1. 生涯と背景
アルノルト・ハウザーは、オーストリア=ハンガリー帝国で生まれ、ウィーン、ベルリン、パリで学問を修め、マルクス主義的視点を取り入れた。ナチスの迫害を逃れイギリスへ亡命し、晩年を過ごした。
1.1. 出生と幼少期
アルノルト・ハウザーは、1892年5月8日にオーストリア=ハンガリー帝国領のテメシュヴァール(現在のルーマニア領ティミショアラ)で生まれたユダヤ系の家庭に育った。彼は1978年1月28日にブダペストでその生涯を閉じた。
1.2. 教育と学問的修練
ハウザーは、ブダペスト、ウィーン、ベルリン、パリで美術史および文学史を学んだ。ウィーンではマックス・ドヴォルシャークに美術史を師事し、ベルリンではゲオルク・ジンメル、パリではアンリ・ベルクソンやギュスターヴ・ランソンから指導を受けた。第一次世界大戦後にはイタリアで2年間を過ごし、イタリア美術に親しんだ。
1921年にベルリンへ、1924年にはウィーンへと移住した。この頃までに、彼は「私たちの時代が最も熱心に取り組んでいる芸術と文学の問題は、根本的に社会学的な問題である」という結論に至っていた。また、ハンガリーの哲学者ベルンハルト・アレクサンダーの影響も彼にとって決定的なものであり、アレクサンダーを通じてウィリアム・シェイクスピアとイマヌエル・カントに対する関心を深めた。これは、ハウザーが後に演劇、そして映画をより大きな芸術の世界の一部として体系的に研究するきっかけとなった。
1.3. 亡命と晩年
1938年以降、ナチスや矢十字党によるユダヤ系市民の迫害を逃れるため、ハウザーはイギリスに移住し、活動の多くをイギリスで行った。彼は1951年から1957年までリーズ大学の教授を務めた。この期間、彼の人生をかけた主要な研究に取り組むこととなる。初期の論文を発表した1918年以降の33年間は、研究と旅行に専念し、ほとんど著作を発表しなかった。彼は人生の長い期間をイギリスで過ごしたが、1978年にブダペストで死去した。
2. 学問的影響と思想の発展
ハウザーの思想は、ベルンハルト・アレクサンダー、エルンスト・トレルチ、カール・マンハイム、ジェルジ・ルカーチといった主要な思想家から影響を受け、マルクス主義を基盤とした芸術社会学へと発展した。
2.1. 主要思想家および学派からの影響
ハウザーは、ベルンハルト・アレクサンダーの他、エルンスト・トレルチ、カール・マンハイム、そしてジェルジ・ルカーチといった思想家たちから大きな影響を受けた。これらの思想家たちは、彼が芸術を単なる美的対象としてではなく、社会全体の文脈の中で捉える視点を確立する上で重要な役割を果たした。
2.2. マルクス主義と芸術社会学
ハウザーは、ジェルジ・ルカーチの著作を読むことからマルクス主義を受け入れ、その後ルカーチ本人と出会い、ブダペストで彼が主宰する「日曜サークル」(Sonntagskreisゾンタークスクライスドイツ語)に参加した。ハウザーがブダペストで最初の著作を発表したのは1911年から1918年の間であり、その中には、体系的な美学の創出に関する博士論文も含まれており、これは1918年に雑誌『アテネウム』に掲載された。
ハウザーは、芸術を社会現象として捉えるマルクス主義的視点に基づいて、芸術社会学を発展させた。彼は、美術史を社会学、歴史学、思想史といった社会全体の領域と統合し、芸術が自律的な現象であると同時に社会的な現象でもあるという多層的なアプローチを提示した。冷戦時代の西洋(形式に内在する解釈)と東洋(芸術の社会的制約)の美術に関する論争においては、ハウザーは中立的な立場を維持しようと努めた。
3. 主要著作と理論
ハウザーの主要な著作には、『芸術と文学の社会史』、『マニエリスム』、『芸術史の哲学』、『芸術の社会学』などがあり、これらを通じて彼は芸術と社会の関連性を深く探究した。
3.1. 《芸術と文学の社会史》
ハウザーの代表作である全4巻の『芸術と文学の社会史』(1951年)は、旧石器時代の自然主義期を経て、「平坦で、象徴的で、形式化され、抽象的で、精神的な存在に関心を抱いていた」芸術が、社会が階層的・権威主義的でなくなり、より商業主義的・ブルジョワジー的になるにつれて、いかに写実主義的かつ自然主義的になったかを論じている。この著作では、芸術が社会構造の変化と密接に結びついているという社会史的文脈が詳細に探求されている。
3.2. 《マニエリスム:ルネサンスの危機と近代芸術の起源》
『マニエリスム:ルネサンスの危機と近代芸術の起源』(1964年)において、ハウザーはルネサンスにおけるマニエリスムを危機的な転換点として分析している。彼は、この芸術様式が単なる過渡期のものではなく、近代芸術の起源とどのように関連しているかについて、その哲学的・社会的な背景から深く考察している。
3.3. 《芸術の社会学》およびその他の著作
ハウザーの他の重要な著作には、『芸術史の哲学』(1958年)や『芸術の社会学』(1974年)がある。これらの作品において、彼は芸術に対する自律的かつ社会的な現象としての多層的なアプローチをより深掘りしている。また、『ジェルジ・ルカーチとの対話』(1978年)も重要な著作として挙げられる。これらの著作は、芸術の形式的側面だけでなく、その社会的文脈と歴史的発展を総合的に理解しようとする彼の学問的姿勢を明確に示している。
4. 評価と批判
ハウザーのマルクス主義的アプローチは社会決定論的であると批判されたが、彼は冷戦時代の美術論争において中立的な立場を維持しようと努め、その多面性が学術的議論の対象となった。
4.1. 批判的視点
ハウザーのマルクス主義的アプローチは、エルンスト・ゴンブリッチによって「社会決定論」が過度に進んでいると批判された。ゴンブリッチは『芸術と文学の社会史』の書評で、ハウザーの「理論的偏見が、彼の共感を妨げたかもしれない。なぜなら、それらは私たちが『人文学』と呼ぶものの存在そのものを否定するからである。もし私たちを含むすべての人間が、その存在の経済的・社会的状況によって完全に条件付けられているとしたら、私たちは通常の共感によって過去を理解することはできないだろう」と述べた。
4.2. 学術的論争
一部の学者は、ゴンブリッチがハウザーの細かなニュアンスや、最も厳格な社会決定論の形態に対する微妙な批判を十分に評価していなかったと主張している。ハウザーは、冷戦時代の美術に関する議論において、形式に内在する解釈と芸術の社会的な制約との間で中間的な立場を維持しようと努めていた。この彼の姿勢は、学術界で様々な擁護論や反論を巻き起こし、彼の理論の多面性が議論の対象となった。
5. 影響と遺産
アルノルト・ハウザーの業績は、美術史、社会学、文化研究の分野に永続的な影響を与えた。芸術に対する彼の包括的な知識と、映画産業における長年の活動は、彼が芸術を一方では自律的なものとして、他方では社会現象として捉えることを可能にした。彼は、文化と社会の関係を理解するための重要な洞察を提供し、芸術研究の範囲を広げた先駆者の一人として高く評価されている。彼の社会史的視点は、後続の世代の学者たちに大きな影響を与え続けている。
6. 著作一覧
- 1951年: 『Sozialgeschichte der Kunst und Literaturゾツィアールゲシヒテ・デア・クンスト・ウント・リテラトゥーアドイツ語』(『芸術と文学の社会史』)
- 日本語訳:
- 『芸術の歴史』全3巻、高橋義孝訳、平凡社、1958年
- 『芸術と文学の社会史』全3巻、平凡社、1968年(新版)
- 『芸術の歴史 美術と文学の社会史』全3巻、平凡社、1977年(第3版)
- 日本語訳:
- 1958年: 『Philosophie der Kunstgeschichteフィロゾフィー・デア・クンストゲシヒテドイツ語』(『芸術史の哲学』)
- 1964年: 『Der Manierismus. Die Krise der Renaissance und der Ursprung der modernen Kunstデア・マニエリスムス・ディー・クリーゼ・デア・ルネサンス・ウント・デア・ウルシュプルング・デア・モデルネン・クンストドイツ語』(『マニエリスム:ルネサンスの危機と近代芸術の起源』)
- 日本語訳:
- 『マニエリスム ルネサンスの危機と近代芸術の始源』全3巻、若桑みどり訳、岩崎美術社、1970年、新版1981年
- 日本語訳:
- 1974年: 『Soziologie der Kunstゾツィオロギー・デア・クンストドイツ語』(『芸術の社会学』)
- 1978年: 『Im Gespräch mit Georg Lukácsイム・ゲシュプレッヒ・ミット・ゲオルク・ルカーチドイツ語』 (ジェルジ・ルカーチとの対話:3つのインタビューとエッセイ「ジェルジ・ルカーチにおけるテルティウム・ダトゥルの変奏」を含む小論文集)
- 1985年: 『ルネッサンス美術の歴史』今西雅章・金城盛紀注釈、研究社(原文テキスト抜粋版)