1. 概要
アブー・アル=アッバース・アフマド・イブン・ムハンマド(أبو العباس أحمد بن محمدアラビア語)、通称スルタン・アフマドまたはアフマド・アル=ワッタースィーは、モロッコのワッタース朝のスルタンでした。彼は1526年から1545年まで、そして1547年から1549年まで統治しました。彼の統治は、急速に拡大するスペイン帝国やポルトガル帝国の脅威に直面し、モロッコの主権を維持するための外交努力が特徴でした。特に、フランソワ1世との使節交換や貿易関係の確立は、欧州列強に対抗するための重要な手段となりました。しかし、国内ではサアド朝との激しい対立に直面し、一時捕囚されるなど波乱に満ちた治世を送りました。本稿では、彼の生涯、外交政策、そしてモロッコの歴史におけるその役割について詳述します。
2. 生涯と統治
アブー・アル=アッバース・アフマド・イブン・ムハンマドは、ワッタース朝のスルタンとして即位し、モロッコが直面する内外の課題に対処するため、多岐にわたる政治・外交活動を展開しました。特に、ヨーロッパ列強の脅威に抗するための外交政策は彼の治世の重要な側面を占めました。
2.1. 即位と初期の統治
アフマド・イブン・ムハンマドは、1526年にワッタース朝のフェズ王国(現在のモロッコ)のスルタンとして即位しました。当時のワッタース朝は、北アフリカへの勢力拡大を試みるスペイン帝国とポルトガル帝国からの圧力に直面しており、モロッコ領内に彼らが築いた要塞の存在は深刻な脅威となっていました。アフマドは、これらの外部勢力の台頭を牽制し、国の主権を守るための政策を模索しました。
2.2. 外交政策と対外関係
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アフマド・イブン・ムハンマドの外交政策は、モロッコの主権を脅かすスペイン帝国とポルトガル帝国に対抗することに重点が置かれました。彼は、隣国であるフランス王国との関係改善を積極的に模索しました。
1532年、アフマドはフランス人商人エモン・ド・モロンを介してフランソワ1世に書簡を送り、両国間の貿易関係の発展を促しました。これに応じる形で、フランソワ1世は翌1533年、ピエール・ド・ピトン大佐を大使としてアフマドのもとに派遣しました。このフランス使節団は5名の貴族とエモン・ド・モロンで構成され、時計、鏡、櫛といった装飾品や鷹狩り用の道具などをフェズ国王アフマド・イブン・ムハンマドと、そのワズィール(宰相)で義兄弟でもあるムーレイ・イブラヒム・ベン・アリー・イブン・ラシード・アル=アラミーに贈呈しました。
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ピエール・ド・ピトン大使一行はララシュに上陸し、国王の駐屯地へ案内された後、国王と共にフェズへ向かい、そこで約1ヶ月間滞在しました。このフランス大使の訪問を受け、アフマド・イブン・ムハンマドは1533年8月13日付の書簡でフランソワ1世に対し、フランスの申し出を歓迎し、フランス商船の航行の自由とフランス商人の保護を保証しました。この一連の外交活動は、モロッコ領内に要塞を築くスペインとポルトガルの急速な勢力拡大に対抗し、国際的な均衡を保つためのアフマドの戦略的な試みでした。
2.3. 私生活
アフマド・イブン・ムハンマドは1541年にサイーダ・アル=フッラと結婚しました。彼女は、モロッコ北部のテトゥアンを統治していた女海賊としても知られています。彼らには後にスルタンとなる息子ナーシル・アル=カスリがいました。
2.4. 晩年と死
アフマド・イブン・ムハンマドの統治末期は、南部で台頭するサアド朝との対立によって大きく揺さぶられました。1545年、アフマドは宿敵であるサアド族によって捕虜となりました。彼の不在中、ワッタース朝の王位には幼い息子のナーシル・アル=カスリが就き、アリー・アブー・ハスーンが摂政として実権を握りました。
アリー・アブー・ハスーンは、サアド族の軍事行動に対抗するため、外部勢力であるオスマン帝国の支援を得ることを決断し、その忠誠を誓いました。1547年、アフマドはサアド族から解放され、一時的にスルタンの座に復帰しましたが、その復帰も長くは続きませんでした。わずか2年後の1549年、アフマド・イブン・ムハンマドは死去し、ワッタース朝の体制は再びアリー・アブー・ハスーンによる摂政体制へと戻されました。
3. 遺産と評価
アブー・アル=アッバース・アフマド・イブン・ムハンマドの治世は、モロッコがスペイン帝国やポルトガル帝国といったヨーロッパ列強からの圧力を受けていた激動の時代に位置します。彼の外交政策は、これらの既存の脅威に対抗し、国の独立と主権を維持しようとする明確な試みでした。特にフランソワ1世との積極的な使節交換と貿易関係の構築は、ヨーロッパにおける新たな同盟国を見つけ、地政学的なバランスを模索する彼の先見の明を示すものでした。
彼の治世は、最終的に国内のサアド朝との激しい抗争と捕囚という悲劇によって幕を閉じましたが、モロッコが外部からの侵略に抵抗し、独自のアイデンティティを保持しようとする歴史的な努力の中で、彼の役割は重要なものでした。彼の死後、ワッタース朝は衰退の一途を辿りますが、アフマドの治世は、変化する国際情勢の中でモロッコがどのように自国の利益を守ろうとしたかを示す貴重な事例として記憶されています。さらに、彼の外交努力は、1555年にフランソワ1世の息子アンリ2世がモロッコに支援船を送るなど、その後のフランスとの関係継続にも影響を与えました。