1. 生涯と背景
1.1. 誕生と家族

アルトゥール・フリーデンライヒは1892年7月18日にサンパウロで生まれた。彼の父はブラジルに移民してきたドイツ人実業家のオスカー・フリーデンライヒ、母はアフリカ系ブラジル人の洗濯婦マチルデであった。マチルデの父は解放された奴隷であったため、フリーデンライヒはドイツ系とアフリカ系の混血(ムラート)であった。
当時のブラジルサッカーは白人が支配的であり、黒人や混血の選手は受け入れられにくい状況にあった中で、フリーデンライデンヒはアフリカ系ブラジル人として初めてプロサッカー選手となった。そのため、彼は人生とキャリアを通じて多くの人種差別に直面した。例えば、白人選手が利用するようなプール、テニスコート、パーティーなど、特定の場所への立ち入りを拒否されることもあった。また、肌の色のために、ブラジルサッカー界で人脈を築き、友人を作ることも困難であったとされている。彼は後にヨナスと結婚し、父の名を冠したオスカーという息子をもうけた。妻と息子はフリーデンライヒよりも長生きしたが、彼が死去した際には金銭的な遺産をほとんど残されなかった。
1.2. 幼少期と初期のサッカー
フリーデンライヒは幼少期からサッカーを始め、父からの多大な支援を受けてその才能を磨き、偉大な選手へと成長した。彼の最初のクラブは、サンパウロを拠点とするドイツ系移民によって設立されたSCジェルマーニアであった。これは彼のドイツ系の出自を反映したものであった。1911年にはマッケンジー・カレッジに移籍し、その後もキャリア初期には複数のサンパウロのクラブでプレーを重ねた。
2. 選手経歴
2.1. プレースタイル
フリーデンライヒは「ジョゴ・ボニート」(美しいゲーム)と呼ばれるプレースタイルの先駆者とされており、後にブラジルサッカーの代名詞となるこのスタイルを確立した。彼のプレースタイルは、素早いショートパスと迅速なタッチ、コンビネーションを特徴とし、多くのロングシュートを放ち、2~3人のスピードのあるフォワードで守備を攪乱する戦術に依拠していた。身長は1.7 mとやや小柄ながら、そのスピード、パワー、そして卓越した技術的ドリブル能力で知られていた。彼はボールの軌道を操るシュートを初めて試みた選手であり、相手の守備を欺くための身体の動きを駆使する技術も発展させた。その完璧なボールコントロールと強烈なシュートは、彼に「チグリ(El Tigreエル・ティグレスペイン語)」すなわち「虎」というニックネームをもたらした。彼の輝かしいキャリアは、ブラジルにおいて多くの黒人選手がサッカー界で活躍する機会を開き、人種的偏見を打ち破る上で大きな役割を果たした。
2.2. クラブ経歴
フリーデンライヒは選手生活中にブラジルの主要なクラブを転々としながら、数多くの業績を積み重ねた。
2.2.1. 主要クラブ活動と実績
フリーデンライヒの選手経歴は、1909年にドイツ系移民によるクラブであるSCジェルマーニアで始まった。その後、1910年代からサンパウロの多くのクラブでプレーし、その中でCAイピランガやマッケンジー・カレッジにも所属した。
特に、CAパウリスターノでは12年間にわたり主力選手として活躍し、このクラブが解散するまで長期間にわたって貢献した。パウリスターノは、ブラジルのクラブとして初めてヨーロッパ遠征を行ったことで知られており、その遠征でフリーデンライヒ自身も8試合で11ゴールを記録するなど、その実力を世界に示した。彼はこの期間に7度のカンピオナート・パウリスタ優勝(1918年、1919年、1921年、1926年、1927年、1929年)に貢献している。
パウリスターノ解散後は、サンパウロFC(旧サンパウロ・ダ・フロレスタ)に移籍し、1930年から1935年にかけて127試合で106ゴールを挙げ、1931年には州選手権で優勝した。彼のキャリアの最終期には、フラメンゴでもプレーし、1935年に43歳で現役を引退した。
2.2.2. クラブ統計と得点王記録
フリーデンライヒは選手生活を通じて、多くの得点王タイトルを獲得した。彼は特にサンパウロ州選手権(カンピオナート・パウリスタ)で複数回得点王に輝いている。
年 | 所属クラブ | ゴール数 |
---|---|---|
1912 | マッケンジー・カレッジ | 12 |
1914 | パウリスターノ | 12 |
1917 | イピランガ | 15 |
1918 | パウリスターノ | 25 |
1919 | イピランガ | 26 |
1921 | パウリスターノ | 33 |
1927 | パウリスターノ | 13 |
1928 | パウリスターノ | 29 |
1929 | パウリスターノ | 16 |
なお、リーグの内部対立によりLPFとAPEAに分裂した期間には、以下の選手と得点王のタイトルを共有した。
年 | 選手名 | 所属クラブ | ゴール数 |
---|---|---|---|
1914 | ネコ | コリンチャンス | 12 |
1927 | アラケン・パトゥスカ | サントス | 31 |
1928 | ヘイター | パレストラ・イタリア | 16 |
1929 | ルイス・マトソ | サントス | 12 |

2.3. 代表チーム経歴
フリーデンライヒはブラジル代表として国際舞台でも輝かしい活躍を見せた。ブラジル代表が初めて国際試合を行ったのは1914年、イングランドのエクセター・シティとの親善試合であり、フリーデンライヒはこの試合で代表デビューを飾った。ブラジルはこの試合に2-0で勝利したが、彼は激しいスライディングタックルにより前歯2本を失うというアクシデントに見舞われた。
彼はブラジル代表として22試合に出場し、10ゴールを記録した。特に南米選手権では、1919年と1922年の2大会で優勝を経験している。1919年の大会では、初戦のチリ戦でハットトリックを達成し、6-0の勝利に貢献した。そして、この大会の決勝戦では当時世界トップクラスと目されていたウルグアイ代表を相手に、延長後半122分という大会史上最長となる試合で決勝ゴールを挙げ、ブラジルに初のタイトルをもたらした。この歴史的勝利は、ブラジルの人々がサッカーに本格的に注目するきっかけとなり、今日の「サッカー王国ブラジル」が築かれる端緒となったとも言われている。フリーデンライヒはこの大会で得点王に輝き、最優秀選手にも選出された。このウルグアイ戦での活躍をきっかけに、ウルグアイ人から「チグリ」(虎)という愛称で呼ばれるようになった。
しかし、フリーデンライヒはアフリカ系の血を引く混血であったため、代表活動においても人種差別に直面した。例えば、1921年にアルゼンチンで開催された南米選手権では、大会主催者が黒人選手の参加を望まなかったため、彼は出場を拒否された。
1925年には、ブラジル代表の一員としてヨーロッパ遠征に参加し、その卓越したプレーからヨーロッパのファンによって「サッカーの王」と称賛された。しかし、1930年の第1回FIFAワールドカップには、リオデジャネイロ州とサンパウロ州のサッカーリーグ間の深刻な対立により、サンパウロ州の選手が招集されず、彼(当時38歳)もまた出場することはなかった。この対立のため、彼と同様にサンパウロ州を拠点としていたフィロやフェイチーソといったスター選手もウルグアイへの遠征には参加できなかった。彼はワールドカップ終了後まもなく行われたフランスとの親善試合でブラジル代表としての最後の試合を戦い、3-2の勝利に貢献した。
3. 差別と人種問題
フリーデンライヒは、ドイツ系ブラジル人の父とアフリカ系ブラジル人の母の間に生まれた混血として、ブラジル社会に深く根差していた人種差別の影響を生涯にわたって受けた。ブラジルでは、彼の誕生からわずか4年前の1888年に奴隷制度が廃止されたばかりであり、その歴史的背景が差別の圧力として彼の人生とキャリアに重くのしかかった。
彼はその出自ゆえに、当時のサッカー界で激しい差別を受け続けた。例えば、黒人選手への反則は往々にして見過ごされるという不文律が存在し、試合中に不当な扱いを受けることもあった。1921年の南米選手権では、大会主催者側の意向により、肌の色が原因で出場を拒否されるという具体的な差別を経験している。
フリーデンライヒ自身は、差別に対して公然と抗議するようなスポークスマンとしての役割を担うことはなかったものの、彼がサッカーをプレーし続けたこと自体が、多くの障壁を打ち破る行為であった。彼は、自分自身を白人であると認識していたムラートであったが、社会の偏見に抗うため、あるいはサッカー界で生き残るために、自らの出自を隠そうと努めることもあった。具体的な戦術として、彼は白人選手のように振る舞い、服装を整え、さらには試合前には髪にポマードを塗って撫でつけ、その上からネットキャップを被ることで、髪をストレートに見せて「白人のように」振る舞おうとした。これは、当時のブラジルの黒人選手たちが顔に小麦粉や米粉を塗って肌を白く見せようとしていた慣習と同様の行為であった。このような行為は、彼にとって耐え難いものであったとされている。
4. 通算得点記録の論争
アルトゥール・フリーデンライヒの通算得点数については、長年にわたる論争があり、正確な記録が不明確であることが特徴である。
4.1. 記録論争の背景
彼の得点記録が不明確である主な原因は、当時のサッカーにおける記録保存の不備に起因する。特に、彼のキャリアの多くがアマチュアリーグの時代に重なっており、詳細な記録が組織的に残されていなかったことが挙げられる。フリーデンライヒの父と、かつてのチームメイトであったマリオ・デ・アンドラーデが彼の得点記録を独自に集計していたとされているが、彼自身がアルツハイマー病を患っていた1960年代半ばに、この記録が謎の失踪を遂げたことも、記録の不確実性を高める要因となった。そのため、彼がキャリアを通じて何ゴールを挙げたのか、正確な数字を特定することは現在では不可能となっている。
4.2. 推定される得点数
記録の不確実性にもかかわらず、フリーデンライヒの通算得点数についてはいくつかの推定値が提唱されている。最も広く知られている数字は、彼が1,239試合で1,329ゴールを挙げたというものである。この数字は、ペレの通算ゴール数(1,281ゴール)を上回るものであり、ギネス世界記録にも一時的に掲載されたことで、多くの人々に知られるようになった。
しかし、この1,329ゴールという数字もあくまで推定であり、他の情報源からは異なる数字が提示されている。
- 1909年から1935年までの記録
- アレクサンドル・ダ・コスタ著『オ・チグリ・ド・フテボル』では、561試合で554ゴール。
- オーランド・ドゥアルテとセヴェリーノ・フィーリョ著『フリート・ヴァーサス・ペレ』では、562試合で558ゴール。
- IFFHSによると、323試合で354ゴール。
- サンパウロFCの記録保管所によると、125試合で105ゴール。
これらの異なる数字は、彼の記録に関する論争が現在も続いていることを示している。
5. サッカー引退後の人生
5.1. 引退と晩年
1930年代に入ると、ブラジルサッカー界はプロ化のプロセスを歩み始め、1933年にはそれが現実のものとなった。しかし、フリーデンライヒはこのサッカーのプロ化に反対の立場を取っていた。彼はプロ化に憤慨し、サッカーを続けることを拒否し、1935年に43歳でフラメンゴでのプレーを最後に現役を引退した。彼の最後の試合は、1935年7月21日に行われたフルミネンセとの一戦で、2-2の引き分けに終わった(この試合で彼は得点していない)。
サッカー界を引退した後、フリーデンライヒは酒造会社で働き始め、そこでも定年まで勤め上げた。晩年にはアルツハイマー病を患い、その治療のために彼の財産のほとんど全てが費やされた。彼はサンパウロのサッカークラブから貸与された家で生活を送り、最期を迎えた。
5.2. 死去
アルトゥール・フリーデンライヒは1969年9月6日に77歳で死去した。彼の死去は、ペレが通算1000ゴールを達成するわずか3ヶ月前の出来事であった。
6. 遺産と評価
アルトゥール・フリーデンライヒは、ブラジルサッカーとその社会に計り知れない影響を与え、後世に多大な貢献を残した。
6.1. 影響と肯定的評価
フリーデンライヒは、ブラジルサッカーにおける「ジョゴ・ボニート」の先駆者として、その革新的なプレースタイルで現代ブラジルサッカーの基礎を築いたと評価されている。彼の最も重要な遺産の一つは、アフリカ系ブラジル人としてプロサッカー界の道を切り開いたことにある。彼は、人種差別が根強い時代において、その才能とプレーで多くの障壁を打ち破り、後に続くアフリカ系ブラジル人選手たちに新たな機会と希望を与えた。彼が1919年の南米選手権でブラジルに初の優勝をもたらしたことは、ブラジル国民がサッカーに本格的に目を向け、このスポーツが国の象徴となるきっかけを作った歴史的な出来事とされている。
彼はその卓越したプレーから「サッカーの王」と称され、国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)による20世紀のブラジル人選手ランキングでは5位、南米選手ランキングでは13位に選出されるなど、その功績は国際的にも高く評価されている。
6.2. 追悼と記念
フリーデンライヒの功績を称え、ブラジル国内には彼の名を冠した多くの追悼施設や記念活動が存在する。サンパウロ市東部のヴィラ・アルピナ地区には、彼の名を冠した公園があり、フランシスコ・ファルコニ通りの始まりに位置するこの公園は、地域で最も大きい公園の一つである。また、サンパウロ市東部には彼の名が付いた通りも存在する。さらに、リオデジャネイロのマラカナン競技場複合施設内には、メインエントランス近く、ベリーニ像の左側に位置する彼の名を冠した学校がある。
7. 受賞記録
- クラブ
- パウリスターノ
- カンピオナート・パウリスタ: 1918, 1919, 1921, 1926, 1927, 1929
- トルネイオ・ドス・カンピオンイス: 1920
- サンパウロ
- カンピオナート・パウリスタ: 1931
- サンパウロ州選抜チーム
- カンピオナート・ブラジレイロ・デ・セレソンイス・エスタドゥアイス: 1922, 1923
- ブラジル代表
- 南米選手権: 1919, 1922
- ロカ・カップ: 1914
- 個人賞
- 南米選手権大会最優秀選手: 1919
- 南米選手権得点王: 1919
- IFFHS選定 20世紀ブラジル選手 5位
- IFFHS選定 20世紀南米選手 13位
- カンピオナート・パウリスタ得点王: 1912, 1914, 1917, 1918, 1919, 1921, 1927, 1928, 1929
- パウリスターノ