1. 名前
ウジヤ王は、ヘブライ語聖書のいくつかの箇所で「アザルヤ」としても言及されている。『列王記下』では「アザルヤ」と8回言及され、「ウジヤ」と4回言及されているのに対し、『歴代誌』では一貫して「ウジヤ」と記されている。一部の説では、彼の名前の第二の形式は筆写者の誤りである可能性が最も高いとされる。
しかし、王たちに複数の名前が使用される多くの理由があるが、その一つは王たちが王室名と世俗名の両方を使用していたという点である。例えば、ソロモンが王室名であり、出生時の世俗名はエディデヤであったように、ウジヤも王室名であり、アザルヤはおそらく個人名であったと考えられている。即位名(regnal names)は、油注ぎと戴冠式の際に与えられた。
2. 生涯と統治
ウジヤ王の統治はユダ王国の歴史において顕著な繁栄と拡大をもたらしたが、その末期には傲慢さゆえに悲劇的な結末を迎えた。
2.1. 即位と初期の統治
ウジヤはエルサレム出身の母イェコリヤと父アマツヤの子として生まれた。彼は16歳でユダの王位に就き、52年間統治した。この治世は、ユダ王国の歴史においてマナセに次いで2番目に長い統治期間であった。彼の治世の最初の24年間は、父アマツヤとの共同統治であった。
統治の初期には、預言者ゼカリヤの影響下にあり、彼は神に忠実で「主の目にかなう正しいこと」を行った(『列王記下』15章3節、『歴代誌下』26章4-5節)。『列王記下』には、彼が高き所を取り除かず、人々がいけにえをささげたり、香を焚くことを許していたと記されている。
2.2. 軍事的・経済的功績
ウジヤ王の治世は、軍事力と経済力の両面で大きな発展を遂げ、ユダ王国はソロモン時代以来の最も広大な領域を支配した。彼はフィリスティア人やクル・バアルのアラビア人との戦いに勝利し、ガト、ヤブネ、アシュドドの城壁を破壊した(『歴代誌下』26章6節)。アシュドドを含むフィリスティアの地域には新たな町を建設し、アンモン人からは貢物を受け取り、その名声はエジプト国境にまで及んだ。
ウジヤは軍隊を再編成し、2,600人の勇士の長に率いられた307,500人の強力な戦闘部隊を保持した。彼は部隊全体のために小型の盾、槍、兜、鎧、弓、投石用の石を用意し、新たな兵器を開発して軍事力をさらに強化した。エルサレムの城壁には、熟練した職人によって設計された、矢を射たり大きな石を投げるための機械を塔や角の防御施設に設置し、防衛力を強化した(『歴代誌下』26章8-14節)。
彼は農業と牧畜にも深く関心を持ち、「地を愛する者」であった。肥沃な低地や平野には農夫やぶどう園の働き人を置き、広野には多くの家畜を所有し、塔を建てて多くの貯水池を掘った。これらの施策により、ユダ王国は農業生産を向上させ、経済的な繁栄を享受した。預言者イザヤやホセアは、この繁栄がもたらした贅沢な生活や商業活動を批判することもあった。
2.3. 傲慢とハンセン病
ウジヤの強さは、やがて彼の弱点となった。彼は強大な権力を手に入れたことで傲慢になり、神に逆らう行為に及んだ。祭司にのみ許されている聖なる香炉で香を焚くという行為を、自ら行おうとして神殿に入ったのである。これに対し、祭司長アザルヤは80人の勇敢な祭司たちと共にウジヤの前に立ちふさがり、「ウジヤよ、主のために香を焚くのはあなたの務めではありません。香を焚くのは聖別された祭司であるアロンの子らの務めです」と警告した(『歴代誌下』26章18節)。
この時、大地が大きく揺れ、神殿に亀裂が入り、太陽の光が差し込み、王の顔を照らした際に、突然ツァラアト(律法に規定された皮膚病)が彼の額に現れた。ウジヤは香を献上する前にツァラアトに罹患し(『歴代誌下』26章19節)、神殿から追放され、死ぬまで「別棟」に隔離されて暮らすことを余儀なくされた(『列王記下』15章5節、27節、『歴代誌下』26章3節)。政務は息子のヨタムに引き継がれ(『列王記下』15章5節)、この共同統治はウジヤが亡くなるまでの最後の11年間(紀元前751/750年頃から紀元前740/739年頃)続いた。ウジヤの治世とされる52年間には、この共同統治期間も含まれる。
2.4. 死と埋葬
ウジヤはツァラアトに罹患したまま、紀元前740/739年頃に68歳で死去した。彼は通常の王の墓所には埋葬されず、「王たちに属する墓地の野」の別の場所に埋葬された(『列王記下』15章7節、『歴代誌下』26章23節)。この特異な埋葬は、彼の病のため隔離された状態であったことを反映している。彼の死の年に預言者イザヤは神の幻を見た(『イザヤ書』6章1節)。
3. 歴史的・考古学的証拠
ウジヤ王の存在や彼の時代の歴史的背景は、聖書以外の記録や考古学的発見によっても裏付けられている。
3.1. ウジヤの骨箱
1931年、ヘブライ大学のエレアザル・スケーニック教授によって、「ウジヤの骨箱」(Uzziah Tablet)として知られる考古学的遺物が発見された。彼はこの遺物を、オリーブ山にあるロシア正教の昇天修道院の創設者である大修道院長アントニン・カプースチンが集めたコレクションの中で見つけた。この骨箱のそれ以前の来歴は不明であり、修道院によっても記録されていなかった。
碑文は聖書アラム語と非常によく似たアラム語の方言で書かれており、その文字様式から紀元30年から70年頃のものであると推定されている。碑文は「ユダの王ウジヤの骨をここに携え来る、開けるべからず」と訳されている。これは、紀元1世紀にアグリッパ2世のエルサレム修理工事中に偶然ウジヤの墓が見つかり、その骨がこの箱に移されたものであると見られている。したがって、この骨箱は第二神殿時代にウジヤの再埋葬が行われた可能性を示唆している。
3.2. ウジヤの時代の大地震

預言者アモスの書には大地震への言及がある。アモスは自身の預言が「ウジヤがユダの王であり、エホアシュの子ヤロブアムがイスラエルの王であった、地震の二年前」に受けたと記している(『アモス書』1章1節)。200年以上後、預言者ゼカリヤは、人々がウジヤの時代に逃げたように、将来の地震から逃げると預言した(『ゼカリヤ書』14章5節)。
地質学者たちは、イスラエルやヨルダン各地の遺跡でこの大地震の証拠を発見したと考えている。紀元前750年頃の大規模な中東地震の証拠として、ハツォル、デイル・アッラ、ゲゼル、ラキシュ、テル・ジュデイデ、エン・ハセバの6つの遺跡で、崩壊した石積み、変位した石の列、傾いた壁、そして層状に横たわる崩壊した壁など、地震による破壊の痕跡が発見されている。これらの遺跡の地層学的データは、紀元前8世紀中頃、誤差約30年の範囲で地震の痕跡が限定されている。この地震は少なくともマグニチュード7.8、あるいは8.2の規模であったと推定されている。考古学者による発掘調査では、ハツォル第VI層では南に傾いた壁や倒壊した家屋、ゲゼルでは重さ数トンの城壁が数インチずれるなど、広範囲な破壊が確認されている。
この地震の正確な年代は、イスラエル、ヨルダン、レバノン、シリアの全地域における遺跡の年代を同期させる上で重要である。現在のところ、ゲゼルの地層学的証拠は紀元前760年プラスマイナス25年に地震を位置づけている。同様に、ハツォルとラキシュにおける「突然の破壊」のレベルも約紀元前760年とされている。2019年の『ハアレツ』紙の報道では、死海の底の堆積層の研究によってもこの特定の地震現象の発生がさらに確認されている。
アモスは、この地震がユダの王ウジヤとイスラエルの王エホアシュの子ヤロブアムの時代に起こったと述べている。ある年代記の説では、ヤロブアム2世は紀元前793/792年に父との共同統治を開始し、紀元前782/781年に単独統治者となり、紀元前753年の夏または秋に死去した。ウジヤが紀元前768/767年に単独統治者になった後に預言が行われたと仮定すると、アモスの預言はその後の時期、そしてヤロブアムの死(紀元前753年)の前の時期に位置づけられ、地震はその2年後に発生したことになる。これらの日付は考古学者が提示する地震の年代と一致する。しかし、ウジヤが香を焚くために神殿に入ったときに地震が起こったという伝承とは、この年代は矛盾している。
3.3. 聖書以外の文献における言及
メソポタミアの考古学的発見、特にニムルドで発見されたアッシリアの書簡や行政文書、ニネベの王宮からの彫刻は、ウジヤからマナセの治世にかけてのアッシリアとユダの密接な関係を示唆しており、ウジヤがティグラト・ピレセル3世と同時代であったことの証拠となっている。ティグラト・ピレセルの年代記には「ヤウダのアザリア」と記された、断片的な記述が残されており、これをウジヤへの言及とする見方もある。しかし、この断片が実際にはセナケリブの時代のものであり、アザリアではなくヒゼキヤを指すという見方も示されている。ティグラト・ピレセルの年代記には2箇所にアザリアへの言及があるが、いずれもその国がユダであることには触れておらず、聖書の人物との同定は疑わしい。
ウジヤの名前は、1858年と1863年に発見された、出土源が不明な2つの石製印章にも記されている。最初の印章には「ウジヤのしもべアビヤに属する」と刻まれており、2つ目の印章には「ウジヤのしもべシュブナヤに属する」と記されている。これらの印章は出土源が不明であるものの、古代の王に対する最初の真正な同時代証拠とされている。
4. 聖書における言及と影響
ウジヤ王は聖書の様々な書に言及されており、その生涯と統治は後世に神学的および歴史的な影響を与えている。
4.1. 預言書における言及
- 『イザヤ書』は、「ウジヤ王の死んだ年」を、預言者イザヤが万軍の主の幻を見た時点の基準点として用いている(『イザヤ書』6章1節)。これはイザヤの召命の背景にある歴史的出来事として重要視されている。
- 『アモス書』は、その預言の言葉が「ウジヤがユダの王であった時」に与えられたと日付を記している(『アモス書』1章1節)。これはアモス書の内容がウジヤの統治期に起こった出来事を反映していることを示唆している。
- 『ホセア書』も、預言者ホセアの言葉がユダの王ウジヤの時代に与えられたと記されている(『ホセア書』1章1節)。
- 外典『ユディト記』には、ベトゥリアという町の長官として、シメオン族のミカの子である別のウジヤが言及されている(『ユディト記』6章15-16節、7章23節)。
4.2. イエスの系図における言及
『マタイによる福音書』には、イエスの系図の中にウジヤが記載されている。新約聖書における彼の言及は、彼がユダ王国の正統な王位継承者の一人であり、イエスの系譜に連なる重要な人物であることを示している。
5. 年代記研究
ウジヤ王の統治期間に関する年代記は、聖書内外の複数の情報源と照合されており、その複雑さから様々な学説と解釈が提示されている。
ウジヤの治世期間は紀元前783年から742年と推定される説がある。別の年代記では、ウジヤは紀元前792/791年に父アマツヤとの共同統治を開始し、紀元前768/767年に父の死後ユダの単独統治者となったとしている。また、この年代記では、ウジヤが紀元前751/750年にツァラアトに罹患し、その時点で息子ヨタムが政務を引き継ぎ、ウジヤ自身は紀元前740/739年まで生きたとしている。ウジヤの治世の最後の年にペカがイスラエルの王となった。
ユダとイスラエルの王の治世年を計算するカレンダーは、ユダがティシュリ月(秋)に始まり、イスラエルがニサン月(春)に始まるというように、6ヶ月ずれていた。そのため、両王国の年代記を相互に参照することで、王の在位期間の始まりと終わりの時期を6ヶ月の範囲内で絞り込むことができる。ウジヤの場合、彼の単独統治の始まりは、紀元前767年のニサン月1日から同年ティシュリ月1日の前日までの間と聖書データによって絞り込むことができる。
一部の学者は、共同統治(コージェンシー)の存在を明示的に示唆する記述がない限り、ユダとイスラエルの王の年代を決定する際に共同統治を用いることに異議を唱えている。しかし、聖書ヘブライ語には「共同統治」という言葉がないため、その言葉を用いた明示的な記述は見当たらない。共同統治は古代エジプトでもよく見られ、ファラオの治世年を記す際も、それが共同統治から数えられているかどうかは明記されていない。エジプト学者は、年代記データの比較から共同統治の存在を決定する必要があると考えられている。
しかし、ウジヤの場合、彼がツァラアトに罹患した後、息子ヨタムが宮殿の責任者となり、国民を統治したという記述(『列王記下』15章5節)は、現代の用語で共同統治と呼ばれるものをかなり直接的に示している。また、ウジヤの治世の初めにも共同統治があったはずである。聖書によれば、彼はヤロブアム2世の治世27年目に王となったが、彼の父アマツヤは29年間統治した。アマツヤはイスラエルのヨアシュの治世2年目に王となり、ヨアシュは16年間統治したため、アマツヤの死はヤロブアム2世の治世14年目であったはずである。このため、10年以上の空白が生じ、これは共同統治によってのみ埋められる。これはエジプトで行われていたように、治世年に共同統治期間を含めて数えることで説明される。
ユダとイスラエルの王たちのすべての共同統治が、『列王記下』15章5節に示されるウジヤとヨタムの共同統治のように容易に特定できるわけではない。しかし、この時代の歴史を構築する際に共同統治を無視する研究者は、広く受け入れられる年代記を提示できていない。ダビデが死ぬ前に息子ソロモンを王位に就かせたことで前例を作ったことに触れ、ヨアシュの時代からユダにおける共同統治の恒久的な性質を考慮に入れると、紀元前8世紀の聖書の年代記の問題を解決する鍵は、共同統治を正確に年代特定することにあるという見解もある。
年代学者 | ウジヤの治世期間 |
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ウィリアム・F・オールブライト | 紀元前783年 - 紀元前742年 |
エドウィン・R・シール | 共同統治: 紀元前792/791年 - 紀元前768/767年 単独統治: 紀元前767年 - 紀元前751/750年 病に罹り共同統治: 紀元前751/750年 - 紀元前740/739年 |
カトリック百科事典 | 紀元前809年 - 紀元前759年 |