1. 幼少期とユース時代
アルベルト・ジラルディーノは、イタリア北西部のピエモンテ州ビエッラで1982年7月5日に生まれた。幼少期からサッカーに情熱を注ぎ、地元のASコッサテーゼ1946の下部組織でサッカーを始めた。
1.1. 初期生い立ちとピアチェンツァのユース
ジラルディーノはコッサテーゼのジュニアチームでU-15カテゴリーまでプレーし、その後ビエッレーゼのユースで1年を過ごした。1997年にはピアチェンツァのユースチームに入団。当時の監督ルイージ・シモーニの下、17歳であった2000年1月6日にACミラン戦でセリエAデビューを果たした。そのシーズンはピアチェンツァがセリエBへ降格する結果となったが、彼は17試合に出場して3ゴールを記録し、その才能の片鱗を見せた。プロとしての初ゴールは2000年3月25日のSSCヴェネツィア戦で記録されている。
2. 選手キャリア
ジラルディーノは現役時代に多くのイタリアのクラブに加え、中国のクラブでもプレーした。彼のキャリアは、一貫した得点能力と主要大会での活躍によって特徴づけられる。
2.1. クラブキャリア
ジラルディーノのクラブキャリアは、いくつかの主要な段階を経て発展した。
2.1.1. ピアチェンツァ、ヴェローナ、パルマ時代 (1999-2005)
プロデビューを飾ったピアチェンツァでの最初のシーズン(1999-2000)で、ジラルディーノは17試合3ゴールを記録した。
2000年9月、彼は共同保有の形でヘラス・ヴェローナへ移籍した。移籍金は70.00 億 ITL(約361.50 万 EUR)と報じられた。若さにもかかわらず、ヴェローナでの2シーズンでリーグ戦39試合に出場し5ゴールを挙げた。ヴェローナは2001年6月に彼を完全移籍で獲得し、移籍金は85.00 億 ITL(約439.00 万 EUR)であった。この間、彼は2001年4月28日に自動車事故に巻き込まれ、車が川に転落するも無事に脱出したが、胸骨の骨折により残りのシーズンを棒に振った。
2002年、ジラルディーノはパルマに共同保有で移籍した。これは当時のパルマ監督であったチェーザレ・プランデッリの強い要望によるものであった。当初はアドリアン・ムトゥやアドリアーノの控えとしての出場が多かったが、24試合で4ゴールを記録した。2003-04シーズンにはアドリアーノの移籍に伴いレギュラーの座を確保し、セリエAで23ゴールを挙げる大ブレイクを果たした。これはアンドリー・シェフチェンコに次ぐリーグ2位の記録であり、彼はこの成功をプランデッリ監督の指導のおかげだと語っている。この活躍により2004年6月までの契約延長を結んだ。2004-05シーズンもセリエAで23ゴールを記録し、2年連続で得点ランク2位となった。このシーズンにはボローニャとの残留プレーオフでゴールを決め、チームを救った。パルマではリーグ戦97試合で51ゴールという驚異的な記録を残した。
2.1.2. ACミラン時代 (2005-2008)
2005年7月17日、ジラルディーノは2500.00 万 EURの移籍金でミランへ移籍し、背番号11番を着用した。ミランでの最初のゴールはサンプドリア戦で記録した。2005-06シーズンはリーグ戦34試合で17ゴール、コッパ・イタリアでは3試合2ゴールと好調だったが、チャンピオンズリーグでは12試合無得点に終わった。この時期の活躍が評価され、2005年にはセリエA年間最優秀選手とイタリア人サッカー選手賞を受賞している。
2006-07シーズンには、チャンピオンズリーグでの初ゴールをアンデルレヒト戦で記録。このシーズンも欧州の舞台では2ゴールに留まったが、そのうちの1つは2007年5月3日に行われたマンチェスター・ユナイテッドとの準決勝第2戦での決定的な3点目のゴールであった。この勝利によりミランは決勝に進出し、リヴァプールとの再戦に臨んだ。決勝ではフィリッポ・インザーギとの交代でわずか2分間出場し、チームの2-1での勝利に貢献した。このシーズン、彼はリーグ戦で12ゴールを挙げ、ミランのチーム内得点王となった。シーズン終了後、彼はチャンピオンズリーグ決勝に出場できなかったことに苦い思いを抱き、移籍の可能性も検討したが、クラブとの話し合いの末、残留を決意した。
2007-08シーズンは、ラツィオ戦での2ゴール(5-1勝利)や、シャフタール・ドネツク戦での2ゴール(4-1勝利)を記録したが、シーズン後半にはカルロ・アンチェロッティ監督の下でインザーギやアレシャンドレ・パトに次ぐ3番目のストライカーとなり、ベンチを温める機会が増えた。彼はミランでの最後の数ヶ月をキャリアで最悪の時期と表現しつつも、ミランでの経験自体は良いものだったと強調した。ミラン在籍中、ジラルディーノはボールをキープし、攻撃をリードする能力に優れた強力なフォワードと評価された。
2.1.3. フィオレンティーナ時代 (2008-2012)

2008年5月28日、ジラルディーノは1500.00 万 EURでフィオレンティーナへ移籍し、5年契約を結んだ。フィオレンティーナでは、かつてのパルマ時代のチームメイトであるアドリアン・ムトゥ、セバスティアン・フレイ、マルコ・ドナデル、そして恩師のチェーザレ・プランデッリ監督と再会した。
フィオレンティーナでの初ゴールは、2008-09チャンピオンズリーグ予選3回戦のスラヴィア・プラハ戦で、チームの2点目を決めた。8月31日には、リーグ開幕戦のユヴェントス戦で89分に同点ゴールを記録。10月18日には、レッジーナ戦での2ゴールにより、セリエAで100ゴールを達成した史上7番目に若いイタリア人選手となった。10月27日、パレルモ戦で手でゴールを奪うという非スポーツマン的行為により2試合の出場停止処分を受けたが、本人は意図的ではなかったと主張した。
2009年4月25日、ローマ戦で2ゴールを挙げ、過去6年間で100ゴールを達成。これはヨーロッパのサッカー選手の中で、同時期にサミュエル・エトオ、ティエリ・アンリ、ルカ・トーニに次ぐ得点数であった。2008-09シーズンはセリエAで19ゴール(すべてオープンプレー)を挙げ、リーグ得点ランキング4位に入り、フィオレンティーナのリーグ4位とチャンピオンズリーグ出場権獲得に大きく貢献した。
翌2009-10シーズンのチャンピオンズリーグでは、スポルティングCP戦での劇的な同点ゴール、デブレツェン戦での得点、そしてグループステージ最終節のアンフィールドでのリヴァプール戦でのロスタイム弾など、目覚ましい活躍を見せた。このゴールにより、ジラルディーノはフィオレンティーナでの欧州カップ戦での得点数を10とし、ガブリエル・バティストゥータのクラブ記録に並んだ。彼は後にアンフィールドでのゴールを自身のキャリアで最も重要なゴールだと語っている。このシーズンはチャンピオンズリーグで4ゴール、セリエAで15ゴールを記録した。
2011年2月27日、バーリ戦でシーズン9ゴール目を記録し、プロキャリア通算200ゴールを達成(セリエAで138、コッパ・イタリアで8、チャンピオンズリーグで13、UEFAカップで5、A代表で17、U-21代表で15、オリンピックチームで4)。同年3月6日のカターニア戦でのゴールは、フィオレンティーナでのセリエA通算44ゴール目となり、クラブの歴代得点ランキング10位、セリエA歴代得点ランキング30位に入った。
2011年8月21日、コッパ・イタリアのチッタデッラ戦で2011-12シーズンの最初のゴールを記録。セリエAでの初ゴールは、第2節のボローニャ戦で生まれた。12月17日にシーズン2ゴール目を挙げた。
2.1.4. ジェノアとボローニャへのローン移籍 (2012-2014)
2012年1月3日、ジラルディーノは800.00 万 EURの移籍金でジェノアと4年半の契約を結んだ。背番号は11番がボシュコ・ヤンコヴィッチに与えられていたため、82番を選んだ。1月29日のナポリ戦でジェノアでの初ゴールを記録。サン・シーロで行われたインテル戦ではPKで2ゴールを挙げたが、試合は5-4で敗れた。リーグ戦最終節のパレルモ戦で4ゴール目を決め、ジェノアの降格圏から6ポイント差での残留に貢献した。2011-12シーズンの後半、ジェノアで14試合4ゴールを記録した。
2012年8月31日、ジラルディーノは130.00 万 EURのレンタル料でボローニャへ移籍し、234.00 万 EURの契約を結んだ。9月1日のミラン戦でデビュー。9月16日のローマ戦では2ゴールを挙げ、0-2の劣勢から3-2の逆転勝利に貢献した。9月30日のカターニア戦でも2ゴールを記録し、5試合で5ゴールという好調ぶりを見せた。2013年1月12日のキエーヴォ・ヴェローナ戦でも2ゴールを挙げ、ボローニャを4-0の勝利に導いた。3月10日のインテル戦ではディエゴ・ペレスのクロスからボレーシュートで決勝点を挙げ、ボローニャを中位に定着させ、降格の懸念を払拭した。このシーズンは35試合で13ゴールを記録した。
ボローニャでの成功を受けて、ジェノアのエンリコ・プレツィオージ会長は彼の非売品を宣言し、新監督となったファビオ・リヴェラーニの要望でジェノアに復帰した。2013年8月17日、コッパ・イタリアのスペツィア戦でシーズン初ゴールを決めたが、試合はPK戦の末に敗れた。リーグ開幕戦のインテル戦では0-2で敗れ、続くフィオレンティーナ戦では2-5で敗れたもののシーズン初ゴールを記録した。
10月20日、キエーヴォ・ヴェローナ戦で2ゴールを挙げ、ジェノアの2-1勝利に貢献。10月30日、セリエA第9節のパルマ戦ではPKを失敗した後、決勝点を挙げた。続くラツィオ戦でもPKで追加点を挙げた。11月23日にはミラン戦でPKから同点ゴールを決め、トップリーグでのシーズン6ゴール目を達成した。12月8日のカリアリ戦では先制点を決めたが、試合は1-2で敗れた。2014年1月6日、サッスオーロ戦でPKからシーズン8ゴール目を記録し、ジェノアのセリエA通算500勝に貢献した。1月26日、フィオレンティーナ戦で先制点を決めるも、試合は3-3の引き分けに終わった。2月16日のウディネーゼ戦ではジェノア復帰後初の2ゴールを挙げ、3-3の引き分けに貢献。この2ゴールによりシーズン11ゴールに到達し、セリエA通算170ゴールを記録し、ジュゼッペ・サヴォルディを抜いて歴代14位の座についた。2013-14シーズンは36試合15ゴールで終えた。
2.1.5. 広州恒大とフィオレンティーナへのローン移籍 (2014-2015)
2014年7月5日、ジェノアはジラルディーノに対し、中国の広州恒大から500.00 万 EURのオファーを受け入れたと発表した。ジラルディーノは2016年12月31日までの契約を結び、約1000.00 万 EURと報じられた。彼は2014年の中国スーパーリーグで14試合5ゴールを記録し、広州恒大は4年連続でリーグタイトルを獲得した。
2015年1月25日、フィオレンティーナは広州恒大との間でジラルディーノを2014-15シーズン終了までの期限付き移籍で獲得したと公式に発表した。買い取りオプションは150.00 万 EURと報じられた。1月31日のジェノア戦でフィオレンティーナ復帰後初ゴールを記録し、1-1の引き分けに貢献した。4月26日、カリアリ戦でセリエA通算175ゴール目を記録。5月18日には古巣のパルマ戦でゴールを決め、フィオレンティーナの3-0勝利に貢献した。この後半シーズンは14試合4ゴールで終えた。シーズン終了後、フィオレンティーナは買い取りオプションを行使せず、ジラルディーノは中国に戻ることになった。
2.1.6. パレルモ、エンポリ、ペスカーラ、スペツィア時代 (2015-2018)
2015年8月27日、ジラルディーノはパレルモと契約を結んだ。9月13日のカルピ戦でデビュー。10月4日のローマ戦でシーズン初ゴールを記録。1月30日、カルピ戦でのゴールでセリエA通算184ゴール目を記録し、ガブリエル・バティストゥータに並びセリエA歴代11位タイとなった。また、彼はフランチェスコ・トッティとロベルト・バッジョとともに、セリエAで最も多くの異なるクラブからゴールを奪った選手(38クラブ)という記録に並んだ。2016年5月15日、最終節のヴェローナ戦で決勝点を挙げ、チームを3-2の勝利に導き、パレルモのセリエA残留を助けた。このゴールにより、彼はジュゼッペ・シニョーリとアレッサンドロ・デル・ピエロに並ぶセリエA歴代9位タイの得点者(188ゴール)となった。このシーズンはリーグ戦33試合で10ゴールを記録した。
2016年7月7日、ジラルディーノはエンポリと2年契約を結んだが、6ヶ月間で公式戦16試合出場1ゴールに終わり、2017年1月9日に契約解除してペスカーラに移籍。ペスカーラではわずか3試合の出場に留まった。
2017年10月3日、ジラルディーノはスペツィアと契約を結んだ。2017-18シーズン、彼はセリエBで16試合に出場し6ゴールを記録した。シーズン終了後に契約を解除し、2018年9月20日に現役引退を発表した。
2.2. 代表キャリア
ジラルディーノはイタリアの各年代別代表およびA代表で活躍し、多くの国際大会で重要な役割を果たした。
2.2.1. ユース代表 (U-15、U-16、U-19、U-21、オリンピック)
ジラルディーノは、イタリアU-15(1998年、10試合1ゴール)、イタリアU-16(1998年、2試合0ゴール)、イタリアU-19(1999-2000年、3試合0ゴール)でプレーした。
特にイタリアU-21では、2000年から2004年にかけて24試合に出場し15ゴールを記録。2004年のUEFA U-21欧州選手権ではチームを優勝に導き、自身も大会得点王(4ゴール)と最優秀選手に輝いた。彼は現在もイタリアU-21代表の歴代最多得点者である(30試合19ゴール)。
同年、アテネオリンピックにもイタリアオリンピック代表として出場し、6試合で4ゴールを挙げて銅メダル獲得に貢献した。3位決定戦のイラク戦では決定的なゴールを記録している。このオリンピックでの活躍は、日本でも彼の知名度を高めるきっかけとなった。
2.2.2. リッピ監督第1期とドナドーニ監督時代 (2004-2008)
2004年のアテネオリンピック後、ジラルディーノはA代表監督のマルチェロ・リッピに招集された。2004年9月4日、22歳でノルウェーとのワールドカップ予選でA代表デビューを果たした。同年10月13日、ベラルーシ戦で代表初ゴールを記録した。リッピ監督は彼をルカ・トーニとのコンビで先発起用することが多かった。
2006 FIFAワールドカップでは23人のメンバーに選出され、優勝に貢献した。グループステージ第2戦のアメリカ合衆国戦では、アンドレア・ピルロのフリーキックに飛び込むヘッドで先制ゴールを記録。準決勝の開催国ドイツ戦では途中出場し、延長戦ではポストに当たる惜しいシュートを放った。試合終盤にはアレッサンドロ・デル・ピエロの追加点をアシストし、チームの2-0勝利と決勝進出に貢献した。イタリアは決勝でフランスをPK戦で破り、24年ぶりにワールドカップのトロフィーを掲げた。
2007年10月17日、南アフリカ共和国との親善試合でダニエレ・デ・ロッシが交代した後、キャリアで初めて代表チームのキャプテンマークを巻いた。しかし、ミランでの2007-08シーズンは30試合でわずか7ゴールと不調に終わり、ロベルト・ドナドーニ監督によってEURO 2008のメンバーから外された。
2.2.3. リッピ監督第2期とプランデッリ監督時代 (2008-2013)
2008年8月20日、リッピ監督が再び代表監督に就任すると、ジラルディーノも代表に復帰した。オーストリアとの親善試合では、チームの1点目を決め、2-2の引き分けに貢献した。
2009年6月、リッピ監督は南アフリカで開催された2009 FIFAコンフェデレーションズカップにジラルディーノを招集した。大会数日前のニュージーランドとの親善試合では2ゴールを挙げ、素晴らしいパフォーマンスを見せた。しかし、イタリアはブラジルに敗れ、コンフェデレーションズカップのグループステージで敗退した。
2009年10月10日、アイルランドとのワールドカップ予選では試合終了間際に同点ゴールを決め、イタリアの2010 FIFAワールドカップ出場権獲得に貢献した。彼はこのゴールを自身のキャリアで最も重要なゴールだと語っている。10月14日のキプロス戦では、2点ビハインドから試合終盤の13分間でハットトリックを達成し、3-2の逆転勝利をもたらした。
2010 FIFAワールドカップ本大会では、グループステージのパラグアイ戦で先発出場したが、チームは1-1の引き分けに終わった。この大会でのイタリアはグループステージで敗退し、ジラルディーノも得点を挙げることはできなかった。
2010 FIFAワールドカップの失望の後、チェーザレ・プランデッリがイタリアの新監督に就任した。2010年9月7日、フェロー諸島とのEURO 2012予選第2戦で先制点を挙げ、チームは5-0で勝利した。2011年3月29日には、キエフで行われたウクライナとの親善試合(0-2勝利)でキャプテンを務めた。フィオレンティーナの選手がアッズーリのキャプテンを務めるのは、ジャンカルロ・アントニョーニ以来30年ぶりのことであった。
ボローニャ移籍後の好調を受け、ジラルディーノはチームメイトのアレッサンドロ・ディアマンティとともに再び代表に招集された。2012年10月7日、1年以上のブランクを経て、アルメニアとデンマークとの2014 FIFAワールドカップ予選に招集された。2月6日のオランダとの親善試合では、終盤に途中出場し、マルコ・ヴェッラッティの同点ゴールをアシストした。2013年5月31日、サンマリノとの親善試合でゴールを挙げ、イタリアの4-0勝利に貢献した。
サンマリノ戦での好パフォーマンスを受け、プランデッリ監督は2013年6月3日にジラルディーノをブラジルで開催された2013 FIFAコンフェデレーションズカップのメンバーに招集した。6月16日のグループステージ初戦のメキシコ戦では、後半にマリオ・バロテッリとの交代で出場した。バロテッリの負傷後、ジラルディーノはスペインとの準決勝や、ウルグアイとの3位決定戦を含むイタリアのその後の全試合で彼の代わりを務めた。イタリアは3位決定戦を制し、銅メダルを獲得した。
2013年9月6日、マリオ・バロテッリとパブロ・ダニエル・オスヴァルドがともに欠場していたため、ジラルディーノはブルガリアとのワールドカップ予選に先発出場し、前半のゴールで1-0の勝利を確定させた。このゴールにより、彼はイタリア代表の歴代得点者リストでロベルト・ベッテガを抜き、リッカルド・カラペレーゼが1956年2月12日のフランス戦でゴールを決めて以来、57年ぶりにジェノアの選手がアッズーリでゴールを決めたことになった。
3. プレースタイル
アルベルト・ジラルディーノは、その身長にもかかわらず、スピード、機敏さ、勤勉さを兼ね備えた多才なフォワードであった。彼は空中戦に強く、ヘッドやアクロバティックなシュートも得意であり、優れたポジショニングセンスと得点能力を持っていた。主にペナルティエリア内でプレーすることを好むストライカーであり、その動きは得点機会を最大限に活かすためのタイミング、状況判断、そして味方からのクロスを正確にフィニッシュする能力に支えられていた。
また、優れたテクニックとゴールへの鋭い目を持っていた彼は、ファーストタッチでのシュート能力に加え、ボールをプロテクトし、ゴールを背にして体勢を維持する技術と強さでも知られていた。この能力を活かして、彼はチームに奥行きをもたらし、ボールをキープして味方にパスを供給することで、アシストを記録することもあった。自然な右利きであったが、パルマでのキャリア初期に左足の技術も向上させ、両足を遜色なく使えるようになった。
4. 監督キャリア
選手引退後、アルベルト・ジラルディーノはサッカー指導者としての道を歩み始めた。
4.1. 初期監督キャリア (レッツァート、プロ・ヴェルチェッリ、シエーナ)
2018年9月、ジラルディーノはUEFAのA級およびB級指導者ライセンスを取得した。同年10月7日、セリエDのレッツァートのアシスタントコーチ兼テクニカルディレクターに就任し、ルカ・プリーナ監督を支えた。2019年2月28日、プリーナが監視役に降格したことに伴い、ジラルディーノはレッツァートの監督に昇格した。
2019年7月11日、プロ・ヴェルチェッリの監督に就任。
2020年9月8日、破産と改名を経てセリエDから再出発することになったシエーナの新監督に任命された。2021年1月12日、リーグ2位という成績ながら、シエーナとの双方合意の上で辞任した。しかし、同年2月11日には再びシエーナの監督に復帰。彼はシーズンを3位で終え、クラブがセリエCに再昇格した2021-22シーズンも監督を務めることが確定した。しかし、2021年10月24日、シエーナはセリエCでの低調なスタートを受け、ジラルディーノを再び解任したと発表した。
4.2. ジェノア時代 (2022-2024)
2022年7月1日、ジラルディーノはジェノアのU-19チームであるプリマヴェーラの新監督として発表された。
同年12月6日、アレクサンダー・ブレシンがセリエBのトップチーム監督を解任されたことに伴い、ジラルディーノは暫定的にトップチームの監督に昇格した。その後、チームの成績が好転し、パフォーマンスが改善されたため、ジラルディーノは正式にトップチームの監督に就任した。彼はジェノアをセリエAへの直接昇格に導き、2024年6月30日までの契約延長にサインし、さらに1年間の延長オプションも付帯した。しかし、2024年11月19日、成績不振により解任された。
5. 私生活

ジラルディーノは2001年4月、運転免許を取得したばかりの頃に友人の姉妹を乗せて車を運転中、車が道から外れて運河に転落するという交通事故を起こした。しかし、彼は脊椎に負傷を負いながらも、車のドアを開けて姉妹を安全な場所に引き上げ、命を救った。
彼はかつてミランのチームメイトであったダニエレ・ボネーラと親しい友人であり、彼らはパルマでもチームメイトであった。ジラルディーノは、ボネーラの幼い娘タリサに自身のゴールの一つを捧げたこともある。
ゴール後の特徴的なパフォーマンスとして、膝をついて「バイオリンを弾く」セレブレーションが有名である。
2006年3月31日にアリーチェ・ブレゴリと婚約し、2008年3月2日には長女ジネヴラが誕生した。夫妻は2009年7月5日にジェノア県サンタ・マルゲリータ・リーグレのチェルヴァーラ修道院で結婚式を挙げた。2011年3月19日には次女ジェンマが、2012年9月4日には三女ジュリアが誕生している。
6. 栄誉
ジラルディーノは選手および監督として以下の栄誉を獲得した。
ACミラン
- UEFAチャンピオンズリーグ: 2006-07
- UEFAスーパーカップ: 2007
- FIFAクラブワールドカップ: 2007
広州恒大
- 中国サッカー・スーパーリーグ: 2014
イタリア代表
- FIFAワールドカップ: 2006
- UEFA U-21欧州選手権: 2004
- オリンピック銅メダル: 2004
- FIFAコンフェデレーションズカップ: 3位 2013
個人
- セリエA年間最優秀サッカー選手賞: 2005
- セリエAイタリア人サッカー選手賞: 2005
- セリエA若手サッカー選手賞: 2004
- UEFA U-21欧州選手権ゴールデンプレイヤー: 2004
- UEFA U-21欧州選手権得点王: 2004
勲章
カヴァリエーレ: 2004
ウッフィチャーレ: 2006
- CONI:スポーツ功労金襟章: 2006
7. キャリア統計
7.1. クラブ統計
クラブ | シーズン | リーグ | 国内カップ | 大陸大会 | その他 | 合計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ディビジョン | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | ||
ピアチェンツァ | 1999-2000 | セリエA | 17 | 3 | 0 | 0 | - | - | 17 | 3 | ||
2000-01 | セリエA | 0 | 0 | 3 | 2 | - | - | 3 | 2 | |||
合計 | 17 | 3 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 20 | 5 | ||
ヴェローナ | 2000-01 | セリエA | 22 | 3 | - | - | 2 | 0 | 24 | 3 | ||
2001-02 | セリエA | 17 | 2 | 2 | 1 | - | - | 19 | 3 | |||
合計 | 39 | 5 | 2 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 43 | 6 | ||
パルマ | 2002-03 | セリエA | 24 | 4 | 2 | 1 | 2 | 0 | - | 28 | 5 | |
2003-04 | セリエA | 34 | 23 | 2 | 0 | 4 | 3 | - | 40 | 26 | ||
2004-05 | セリエA | 38 | 23 | 1 | 0 | 8 | 1 | 1 | 1 | 48 | 25 | |
合計 | 96 | 50 | 5 | 1 | 14 | 4 | 1 | 1 | 116 | 56 | ||
ミラン | 2005-06 | セリエA | 34 | 17 | 3 | 2 | 10 | 0 | - | 47 | 19 | |
2006-07 | セリエA | 30 | 12 | 4 | 2 | 11 | 2 | - | 45 | 16 | ||
2007-08 | セリエA | 30 | 7 | 1 | 0 | 7 | 2 | 2 | 0 | 40 | 9 | |
合計 | 94 | 36 | 8 | 4 | 28 | 4 | 2 | 0 | 132 | 44 | ||
フィオレンティーナ | 2008-09 | セリエA | 35 | 19 | 1 | 0 | 10 | 6 | - | 46 | 25 | |
2009-10 | セリエA | 36 | 15 | 3 | 0 | 9 | 4 | - | 48 | 19 | ||
2010-11 | セリエA | 35 | 12 | 1 | 0 | - | - | 36 | 12 | |||
2011-12 | セリエA | 12 | 2 | 1 | 1 | - | - | 13 | 3 | |||
合計 | 118 | 48 | 6 | 1 | 19 | 10 | 0 | 0 | 143 | 59 | ||
ジェノア | 2011-12 | セリエA | 14 | 4 | - | - | - | 14 | 4 | |||
2012-13 | セリエA | 0 | 0 | 1 | 1 | - | - | 1 | 1 | |||
2013-14 | セリエA | 36 | 15 | 1 | 1 | - | - | 37 | 16 | |||
合計 | 50 | 19 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 52 | 21 | ||
ボローニャ (loan) | 2012-13 | セリエA | 36 | 13 | 1 | 0 | - | - | 37 | 13 | ||
広州恒大 | 2014 | 中国超級 | 14 | 5 | 1 | 1 | 2 | 0 | - | 17 | 6 | |
フィオレンティーナ (loan) | 2014-15 | セリエA | 14 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 14 | 4 | |
パレルモ | 2015-16 | セリエA | 33 | 10 | 1 | 1 | - | - | 34 | 11 | ||
エンポリ | 2016-17 | セリエA | 14 | 0 | 2 | 1 | - | - | 16 | 1 | ||
ペスカーラ | 2016-17 | セリエA | 3 | 0 | - | - | - | 3 | 0 | |||
スペツィア | 2017-18 | セリエB | 16 | 6 | 0 | 0 | - | - | 16 | 6 | ||
キャリア通算 | 544 | 199 | 31 | 14 | 63 | 18 | 5 | 1 | 643 | 232 |
7.2. 代表統計
代表チーム | 年 | 出場 | ゴール |
---|---|---|---|
イタリア | 2004 | 4 | 1 |
2005 | 8 | 4 | |
2006 | 11 | 4 | |
2007 | 2 | 0 | |
2008 | 5 | 1 | |
2009 | 9 | 6 | |
2010 | 6 | 1 | |
2011 | 2 | 0 | |
2012 | 0 | 0 | |
2013 | 10 | 2 | |
合計 | 57 | 19 |
7.2.1. 代表ゴール
イタリア代表として記録した国際試合での各得点。
# | 日付 | 場所 | 対戦相手 | スコア | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2004年10月13日 | パルマ、イタリア | ベラルーシ | 4-2 | 4-3 | 2006 FIFAワールドカップ予選 |
2 | 2005年2月9日 | カリアリ、イタリア | ロシア | 1-0 | 2-0 | 親善試合 |
3 | 2005年8月17日 | ダブリン、アイルランド | アイルランド | 2-0 | 2-1 | 親善試合 |
4 | 2005年10月12日 | レッチェ、イタリア | モルドバ | 2-1 | 2-1 | 2006 FIFAワールドカップ予選 |
5 | 2005年11月12日 | アムステルダム、オランダ | オランダ | 1-1 | 3-1 | 親善試合 |
6 | 2006年3月1日 | フィレンツェ、イタリア | ドイツ | 1-0 | 4-1 | 親善試合 |
7 | 2006年4月30日 | ジュネーブ、スイス | スイス | 1-0 | 1-1 | 親善試合 |
8 | 2006年6月17日 | カイザースラウテルン、ドイツ | アメリカ合衆国 | 1-0 | 1-1 | 2006 FIFAワールドカップ |
9 | 2006年9月6日 | サン=ドニ、フランス | フランス | 1-2 | 1-3 | UEFA EURO 2008予選 |
10 | 2008年8月20日 | ニース、フランス | オーストリア | 1-2 | 2-2 | 親善試合 |
11 | 2009年6月10日 | プレトリア、南アフリカ | ニュージーランド | 1-1 | 4-3 | 親善試合 |
12 | 2-2 | |||||
13 | 2009年10月10日 | ダブリン、アイルランド | アイルランド | 2-2 | 2-2 | 2010 FIFAワールドカップ予選 |
14 | 2009年10月14日 | スタディオ・エンニオ・タルディーニ、パルマ、イタリア | キプロス | 1-2 | 3-2 | 2010 FIFAワールドカップ予選 |
15 | 2-2 | |||||
16 | 3-2 | |||||
17 | 2010年9月7日 | フィレンツェ、イタリア | フェロー諸島 | 1-0 | 5-0 | UEFA EURO 2012予選 |
18 | 2013年5月31日 | ボローニャ、イタリア | サンマリノ | 2-0 | 4-0 | 親善試合 |
19 | 2013年9月6日 | パレルモ、イタリア | ブルガリア | 1-0 | 1-0 | 2014 FIFAワールドカップ予選 |
8. 監督キャリア統計
チーム | 就任 | 退任 | 記録 | ||||
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試合数 | 勝利 | 引き分け | 敗北 | 勝率 | |||
レッツァート | 2019年2月28日 | 2019年6月30日 | 6|0|4|60.0% | ||||
プロ・ヴェルチェッリ | 2019年7月11日 | 2020年6月30日 | 9|10|11|30.0% | ||||
シエーナ | 2020年9月8日 | 2021年1月11日 | 5|2|2|55.6% | ||||
2021年2月11日 | 2021年10月24日 | 13|10|9|40.6% | |||||
ジェノア | 2022年12月6日 | 2024年11月19日 | 32|24|23|40.5% | ||||
合計 | 65|46|49|40.6% |