニー、アブー・ヌアイム・アル=イスファハーニー、アブー・アブドゥッラフマーン・アッ=スラーミー、イブン・シャザーーンなどから学び、イマーム・ムハンマド・ビン・ファドゥル・アル=フラウィーやザーヒルなどが彼の弟子であった。彼はヒジュラ暦463年ズル・カアダ月に逝去した。もう一人の叔父はアブー・サイード・アブドゥッシュ・シャマド・アル=ジュワイニーで、敬虔で熱心にタハッジュドを行い、クルアーンを朗読する学者であった。
ジュワイニーにはアブル・カースィム・ムザッファル・ビン・イマーム・アル=ハラマイン・アブドゥルマリク・アル=ジュワイニー(أبو القاسم مظفر بن إمام الحرمين عبد الملك الجوينيAbū al-Qāsim Muẓaffar ibn Imām al-Ḥaramayn ʿAbd al-Malik al-Juwaynīアラビア語)という息子がおり、彼もまた高い人格と広範な学識で知られる学者となった。彼は両親の薫陶を受け、当時の多くの学者から様々な学問を学んだ。彼はヒジュラ暦493年シャアバーン月に毒殺され逝去した。
2.3. 時代背景
ジュワイニーが生きた11世紀のホラーサーン地方、特にその首都であるニーシャープールは、当時の他のイスラーム地域と同様に、政治的、社会的、そして宗教的な混乱に直面していた。この肥沃な地域は、いくつかの王朝の間で争奪の的となった。サッファール朝がヒジュラ暦254年から支配した後、ヒジュラ暦290年にはサーマーン朝の支配下に入った。その後もガズナ朝、ブワイフ朝、そしてセルジューューク朝が次々とこの地域を支配した。支配者の交代は、必然的にイデオロギーの交代を伴い、不安定な状況を生み出した。
特に、トルコ系のセルジューク族がイラン東部に急速に浸透し、トゥグリル・ベグがセルジューク朝のスルターンとなった時期は、ジュワイニーの人生に大きな影響を与えた。当時、アシュアリー学派の神学は、ハナフィー学派の法学理論と相容れない教義上の対立を抱え、両者は敵対関係にあった。ムゥタズィラ学派でありハナフィー学派の信奉者であったトゥグリル・ベグは、ニーシャープールのワズィールに任命されると、ジュワイニーに対し、アシュアリー学派の教説を唱えることを禁じた。このような政治的・宗教的緊張が、彼の故郷からの亡命へと繋がった。
2.4. 教育と知的発展
ジュワイニーは、ニーシャープールで家族、特に父アブー・ムハンマド・アル=ジュワイニーの薫陶を受け、また当時の多くの大学者たちからも学んだ。ニーシャープールは知的に活気ある地域であり、多くの学者を惹きつけていたため、ジュワイニーは学問のために遠方へ行く必要がなかった。
2.4.1. 師と学問的影響
ジュワイニーは幼少期から父アブー・ムハンマド・アル=ジュワイニーのもとで、様々な基礎的な宗教科目を学んだ。これにはアラビア語文法とその修辞学(バラガ)、クルアーン、ハディース、フィクフ(イスラーム法)、キラーフ(意見の相違の技術)、そしてウスール・アル=フィクフ(法理論)が含まれる。彼は父の著書、例えば『シャルフ・アル=ムザニー』、『シャルフ・ウスール・アッ=シャーフィイー』、『ムフタサル・アル=ムフタサル』、『アッ=タフスィール・アル=カビール』、『アッ=タブスィラ』などもすべて読み、研究した。これにより、彼はシャーフィイー学派の法学に強固な基礎を築いた。
父の教えに加え、ジュワイニーはアブー・アル=カースィム・アル=イスファラーイーニー(アブー・イスハーク・アル=イスファラーイーニーの息子)のもとでイスラーム神学と法理論を学んだ。アル=バイハキーからはハディースを学んだ。さらにアラビア語文法はアブー・アル=ハサン・アリー・ブン・ファドル・ブン・アリー・アル=マジャーシーから、クルアーン解釈はアブー・アブドゥッラー・アル=ハッバーズィーから学んだ。ハディースの学習と伝播に関しては、アブー・バクル・アフマド・ブン・ムハンマド・アッ=タミーミー、アブー・サアド・アブドゥッラフマーン・ブン・ハムダーン・アン=ナドラウィー、アブー・ハサン・ムハンマド・ブン・アフマド・アル=ムザッキー、アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・アッ=タッラズィー、アブー・ムハンマド・アル=ジャウハリーといった学者たちからもハディースの伝播を受けた。
法学においては、父から学んだことに加え、マルヴのシャーフィイー派指導者であるアル=カーディー・アブー・アリー・フサイン・ブン・ムハンマド・ブン・アフマド・アル=マルウ・アッ=ルーディーとアル=カースィム・アル=フラニーからも教えを受けた。
ジュワイニーに影響を与えた他の著名な師には、ファドルッラー・ビン・アフマド・ビン・ムハンマド・アル=ミハーニー、アル=カドゥリー・フサイン・ビン・ムハンマド・ビン・アフマド、アブー・カースィム・アル=ファウラーニー、アブー・バクル・アフマド・ビン・ムハンマド・ビン・アル=ハリス・アル=アシュバハーニー・アッ=タミーミー、マンスール・ビン・ラミーシー、アブー・アブドゥッラフマーン・ビン・アブディル・アズィーズ・アン=ニーリーなどが挙げられる。
2.4.2. 学問的遍歴と思想形成
ジュワイニーはイスラーム学の基礎分野で確固たる基盤を築いた後、アシュアリー学派の神学とシャーフィイー学派の法学において、より深い宗教的権威を確立するために知的視野を広げ始めた。彼はシャーフィイー法学の伝統を徹底的に理解し、自身のイジュティハード(独立した法解釈)を提供できるほどであった。
ヒジュラ暦439年(西暦1047年)に父が亡くなると、ジュワイニーはわずか19歳で父の学術集会で教える立場を引き継いだ。これは彼がニーシャープールのシャーフィイー派の学術界で確固たる地位を築いていたことを示す二つの要因の一つであった。もう一つは、シャーフィイー法学の伝統に対する彼の徹底的な理解である。教えを始めた後も、彼は当時の学者たちから学び続けることをやめなかった。彼はニーシャープールのアル=バイハキーの学校でシャーフィイー学派のフィクフとハディースを学び、同時にアル=カッバーズィーの集会に出席してクルアーン学などを学んだ。
しかし、ジュワイニーは後に、アシュアリー学派の教義に関する論争に費やした時間を無駄だったと、自身の死の間際に後悔したと伝えられている。これは、彼が神学的探求の過程で、実践的な法学研究により重きを置くようになったことを示唆している。
2.5. 活動と遍歴
ジュワイニーの人生は、学問的探求と政治的・宗教的動乱による転居が特徴的である。
2.5.1. 迫害と亡命
ジュワイニーは、カラーム派の知事であったアル=クンドゥリーが毎週の金曜礼拝でアブー・アル=ハサン・アル=アシュアリーを呪い、その支持者を投獄する判決を下したため、強制的にニーシャープールを離れることになった。この時、アブー・サフル・アル=バスターミー、アル=フラティー、アル=クシャイリー、アル=バイハキーなど、多くのシャーフィイー派の学者たちが密かに逃亡を余儀なくされた。
2.5.2. 二聖都での活動
アル=クンドゥリーによる迫害を逃れるため、ジュワイニーは新たな安住の地を求めてメッカとマディーナへ旅立った。彼はヒジャーズ地方に4年間(または4-5年間)滞在し、そこで学問を教え、著作を執筆した。彼の学識はヒジャーズの学者たちの間で広く称賛され、彼は「イマーム・アル=ハラマイン」(二聖都の指導者)という称号を得るに至った。この地での滞在中、彼は多くの信奉者を得た。

2.5.3. ナイシャープールへの帰還と教育活動
その後、ニザームルムルクが権力を掌握し、ニーシャープールの情勢が安定すると、ジュワイニーは議論の余地のない偉大なムフティーとしてニーシャープールへの帰還を招請された。彼は新しく建設された名門ニザーミーヤ学院の学長に任命され、そこで残りの生涯を過ごした。彼はこの学院で30年間(または26年間、あるいは23年間)教鞭を執り、次世代のシャーフィイー派の法学者やアシュアリー学派の神学者を育成した。ジュワイニーは生涯をイスラーム統治の理論を研究し、影響力のある論文を執筆することに捧げたが、彼の著作のほとんどはメッカとマディーナから帰還したこの時期に書かれたものと考えられている。
3. 学問的貢献と著作
イマーム・アル=ハラマイン・アル=ジュワイニーは非常に多作な学者であり、様々な学問分野において多くの重要な著作を残した。
3.1. 神学・カラーム分野
神学(カラーム)分野において、ジュワイニーは以下の主要な著作を残した。
- 『信条の決定解への導きの書』(Al-Irshad ila Qawa'idil Adillah fi Ushulil I'tiqad、الإرشاد إلى قواطع الأدلة في أصول الاعتقادal-Irshād ilā Qawāṭiʿ al-Adillah fī Uṣūl al-Iʿtiqādアラビア語):これはイスラーム神学の主要な古典の一つであり、彼の思想が明確に示されている。
- 『アッ=シャーミル・フィ・ウスールッディーン』(Asy-Syamil fi Ushuliddin、الشامل في أصول الدينal-Shāmil fī Uṣūl al-Dīnアラビア語):宗教の原則に関する総括的な著作。
- 『アル=アキーダトゥン・ニザーミーヤ』(Al-'Aqidatun Nidhamiyah、العقيدة النظامية في الأركان الإسلاميةal-ʿAqīdat al-Niẓāmiyyah fī al-Arkān al-Islāmiyyahアラビア語):ニザーミーヤ学院で教えられた信条に関する著作。
- 『ルマア・アル=アディッラ・フィ・カワーイド・アカーイド・アフル・アッ=スンナ』(Luma' al-Adilla fi Qawa'id 'Aqā'id Ahl al-Sunna、لمع الأدلة في قواعد عقائد أهل السنة والجماعةLumaʿ al-Adillah fī Qawāʿid ʿAqāʾid Ahl al-Sunnah wa al-Jamāʿahアラビア語):スンナ派の信条の原則に関する証拠の閃き。
- 『キターブ・アスマアイルラーヒル・フスナ』(Kitabu Asma'illahil Husna):アッラーの99の美名に関する書。
- 『リサーラ・フィ・ウスールッディーン』(Risalah fi Ushuliddin):神学の原則に関する論文。
- 『シファーウル・ガリール』(Syifa'ul Ghalil)
- 『アル=カラマート』(Al-Karamat)
- 『ムフタサルル・イルシャード』(Mukhtasharul Isrsyad)
3.2. 法学理論・ウルスル・アル=フィクフ分野
法学理論(ウスール・アル=フィクフ)分野においても、ジュワイニーは重要な著作を著した。
- 『アル=ブルハーン』(Al-Burhan、البرهان في أصول الفقهal-Burhān fī Uṣūl al-Fiqhアラビア語):この分野における主要な四つの書の一つとされている。
- 『アル=ワラカート』(Al-Waraqat fi Ushulil Fiqh、الورقات في أصول الفقهal-Waraqāt fī Uṣūl al-Fiqhアラビア語):ウスール・アル=フィクフの古典的な入門書。
- 『アル=イルシャード・フィ・ウスールル・フィクフ』(Al-Irsyad fi Ushulil Fiqh)
- 『アッ=タルヒース』(Al-Talkhis)
- 『キターブル・ムジュタヒディーン』(Kitabul Mujtahidin)
- 『リサーラトゥン・フィット=タクリード・ワル・イジュティハード』(Risalatun fit-Taqlid wal Ijtihad):タクリードとイジュティハードに関する論文。
- 『アッ=トゥフファ』(At-Tuhfah)
ジュワイニーは、例えば「ナスク」(نسخnaskhアラビア語)といった難しい問題についても議論し、法学理論に深く貢献した。
3.3. 法学・フィクフ分野
法学(フィクフ)分野における彼の主要な著作は以下の通りである。
- 『ニハーヤトゥル・マターリブ・フィ・ディラーヤティル・マズハブ』(Nihayat al-Matlab fi Dirayat al-Madhhab、نهاية المطلب في دراية المذهبNihāyat al-Maṭlab fī Dirāyat al-Madhhabアラビア語):これは彼の代表作であり、イブン・アサーキルはイスラームにおいてこれに先例がないと評した。
- 『アッ=シルシラ・フィ・マアリファティル・カウライン・ワル・ワジュハイン・アラ・マズハビッシュ・シャーフィイー』(As-Silsilah fi Ma;rifatil Qaulain wal Wajhain 'ala Madzhabisy Syafi'i):シャーフィイー学派における二つの見解と二つの側面を知るための連鎖。
- 『リサーラトゥン・フィル・フィクフ』(Risalatun fil Fiqh):法学に関する論文。
- 『ムフタサルン・ニハーヤ』(Mukhtasharun Nihayah)
- 『ギヤース・アル=ウマム』(Ghiyath al-Umam、غياث الأممGhiyāth al-Umamアラビア語)
- 『ムギース・アル=ハルク』(Mughith al-Khalq、مغيث الخلقMughīth al-Khalqアラビア語)
3.4. 法学比較およびその他の分野
ジュワイニーは他の法学派との比較研究にも貢献した。
- 『アッ=ドゥッラトゥル・マドゥリーヤ・フィーマ・ワカア・ミン・ヒラーフィン・バイナッシュ・シャーフィイーヤ・ワル・ハナフィーヤ』(Ad-Durratul Madliyah fima Waqa'a min Khilafin bainasy Syafi'iyah wal Hanafiyah):シャーフィイー派とハナフィー派の間の意見の相違に関する輝かしい真珠。
- 『ムギースル・ハルク・フィ・タルジーヒル・カウリル・ハク』(Mughitsul Khalq fi Tarjihil Qaulil Haq):真実の意見を優先することにおける創造主の救済。
- 『アル=アサーリーブ・フィル・ヒラーフィヤート』(Al-Asalibu fil Khilafiyat):意見の相違における方法論。
- 『ガニヤトゥル・ムスタルシディーン・フィル・ヒラーフ』(Ghanyatul Mustarsyidin fil Khilaf):意見の相違における指導を求める者の富。
その他の分野では、『キターブン・フィン・ナフス』(Kitabun fin Nafs、魂に関する書)や『キターブル・アルバアイン・フィル・ハディース』(Kitabul Arba'in fil Hadits、ハディースに関する40の書)などを著した。
なお、『ファラーイド・アッ=シムタイン』(Fara'id al-Simtayn)という聖裔家の伝承集が、アブル・マアーリー・ジュワイニーの著作であると誤解されることがあるが、これは14世紀に逝去したスンナ派の学者イブラーヒーム・ビン・ムハンマド・ビン・ヒマーワイ・アル=ジュワイニー(إبراهيم بن محمد بن حماويه الجوينيIbrāhīm ibn Muḥammad ibn Ḥimāwayh al-Juwaynīアラビア語、西暦1322年/ヒジュラ暦722年没)の著作である。
4. 思想と神学的見解
イマーム・アル=ハラマイン・アル=ジュワイニーは、その思想がイスラーム学界で大きな注目を集め、特に神学における彼の立場が議論の対象となった。
4.1. 神の属性と人間の行為に関する見解
ジュワイニーはスンナ派の法学者であり、ムタカッリム(神学的原則の研究に従事する学者)であった。彼は、ムスリムが何をすべきか、何をすべきでないかを解読することに生涯を費やした。彼は頑固で、いかなる法的推測も受け入れないと評された。彼の基本的な原則は、法はいかなる根拠においても推測に委ねられるべきではないというものであった。むしろ、聖典のテキストは、あらゆる法的議論に対する答えを何らかの形で持っているというのが彼の持論であった。彼はクルアーンとハディースといった聖典に精通していただけでなく、シャーフィイー学派の法学理論もアシュアリー学派の神学理論も教えることができた。
ジュワイニーは、アシュアリー学派の神学において主要な人物とされ、その創始者であるアブー・アル=ハサン・アル=アシュアリーと同等の地位にあると評価された。
- 自然の哲学と神の言葉、そして神を見ることについて**
- 自然について:** ジュワイニーは、自然は「ニースビー」(نسبيnisbīアラビア語、相対的)な性質を持つと見なした。これは、その存在が神の存在に依存するという意味であり、アブドゥル・ジャッバールやアブル・フザイルといった一部のムゥタズィラ学派の学者たちの見解と大きく異なるものではなかった。
- 神の言葉について:** ジュワイニーは、アブー・アル=ハサン・アル=アシュアリーの意見に賛同した。
- 神を見ることについて:** ジュワイニーは、アブー・アル=ハサン・アル=アシュアリーと同様に、神は審判の日に見ることができ、神を見ることが最大の喜びであるという見解を持っていた。
- 人間の行為について**
ジュワイニーは、人間の行為に関して、人間は基本的に神から与えられた能力を、自身の意思と欲求に従って方向付ける自由しか持たないと述べた。そして、人間は神の力がなければ、本質的には何もできないと主張した。この見解は、人間が完全に自由意志を持つとするカダリーヤ学派と、人間の行為が完全に神によって決定されるとするジャバリーヤ学派の中間的な立場、すなわち「中道」を歩むものであると評された。
- 神の正義について**
ジュワイニーによれば、神の正義とは、罪を犯した人々を罰するという神の英知である。この点において、ジュワイニーは、神の正義は人間の利益と善を目的とした神の行為であると主張するムゥタズィラ学派とは異なる概念を持っていた。また、神の意思は絶対的であり、神は望むことを何でも行うことができると主張するスンナ派の主流派とも異なる見解を示した。
4.2. 神学論争と評価
ジュワイニーの神学的立場、特にムゥタズィラ学派の思想に言及する彼の傾向は、当時の学界で論争を巻き起こし、彼を「論争の的となる人物」とした。彼の思想を巡っては、一部の学者は彼をアシュアリー学派と見なし、別の学者はムゥタズィラ学派と見なし、また別の学者はスンナ派とムゥタズィラ学派の中間の道を歩んだと評した。彼は、信条に関する事柄を中心に、自身の宗教・宗派に関わる諸事に答弁し、それらを崩壊から守ることを追究する学者であった。
5. 影響と遺産
ジュワイニーは、その学問的業績と教育活動を通じて、イスラーム学に計り知れない影響を与え、後世に豊かな遺産を残した。
5.1. 弟子と学問的影響力
ジュワイニーには400人以上の弟子がいたとされ、その中には後に世界的に有名な学者となった者も多い。彼の最も著名な弟子は、イスラーム史上最も影響力のある学者の一人となったガザーリーである。ジュワイニーはガザーリーについて以下のような有名な言葉を残している。
- 「ガザーリーは、あなたが溺れることができるほど潤沢な海である。」
- 「私が生きているうちに私を埋葬したのか。私が死ぬまで待てなかったのか。(これでジュワイニーが言いたかったのは、ガザーリーの著作が自分を凌駕したということである。)」
ガザーリーのスーフィズムに関する思想には、ジュワイニーの影響が色濃く見られる。
その他の著名な弟子には以下の者たちがいる。
- アル=キーヤー・アル=ハッラーシー
- アブー・アル=カースィム・アル=アンサーリー
- アブドゥル=ガフィール・アル=ファールシー
- アブー・アル=ハサン・アッ=タバリー
- アブー・アル=ハサン・アル=バヒールズィー
- イブン・アル=クシャイリー(アル=クシャイリーの息子)
- アフマド・ビン・ムハンマド・ビン・アル=ムザッファル
- アブル・マアーリー・マスウード・ビン・アフマド・ビン・ムハンマド・ビン・アル=ムザッファル
- アブル・ハサン・アッ=ターイー
- アブー・ハフシュ・アッ=サルハスィー・アッ=シーラーズィー
5.2. 受容と評価
ジュワイニーはシャーフィイー学派のスンナ派法学において最も重要で影響力のある思想家の一人として高く評価されており、その創始者であるアッ=シャーフィイーに次ぐ「事実上の第二の創始者」と見なされている。彼はまた、アシュアリー学派の神学においても主要な人物とされ、その創始者であるアブー・アル=ハサン・アル=アシュアリーと同等の地位にあると評価された。
5.2.1. 肯定的評価
イブン・アサーキルはジュワイニーを「イスラームの栄光、すべてのイマームの絶対的イマーム、法における主要な権威であり、その指導力は東西で合意され、その計り知れない功績はアラブ人・非アラブ人の総意である。彼のような人物は以前にも以後にも現れなかった」と評した。
ムハンマド・ザーヒド・アル=カウサリーは、「彼の著作は、サラフとハラフそれぞれの方法論を結びつける環を形成している」と述べた。
アル=バヒールズィーは、ジュワイニーを法理論においてアッ=シャーフィイーやアル=ムザニーに、作法においてアル=アスマイーに、説教の雄弁さにおいてアル=ハサン・アル=バスリーに、思弁神学においてアブー・アル=ハサン・アル=アシュアリーに匹敵すると比較した。これに対し、イブン・アサーキルは「彼はそれをはるかに超えている」と返答した。イブン・アッ=サブキーは、「四つの学派において、彼の言葉の明瞭さに近づく者がいると考える者は、彼を知らない者である」と述べた。
5.2.2. 批判と論争
ジュワイニーは、その神学的立場、特にムゥタズィラ学派の思想に言及したことにより、一部で批判や論争の対象となった。彼は自身の神学的探求に費やした時間を後に後悔したと伝えられており、これは彼が神学的な議論よりも、実践的な法学研究により重きを置くようになったことを示唆している。彼の思想は、スンナ派とムゥタズィラ学派の間で中道を行くものと見なされ、その評価は学者によって様々であった。
6. 死没
イマーム・アル=ハラマイン・アル=ジュワイニーは、ニザーミーヤ学院で約23年間教鞭を執った後、健康を害し、何度か病に倒れた。最終的に彼は故郷のブシュタニカン村に運ばれ、そこで息を引き取った。
彼の死は、ヒジュラ暦478年ラビーウ・アル=アーヒル月25日火曜日の夜から水曜日にかけて、すなわち西暦1085年8月20日に起こった。彼の葬儀には膨大な数の人々が参列した。ホラーサーンでは、彼の熱心な弟子400人が何日も悲しみを抑えきれないデモを行った。イブン・アサーキルは、「アッラーの宗教における彼の努力と奮闘の痕跡は、最後の時が来るまで続くであろうと信じる」と述べ、彼の功績が永続することを称えた。彼は自宅に埋葬された。