1. 概要
ディック・ザ・ブルーザー(Dick the Bruiser英語)ことウィリアム・フリッツ・アフィルス・ジュニア(William Fritz Afflis Jr.英語、1929年6月27日 - 1991年11月10日)は、アメリカ合衆国のプロフットボール選手、プロモーター、そして伝説的なプロレスラーである。インディアナ州デルファイで生まれ、後にインディアナポリスを拠点に活動した。
NFLのグリーンベイ・パッカーズで4シーズンにわたりラインマンとして活躍した後、1954年にプロレスラーに転向。その名の通り荒々しいファイトスタイルで知られ、日本では「生傷男」の異名で親しまれた。ヒールとして名を馳せた後、ミッドウェスト地区ではベビーフェイスとして絶大な人気を博し、ルー・テーズ、ボボ・ブラジル、フレッド・ブラッシーらとの激しい抗争を繰り広げた。
プロモーターとしては、本拠地のインディアナポリスでワールド・レスリング・アソシエーション(WWA)を設立・運営し、AWAと提携しながら多くのレスラーを輩出した。現役時代には、AWA世界ヘビー級王座やWWA世界ヘビー級王座(インディアナポリス版)を多数獲得したほか、盟友クラッシャー・リソワスキーとのタッグチームでも活躍し、キャリアを通じて20のタッグタイトルを獲得した。
引退後もGLOWの解説者やWCWのタレントエージェントを務めるなど、プロレス界に貢献。その功績が認められ、WWE殿堂(2021年)、プロフェッショナル・レスリング・ホール・オブ・フェイム(2005年、2011年)、WCW殿堂(1994年)、セントルイス・レスリング殿堂(2007年)、レスリング・オブザーバー・ニュースレター殿堂(1996年)に迎えられている。
2. 生涯
2.1. 幼少期と教育
ウィリアム・フリッツ・アフィルス・ジュニアは1929年6月27日にインディアナ州デルファイで生まれた。第二次世界大戦中に母親がインディアナポリスで職を得たため、家族でインディアナポリスに移住。アフィルスはインディアナポリスのショートリッジ高校で1年生と2年生の時にフットボールをプレーした。母親が職を失った後、家族はデルファイに戻ったが、デルファイの高校にはフットボールチームがなかった。
そのため、アフィルスはフットボールとレスリングを続けるため、近隣のラファイエットにあるYMCAに住み込み、ラファイエット・ジェファーソン高校に通学した。その後、パデュー大学とネバダ大学リノ校に進学し、両校でアメリカンフットボールの代表チームでプレーした。リノではナイトクラブの用心棒としても働いていた。
学生時代はフットボール選手として各大学からスカウトの声が掛かったものの、喧嘩が原因の放校処分で7つの大学を渡り歩いており、結局は卒業できなかったという。在籍期間の最長はパデュー大学の7カ月間で、地元のインディアナ大学は2日間で退学になったとされる。
2.2. アメリカンフットボール経歴
アフィルスは1951年のプロフットボールドラフトで16巡目、全体186位で指名され、1951年から1954年までグリーンベイ・パッカーズでラインマンとしてフットボールをプレーした。この4年間でパッカーズがプレーしたレギュラーシーズン全48試合に出場したが、チームは一度も4位以上の成績を収めることはなかった。パッカーズでのプレー中に喉を負傷したことが原因で、彼は生涯にわたって特徴的なしゃがれ声を持つことになった。
2.3. プロレスデビューと初期
アフィルスは1954年にプロレスラーとしてデビューした。バーン・ガニアに師事し、トレーニングを受けた。1955年にはシカゴで「ブルーザー」のリングネームで活動を開始し、ガニアやルー・テーズと対戦した。ガニアは彼がプロレスラーとしてのキャリアをスタートさせる上で指導的な役割を果たした。
1950年代後半にかけて、ディック・ザ・ブルーザーはデトロイト地区で毎週木曜日にテレビ中継される試合に出場し、その荒々しいファイトスタイルで知られるようになった。彼の対戦相手は通常、彼に「粉砕」される若手レスラーであり、その試合とインタビューは非常に効果的で、デトロイト地区では彼の名が知れ渡った。テレビ中継での唯一の敗北はカウボーイ・ボブ・エリスによるものだったが、デトロイトのオリンピアでの2度の再戦ではブルーザーが勝利を収めた。
1963年にはNFLスターのアレックス・カラスとの試合が計画された。カラスとブツィカリス兄弟が共同経営するリンデルズ・バーで、ブルーザーとカラスが乱闘するという筋書きだったが、イベントが仕組まれたものであることを知らなかったブツィカリス兄弟の叔父がブルーザーを襲撃したことで、仕組まれた乱闘は本当の喧嘩に発展した。この乱闘でブルーザーはバーを破壊し、駆けつけた数人の警察官を負傷させた。伝えられるところによると、300人以上の負傷者が出たという。最終的には8人の警察官によって取り押さえられ、ブルーザーは最終的に試合に勝利した。彼は加重暴行罪で起訴され、乱闘中に負傷させた2人の警察官に対し、5.00 万 USDの損害賠償を支払うことになった。

1957年11月19日、ディック・ザ・ブルーザーはドクター・ジェリー・グラハムとタッグを組み、ニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデンでアントニオ・ロッカとエドワード・カーペンティアと対戦した。試合後もレスラー間の乱闘が続き、多数のファンがリングに乱入し、暴動に発展した。この暴動で2人の警察官が負傷し、2人のファンが逮捕された。60人以上の警察官が怒り狂った群衆を解散させるのに苦労し、アリーナの床には数百脚の壊れた椅子が散乱した。この結果、アフィルスはニューヨーク州アスレチック・コミッションからプロレス活動を永久追放された。
3. プロレスリング経歴
3.1. 主な活動地域と団体
アフィルスは、レスラー仲間でビジネスパートナーでもあったウイルバー・スナイダーと共に、1964年に長年のオーナーであったジム・バーネットからインディアナポリスのNWAプロモーションを買収した。アフィルスはこのテリトリーをワールド・レスリング・アソシエーション(WWA)と改称し、自身をそのチャンピオンとしてプロモートした。WWAは独自のタイトルとチャンピオンを持つ独立したプロモーションとして運営されたが、より大きなAWA(バーン・ガニアが所有)とは提携関係にあり、タレントを共有し、お互いのチャンピオンシップを承認し合った。
この提携は両プロモーションに利益をもたらし、ブルーザーは「いとこ」と称された長年のタッグパートナー、クラッシャー・リソワスキーと共に5度のAWA世界タッグ王座を獲得した。アフィルスは、このテリトリーでマネージャーのボビー・ヒーナンに「イタチ」(The Weasel英語)というニックネームを最初につけた人物でもある。アフィルスのWWAは1964年から1989年まで運営されたが、最終的にはWWF(現WWE)へのタレント流出、テレビ放映権の喪失、観客動員の減少に疲弊し、活動を停止した。1971年には、ザ・シークと組んで、新たに創設されたWWWFタッグチーム王座をクレイジー・ルーク・グラハムとターザン・タイラーと争ったが、このタイトルはグラハムとタイラーが獲得した。


中西部地区では1957年12月13日、ウィルバー・スナイダーを下してデトロイト版のUSヘビー級王座を獲得。以降、1960年代初頭にかけて、スナイダー、バーン・ガニア、カウボーイ・ボブ・エリス、ボボ・ブラジル、フリッツ・フォン・エリックらを相手にタイトルを争った。1963年7月15日にはハワイにてカーティス・イヤウケアを破り、ハワイ版のUSヘビー級王座も奪取している。その後、AWAにて同タイプのクラッシャー・リソワスキーとタッグチームを組み、1963年8月20日にクラッシャーとのコンビでAWA世界タッグ王座を獲得した。
1964年4月22日にはロサンゼルスのワールドワイド・レスリング・アソシエーツにてフレッド・ブラッシーからWWA世界ヘビー級王座を奪取。同年、自身の団体WWAをインディアナポリスに設立。ロサンゼルス版WWA王座を獲得した同日に、自らをインディアナポリス版WWAの初代世界ヘビー級王者に認定する。ロサンゼルス版のWWA世界ヘビー級王座は同年7月22日にザ・デストロイヤーに敗れて失ったものの、インディアナポリスではベビーフェイスの団体エース兼オーナーとして活躍し、1965年にはジョニー・バレンタインやジン・キニスキーとインディアナポリス版のWWA世界ヘビー級王座を争った。
AWAでもベビーフェイスのポジションに回り、1966年11月12日にはネブラスカ州オマハにてマッドドッグ・バションを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得している。クラッシャー・リソワスキーとのタッグでも、ラリー・ヘニング&ハーリー・レイス、クリス・マルコフ&アンジェロ・ポッフォ、マッドドッグ・バション&ブッチャー・バション、ミツ・アラカワ&ドクター・モトなどのチームと抗争を繰り広げ、1968年12月28日にはイリノイ州シカゴにて、当時AWAとWWAの両世界タッグ王者チームだったアラカワ&モトを下し、二冠を手中にした。
以降、1970年代全般に渡り、インディアナポリスのWWAおよび提携団体のAWAを股にかけて活躍。WWAではフラッグシップ・タイトルのWWA世界ヘビー級王座を巡り、ザ・シーク、ブラックジャック・ランザ、ブラックジャック・マリガン、バロン・フォン・ラシク、オックス・ベーカー、アーニー・ラッド、ガイ・ミッチェル、イワン・コロフらと抗争を展開した。NWAの総本山だったミズーリ州セントルイスのキール・オーディトリアムにも再三出場し、ドリー・ファンク・ジュニア、ハーリー・レイス、ジャック・ブリスコ、テリー・ファンクら歴代のNWA世界ヘビー級王者に挑戦した。
WWWFから参戦してきたアンドレ・ザ・ジャイアントやブルーノ・サンマルチノともタッグを組み、1973年7月21日にサンマルチノをパートナーにバロン・フォン・ラシク&アーニー・ラッドからWWA世界タッグ王座を奪取、翌1974年にはバリアント・ブラザーズとタイトルを争った。盟友クラッシャー・リソワスキーとのコンビではザ・ブラックジャックスやテキサス・アウトローズなどの強豪チームとの抗争を経て、1975年8月16日にシカゴにてニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスを破り、AWA世界タッグ王座に返り咲いている。同年9月20日にはインディアナポリスにてジャック・グレイ&ザリノフ・ルブーフのザ・リージョネアーズからWWA世界タッグ王座も奪取、再び二冠王となり、WWA王座は翌1976年3月13日にオックス・ベーカー&チャック・オコーナー、AWA王座は同年7月23日にブラックジャック・ランザ&ボビー・ダンカンに敗れるまで保持した。
その後はシングルでの活動に注力し、NWAセントルイス地区では1978年7月14日にディック・マードックからNWAミズーリ・ヘビー級王座を奪取。AWAではニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に再三挑戦し、本拠地のWWAでは1979年から1980年にかけて、同じく「ブルーザー」をリングネームとしていたキングコング・ブロディとWWA世界ヘビー級王座を賭けた抗争を展開した。1982年1月1日には、セントルイス地区のプロモーターだったサム・マソニックの引退興行にてケン・パテラを破り、NWAミズーリ・ヘビー級王座への通算3度目の戴冠を果たしている。同年12月18日にはシカゴにて、当時AWAで大ブレイク中だったハルク・ホーガンともタッグを組んだ。
1983年からはセミリタイアの状態となるも、レジェンドとしてAWAのビッグマッチに登場。1984年にはクラッシャー・リソワスキーと久々にコンビを組み、3月4日にシカゴにてニック・ボックウィンクル&スタン・ハンセン、8月19日にはミルウォーキーにてロード・ウォリアーズと対戦。翌1985年はファビュラス・フリーバーズとも度々対戦し、9月28日にシカゴのコミスキー・パークで開催された "AWA SuperClash" ではクラッシャー&バロン・フォン・ラシクと組み、イワン・コロフ、ニキタ・コロフ、クラッシャー・クルスチェフのザ・ラシアンズとの6人タッグマッチに出場した。
3.2. 日本での活動
1965年11月、日本プロレスに初来日した。11月24日に大阪府立体育館にて、力道山の死後、空位となっていたインターナショナル・ヘビー級王座をジャイアント馬場と争った。当時すでにアメリカではベビーフェイスに転向していたが、日本ではヒールのスタイルを押し通し、この王座決定戦でも3本勝負のうち2本で反則負けを取られ、馬場がストレート勝ちで第3代王者となるも、壮絶な暴れっぷりで馬場を蹂菿した。3日後の11月27日には、蔵前国技館にて馬場の初防衛戦の相手を務めている(結果は1-1のタイスコアの後、両者リングアウトで馬場が防衛)。以降、馬場の同王座には1968年2月28日に東京体育館、1969年8月12日に札幌中島スポーツセンターにて挑戦した。
タッグでは1968年2月26日、大阪にてアメリカでの宿敵ハーリー・レイスと組み、馬場&アントニオ猪木のBI砲が保持していたインターナショナル・タッグ王座に挑戦。1969年8月11日には札幌にて、盟友クラッシャー・リソワスキーとのコンビでBI砲を破り、同王座を奪取している。2日後の13日に奪還されたものの、この来日時がクラッシャーと組んでの「ブルクラ・コンビ」の日本初参戦であり、大きなインパクトを残した。翌14日には広島県立体育館にてマリオ・ミラノと組み、猪木&吉村道明が保持していたアジアタッグ王座にも挑戦している。
1972年11月にはAWAとの提携ルートでクラッシャーと共に国際プロレスに来日し、11月24日に岡山武道館にてストロング小林&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦。11月27日には愛知県体育館にて、小林&草津を相手に日本初の金網タッグデスマッチを行ったが、試合方式を「金網から先に脱出した方が勝ち」というアメリカ式のエスケープ・ルールと誤認、ダウンした小林と草津を残して場外に脱出し、そのまま控室に戻り無効試合になったため、怒った観客が暴動を起こし機動隊が出動するという騒ぎとなった。この来日時、ブルーザーとクラッシャーは「WWA世界タッグ王者チーム」の触れ込みで参戦しており、この金網タッグデスマッチは小林と草津の挑戦を受けたWWA世界タッグ王座の防衛戦として行われ、11月30日には茨城県スポーツセンターにて、決着戦としてIWAとWWAの両タッグ王座のダブルタイトルマッチが組まれたが、この時点での実際のWWA世界タッグ王者チームはザ・ブラックジャックスであり、ブルーザーとクラッシャーはタイトルを保持していなかった(11月29日には東京都体育館にて、小林&マイティ井上との防衛戦も行われている)。
1975年4月に全日本プロレスに初登場し、4月10日に宮城県スポーツセンターにて馬場のPWFヘビー級王座に挑戦、両者の日本での久々の対戦が実現した(この来日前の2月6日、アメリカのカンザスシティでも馬場のPWF王座に挑戦している)。AWAとWWAの両世界タッグ王座戴冠中の翌1976年1月にはクラッシャーとのコンビで全日本プロレスに再来日、1月26日に愛知県体育館、29日に東京都体育館にて、馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に連続挑戦している。
1980年3月、国際プロレスに久々に来日。日本プロレス以来となる大木金太郎との対戦が注目され、同時参戦していたモンゴリアン・ストンパーと組んでのラッシャー木村&大木とのタッグマッチや、「和製ブルーザー」と呼ばれたアニマル浜口とのシングルマッチも行われた。これが最後の来日となり、日本マットには日本プロレスに3回、全日本プロレスと国際プロレスに各2回、通算7回参戦したが、いずれも1週間程度の特別参加という大物扱いだった。
3.3. 主要なライバルと試合
ディック・ザ・ブルーザーは、その長いキャリアの中で数多くの著名なレスラーと対戦し、記憶に残る試合を繰り広げた。
- ルー・テーズ**: 1956年1月14日、ウィスコンシン州ミルウォーキーでNWA世界ヘビー級王座に初挑戦するなど、キャリア初期から対戦した。
- ボボ・ブラジル**: 中西部地区でデトロイト版USヘビー級王座を巡る抗争を繰り広げた。
- フレッド・ブラッシー**: 1964年4月22日、ロサンゼルスのWWAでWWA世界ヘビー級王座を奪取した相手。
- ザ・クラッシャー**: 長年のタッグパートナーであり、「いとこ」と称された盟友。AWA世界タッグチーム王座を5度獲得し、日本でも「ブルクラ・コンビ」としてBI砲と激闘を繰り広げた。
- ジャイアント馬場**: 1965年の初来日時にインターナショナル・ヘビー級王座を巡って激しい抗争を展開。馬場に「ブルーザーと聞くだけで背筋がピンとした」と言わしめるほどのインパクトを与えた。
- マッドドッグ・バション**: 1966年11月12日、AWA世界ヘビー級王座を獲得した相手。
- ハーリー・レイス**: クラッシャーとのタッグでラリー・ヘニング&ハーリー・レイス組と抗争したほか、日本でもタッグを組んだ。
- ザ・シーク**: WWA世界ヘビー級王座を巡る抗争を展開した。
- ブラックジャック・ランザ**、**ブラックジャック・マリガン**: WWAで抗争を繰り広げた。
- バロン・フォン・ラシク**、**オックス・ベーカー**、**アーニー・ラッド**、**イワン・コロフ**: WWA世界ヘビー級王座を巡る主要なライバルたち。
- ブルーノ・サンマルチノ**: 1973年にタッグを組み、WWA世界タッグ王座を獲得した。
- ニック・ボックウィンクル**: AWA世界ヘビー級王座に再三挑戦し、クラッシャーとのタッグではレイ・スティーブンスとのタッグ王座を争った。
- ディック・マードック**: 1978年7月14日にNWAミズーリ・ヘビー級王座を奪取した相手。
- ブルーザー・ブロディ**: 1979年から1980年にかけて、WWA世界ヘビー級王座を賭けた抗争を展開した。
- ハルク・ホーガン**: 1982年12月18日、シカゴでタッグを組んだ。
- ロード・ウォリアーズ**: 1984年8月19日、ミルウォーキーでクラッシャーとのタッグで対戦した。
- ストロング小林**、**グレート草津**: 1972年の国際プロレス来日時にIWA世界タッグ王座を巡って激闘を繰り広げ、日本初の金網タッグデスマッチを行った。
3.4. プロモーターとしての活動
1964年、アフィルスはウィルバー・スナイダーと共にインディアナポリスのNWAプロモーションを買収し、ワールド・レスリング・アソシエーション(WWA)を設立した。彼はWWAのオーナー兼プロモーターとして、自身を団体のエースでありチャンピオンとしてプロモートした。WWAは独立したプロモーションとして運営され、独自のタイトルとチャンピオンを持っていたが、AWA(バーン・ガニアが所有)とは提携関係を結び、タレントを共有し、お互いのチャンピオンシップを承認し合った。
この提携はWWAの成功に大きく貢献し、ブルーザーはAWAのタレントをWWAのリングに招き、またWWAのタレントをAWAに送り出すことで、両団体の興行を活性化させた。彼はプロモーターとして、グレッグ・ウォジョコウスキーやスコット・スタイナーなど、後のスターとなる選手を輩出した。しかし、1980年代後半になると、ビンス・マクマホン・ジュニア体制下のWWFによる全米侵攻の余波で観客動員が落ち込み、1989年にWWAは活動を停止した。
3.5. 引退後の活動
1983年からはセミリタイアの状態となったが、1985年に現役を引退した後もプロレス界との関わりを続けた。引退後は、かつてアフィルスのWWAでマネージャーを務めたデビッド・マクレーンが設立したGLOW(Gorgeous Ladies of Wrestling英語)でカラーコメンテーターを務めた。また、WCWではタレントエージェントとして活動した。1990年12月16日に開催されたスターケード1990のメインイベント、スティング対ブラック・スコーピオン(リック・フレアー)のスチール・ケージ・マッチでは、スペシャル・ゲスト・レフェリーを務めた。
4. 得意技
ディック・ザ・ブルーザーは、その荒々しいファイトスタイルを特徴づける数々の技を駆使した。
- パンチ、キック**: ブルーザーの基本戦法であり、同時に彼の喧嘩屋としてのキャラクターを最大限に引き出すムーブでもあった。レスラー仲間の間でも「タフガイ」「化け物」と呼ばれ恐れられた打たれ強さを活かし、相手からの反撃を受けても構わずひたすら殴り、蹴るという豪快な喧嘩ファイトがブルーザー最大の見せ場だった。
- ストンピング**: 相手の腹部などを大袈裟に振り上げた足で体重をかけて踏みつけ、さらに大声で怒鳴りつけながら相手を踏みにじる。
- ダイビング・ニー・ドロップ**: 当時のプロレス界におけるトップロープからの攻撃の定番技。下記のアトミック・ボムズ・アウェイの布石として使われることも多かった。
- アトミック・ボムズ・アウェイ**(ダイビング・フット・スタンプ): トップロープから跳躍し、倒れた相手の腹部などを踏みつける、ブルーザー最大の必殺技。踏みつけ方には両足式と片足式の2種類があった。和名は「原爆落とし」だが、現在この呼称で呼ばれることは少ない。
- スタンプ・ホールド**: 変形のベアハッグ。両腕で相手の胴回りを抱き込み絞り込むように締め付けるのは通常のベアハッグと同様だが、相手の体を上下逆さまにして逆さ吊り状態にするのが異なる。頭への血液の逆流を狙う効果があり、ブルーザーにとっては奥の手といえる技。
- 凶器攻撃**: ゴングやロープ、実況席にある電話機など、会場内のありとあらゆるものを凶器として利用した。初来日時の1965年11月27日、蔵前国技館でのジャイアント馬場とのインターナショナル・ヘビー級王座戦の再戦において、リングサイドの床板を蹴破り、その破片で馬場に殴りかかったというエピソードは特に知られている。また、クラッシャー・リソワスキーと同様にメリケンサックを隠し持っていたこともあった。
5. 獲得タイトルと功績
ディック・ザ・ブルーザーは、そのキャリアを通じて数多くのタイトルを獲得し、多くの功績を残した。
| 団体名 | タイトル | 獲得回数 | パートナー(タッグ王座の場合) |
|---|---|---|---|
| 50thステート・ビッグタイム・レスリング | NWA USヘビー級王座(ハワイ版) | 1回 | |
| アメリカン・レスリング・アライアンス | AWA世界タッグチーム王座 | 2回 | ウイルバー・スナイダー |
| アメリカン・レスリング・アソシエーション | AWA世界ヘビー級王座 | 1回 | |
| AWA世界タッグチーム王座 | 5回 | クラッシャー・リソワスキー | |
| 世界ヘビー級王座(オマハ版) | 1回 | ||
| AWA USヘビー級王座 | 1回 | ||
| ビッグタイム・レスリング | NWA USヘビー級王座(デトロイト版) | 4回 | |
| フレッド・コーラー・エンタープライズ | NWA USヘビー級王座(シカゴ版) | 1回 | |
| NWA世界タッグチーム王座(シカゴ版) | 1回 | ジン・キニスキー | |
| 日本プロレス | NWAインターナショナルタッグ王座 | 1回 | クラッシャー・リソワスキー |
| セントルイス・レスリング・クラブ | NWAミズーリ・ヘビー級王座 | 3回 | |
| ワールド・レスリング・アソシエーション | WWA世界ヘビー級王座(インディアナポリス版) | 13回 | |
| WWA世界タッグ王座(インディアナポリス版) | 15回 | クラッシャー・リソワスキー(6)、ウイルバー・スナイダー(3)、ブルーノ・サンマルチノ(1)、ビル・ミラー(1)、スパイク・ヒューバー(1)、ジェフ・ヴァン・キャンプ(1)、ボビー・コルト(1)、カリプソ・ジム(1) | |
| ワールドワイド・レスリング・アソシエーツ | WWA世界ヘビー級王座(ロサンゼルス版) | 1回 | |
| その他 | 世界ヘビー級王座(ジョージア版) | 1回 |
- 功績**
6. 私生活
ディック・ザ・ブルーザーは、公にされている情報によると、5回の離婚歴があったとされる。1965年の初来日直前のインタビューでは、「ワイフ?5回結婚したが今はいない。趣味はビールと女だ」と語っていた。
彼の息子であるディック・ザ・ブルーザー・ジュニアもインディペンデント・サーキットでレスラーとして活動していた。また、養子のジョン・カーニーと共に自宅でウェイトリフティングを行っていた最中に死去したと報じられている。
彼は人種差別を憎み、グリーンベイ・パッカーズ初の黒人選手であるボブ・マンがタクシー運転手に人種差別から乗車拒否を受けた際、ブルーザーが運転手に怒り乗車拒否を撤回させたこともあった。自身が主宰していたWWAでも、ボボ・ブラジル、アート・トーマス、アーニー・ラッド、ルーファス・ジョーンズなどの黒人レスラーを重用し、ブラジルとラッドはWWA世界ヘビー級王座を獲得した。
7. 死去
ディック・ザ・ブルーザーは1991年11月10日、フロリダ州ラルゴにあるサンコースト病院で食道の血管破裂による内出血で死去した。享年62歳。彼の未亡人ルイーズによると、夫は冬の自宅で養子のジョン・カーニーと共にウェイトリフティングを行っていた際に、食道の血管が破裂したという。
8. 評価と影響
8.1. 肯定的な評価
ディック・ザ・ブルーザーは、その特異なキャラクターとファイトスタイルでプロレス界に大きな足跡を残した。彼の「生傷男」という異名が示す通り、タフで荒々しい喧嘩ファイトは観客を熱狂させ、ミッドウェスト地区では絶大な人気を誇るベビーフェイスとなった。NFLでのキャリアを持つクロス・メディア・スターとして、彼はインディアナポリス地区のヒーロー的存在だった。
彼のカリスマ性と、しゃがれた声のタフガイのペルソナは、プロレスラーとしての地位を確立する上で重要な要素となった。また、プロモーターとしてもWWAを成功させ、多くの若手選手を育成・輩出した功績は大きい。ジャイアント馬場が「ブルーザーと聞くだけで背筋がピンとした。あの男は本当にすごかった」と語るなど、彼と対戦したレスラーたちからもその実力と存在感は高く評価されている。
8.2. 批判と論争
ディック・ザ・ブルーザーのキャリアには、その荒々しいファイトスタイルが原因でいくつかの批判や論争が伴った。
- マディソン・スクエア・ガーデンでの暴動事件**: 1957年11月19日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたタッグマッチで、試合後に観客がリングに乱入し、大規模な暴動が発生した。この事件で2人の警察官が負傷し、アリーナの床には数百脚の椅子が壊れて散乱した。この結果、彼はニューヨーク州アスレチック・コミッションからプロレス活動を永久追放された。ブルーザーは後に、この追放処分について「謝罪するつもりはない。客が投げた椅子で頭部に裂傷を負った被害者だ。客に椅子を投げ返したのは正当防衛だ」「ガーデンに出場できなくても他に稼ぐ場所はいくらでもある。永久追放?上等じゃないか」と語り、むしろ「嬉しかった。ガーデンに出場するよりも、プライドを守るのが大事だよ」とまで述べた。
- アレックス・カラスとのバーでの乱闘**: 1963年にNFLスターのアレックス・カラスとの間で計画された乱闘が、予期せぬ介入により本物の喧嘩に発展し、300人以上の負傷者と警察官の負傷を招いた。彼は加重暴行罪で起訴され、負傷させた警察官への損害賠償として5.00 万 USDを支払うことになった。
- 国際プロレスでの金網デスマッチ騒動**: 1972年11月27日、国際プロレスでストロング小林&グレート草津との日本初の金網タッグデスマッチにおいて、彼が試合方式を「金網から先に脱出した方が勝ち」というアメリカ式のエスケープ・ルールと誤認して場外に脱出したため、試合が無効となり、怒った観客が暴動を起こし機動隊が出動する騒ぎとなった。
8.3. 大衆文化への影響
ディック・ザ・ブルーザーは、プロレス界だけでなく大衆文化にもその影響を及ぼした。
- インディアナポリス出身のコメディアン、デビッド・レターマンは、彼のテレビ番組のバンドに「世界で最も危険なバンド」(The World's Most Dangerous Band英語)という名前を付けたが、これはディック・ザ・ブルーザーのニックネームである「世界で最も危険なレスラー」(The World's Most Dangerous Wrestler英語)に由来している。
- デトロイトのロックラジオ局WRIFの朝の番組の共同司会者であったジョージ・バイアーは、1980年代に「リチャード・T・ブルーザー」(Richard T. Bruiser英語)という名前でアフィルスの効果的な物真似を披露し、アフィルス自身もWRIFの人気テレビCMに本人役で出演した。
- 日本の漫画作品『グラップラー刃牙』に登場するキャラクター「リチャード・フィルス」は、彼がモデルである。
- 葉巻を咥えつつビールをラッパ飲みし、野太いしゃがれ声でがなり立てるパフォーマンスがトレードマークだったが、彼のしゃがれた声はNFL時代に喉を負傷したことが原因だという。
- アントニオ猪木対モハメド・アリの異種格闘技戦が開催された1976年6月25日(アメリカでの現地時間)には、シカゴ・スタジアムでの連動イベントにてブラックジャック・ランザ&ボビー・ダンカンを相手に、当時クラッシャー・リソワスキーと組んで保持していたAWA世界タッグチーム王座の防衛戦を行っている。この異種格闘技戦に向けて、当初モハメド・アリはブルーザーをスパーリング・パートナーに指名していたが、ブルーザーはその要請を断り、5月にシカゴで行われた猪木のテレビ会見に同席した。6月10日にシカゴのインターナショナル・アンフィシアターにてアリがバディ・ウォルフらとミックスド・マッチを行った際も、アリのマネージャー役のフレッド・ブラッシーに対抗し、レスラー側のセコンドを務めている。
- 1980年3月の国際プロレス参戦時、インディアナポリスから航空機に搭乗した際、空港職員が「ミスター・ブルーザー、遠征ですか。行ってらっしゃい」とノーチェックで通したために、搭乗者名簿には本名のウィリアム・アフィルス(アフリス)ではなくW・ブルーザーとして記載されたまま、成田空港着のノースウエスト航空機で来日した。その際、成田空港に出迎えへ行った月刊プロレスのスタッフは当該便の搭乗者名簿を調べたが "William Afflis" の名前は見当たらず、名簿を端から端までチェックした所、ブルーザーの名義で搭乗していたことを知ったという。
9. 関連項目
- ワールド・レスリング・アソシエーション (インディアナポリス)
- クラッシャー・リソワスキー