1. 概要

エセル・ミニー・ラッキー(Ethel Minnie Lackieエセル・ミニ・ラッキー英語、1907年2月10日 - 1979年12月15日)は、アメリカ合衆国の競泳選手、オリンピック金メダリスト、そして世界記録保持者である。結婚後の姓はエセル・ワトキンズ(Ethel Watkinsエセル・ワトキンズ英語)としても知られる。
彼女は、1924年パリオリンピックにおいて、女子100m自由形と女子4x100m自由形リレーの2種目で金メダルを獲得し、その才能と努力によって世界の舞台で輝かしい功績を残した。また、複数のアメリカ記録と世界記録を樹立し、特に100m自由形では1分10秒0の記録を達成した最初の女性選手の一人である。競技引退後も、彼女は水泳界への貢献が認められ、国際水泳殿堂の栄誉会員に選出された。
2. 幼少期とキャリアの始まり
エセル・ラッキーは、幼少期から水泳の才能を示し、後にオリンピックの舞台で二つの金メダルを獲得するまでの輝かしいキャリアを築いた。
2.1. 出生と幼少期
エセル・ラッキーは、1907年2月10日にイリノイ州シカゴで、レスター・E・ラッキー夫妻の娘として生まれた。彼女の父は非常に優れた水泳選手であり、その影響を受けてエセルはわずか3歳で水泳を始めることになった。彼女はシカゴのハイドパーク共同体にあるユニバーシティ・ハイで高校生活を送った。
2.2. 初期トレーニングとクラブでのキャリア
ラッキーは競技において、イリノイ・アスレチック・クラブ(Illinois Athletic Club英語)に所属し、国際水泳殿堂入りを果たした名コーチ、ビル・バハラッハの指導を受けた。バハラッハの指導のもと、ラッキーは女子選手として初めて100ヤード自由形で60秒を切り、また100m自由形で1分10秒0を記録した最初の女性となった。バハラッハはラッキーの他にも、1924年パリオリンピックでメダルを獲得した数々の伝説的な水泳選手たちを育成した。その中には、映画『ターザン』で知られるジョニー・ワイズミュラー、ボブ・スケルトン、アルネ・ボルグ、そしてシビル・バウアーらがいる。
3. 主要な競技実績
エセル・ラッキーの競泳選手としてのキャリアは、数々の重要な成果と世界記録によって特徴づけられる。
3.1. 1924年パリオリンピック
ラッキーは1924年パリオリンピックにアメリカ代表として出場した。この大会では、ルイ・ハンドリーが女子のオリンピックヘッドコーチを務め、彼女のクラブコーチであるビル・バハラッハは男子のオリンピックヘッドコーチを務めていた。
3.1.1. 100m自由形
個人種目では、女子100m自由形において金メダルを獲得した。彼女は1分12秒4のオリンピック記録を樹立し、この種目でアメリカ勢がメダルを独占する快挙を達成した。
3.1.2. 4x100m自由形リレー
さらに、ラッキーは女子4x100m自由形リレーチームの一員としても2つ目の金メダルを獲得した。チームは彼女の他に、ユーフレイジア・ドネリー、ガートルード・エダーレ、そしてメリーチェン・ウェーゼルラウで構成されていた。アメリカのリレーチームは、この種目の決勝で4分58秒8という新たな世界記録を樹立した。この記録は1924年7月20日に樹立され、1928年8月9日まで保持された。
3.2. その他の世界記録
ラッキーは、オリンピックでの記録に加えて、他にも複数のアメリカ記録および世界記録を樹立した。特に、1926年1月28日には女子100m自由形で1分10秒0の世界記録を樹立し、この記録は1929年8月7日まで保持された。
4. 後半生
競泳選手としての輝かしいキャリアを終えた後も、エセル・ラッキーは充実した人生を送った。
4.1. 競技引退後の生活と結婚
競技生活から引退した後、ラッキーはサンタモニカ地区出身のローイング選手であるビル・ワトキンズと結婚した。エセルは国際水泳殿堂の受賞スピーチの中で、夫のビルがサンタモニカのビーチで育ち、夏には大学生としてライフガードを務め、パドルボードで記録を保持し、ドーリーローイングで選手権を制したことを語っている。
4.2. 死去
エセル・ラッキーは1979年12月15日、カリフォルニア州ニューベリーパークで72歳で亡くなった。
5. 栄誉と評価
エセル・ラッキーは、水泳界への顕著な貢献が認められ、死後もその功績を称えられている。
5.1. 国際水泳殿堂
1969年、彼女は国際水泳殿堂の名誉会員に選出された。これは、彼女が競泳界に与えた多大な影響と、その歴史的意義が認められた証である。