1. 生涯と摂政活動
本節では、バイエルンのエリーザベトの幼少期から結婚生活、そしてブランデンブルク選帝侯妃および摂政として果たした重要な役割について、その政治的・行政的な貢献を中心に詳述します。
1.1. 幼少期と結婚
エリーザベトは1383年に誕生しました。彼女はバイエルン公フリードリヒ(賢公)と、その2番目の妻であるマッダレーナ・ヴィスコンティの娘です。出生地はトラウスニッツ城であるとされています。彼女には同名の異母姉(バイエルンのエリーザベト(1361-1382))がいましたが、その姉はエリーザベトの誕生前年に嫁ぎ先で死去しています。
1401年9月18日、エリーザベトはニュルンベルク城伯フリードリヒ6世と結婚しました。この夫は、1415年にブランデンブルク選帝侯に昇格し、初代選帝侯フリードリヒ1世として統治することになります。この結婚により、彼女は後にブランデンブルク選帝侯妃となる道を歩み始めました。
1.2. 選帝侯妃および摂政としての役割
夫であるフリードリヒ1世がブランデンブルク選帝侯に昇格した後、彼はしばしばイタリアやハンガリーへの長期にわたる軍事遠征、あるいはコンスタンツ公会議への出席などで領内を不在にすることがありました。このような夫の長期不在期間中、エリーザベトは単なる妃としてではなく、ブランデンブルク選帝侯妃(1415年4月30日 - 1440年9月20日)および選帝侯国の摂政として極めて重要な役割を担いました。
当時のブランデンブルクは、政治的に多くの深刻な問題を抱えていました。エリーザベトは、これらの困難な問題に対し、その賢明さと有能さをもって対処し、夫に代わって選帝侯国の統治を巧みに遂行しました。彼女の統治手腕は、混乱に陥りがちな状況下でも、選帝侯国の安定と秩序を保つことに貢献しました。特に、彼女が示した行政能力と政治的判断力は、後世において高く評価されており、ホーエンツォレルン家の基盤を固める上で不可欠な存在であったと考えられています。

2. 子女
エリーザベトは夫フリードリヒ1世との間に、以下の10人の子女をもうけました。彼らの多くは、その後のヨーロッパの歴史において重要な役割を果たすことになります。
氏名 | 生没年 | 概要 |
---|---|---|
エリーザベト | 1403年 - 1449年10月31日 (死没地:レグニツァ) | 1418年にコンスタンツでレグニツァ公ルドヴィク2世と結婚、1438年にチェシン公ヴァツワフ1世と再婚。 |
ヨハン(「錬金術伯」) | 1406年 - 1465年 | ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯。1416年にザクセン=ヴィッテンベルク公女バルバラと結婚。 |
ツェツィーリエ | 1405年頃 - 1449年1月4日 | 1423年5月30日にベルリンでブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ヴィルヘルム1世と結婚。 |
マルガレーテ | 1410年 - 1465年7月27日 (死没地:ランツフート) | 1423年にメクレンブルク公アルブレヒト5世と結婚、1441年7月20日にインゴルシュタットでバイエルン=インゴルシュタット公ルートヴィヒ8世と再婚、1446年にヴィルデンフェルス伯マルティンと三婚。 |
マグダレーナ | 1412年頃 - 1454年10月27日 (死没地:シャルネベック(Scharnebeckドイツ語)) | 1429年7月3日にタンガーミュンデ(Tangermündeドイツ語)でブラウンシュヴァイク=リューネブルク公フリードリヒ2世と結婚。 |
フリードリヒ2世(「鉄歯侯」) | 1413年 - 1471年 | ブランデンブルク選帝侯。1446年にザクセン公女カタリーナと結婚。 |
アルブレヒト3世(「アキレウス」) | 1414年 - 1486年 | アンスバッハ辺境伯、クルムバッハ辺境伯、ブランデンブルク選帝侯。1446年にバーデン辺境伯女マルガレーテと結婚、1458年にザクセン公女アンナと再婚。 |
ゾフィー | 1417年 - 1417年 | 生後まもなく死去。 |
ドロテア | 1420年2月9日 - 1491年1月19日 (死没地:レーナ(Rehnaドイツ語)) | 1432年にメクレンブルク公ハインリヒ4世と結婚。 |
フリードリヒ(「肥満伯」) | 1424年頃 - 1463年10月6日 (死没地:タンガーミュンデ(Tangermündeドイツ語)) | アルトマルク領主。1449年にポメラニア公女アグネスと結婚。 |
3. 遺産と評価
バイエルンのエリーザベトは、夫フリードリヒ1世の長期間の不在中にブランデンブルク選帝侯国の摂政として示したその優れた行政能力と政治的手腕により、後世に大きな遺産を残しました。彼女は、単に選帝侯の代理を務めただけでなく、当時の選帝侯国が抱えていた数々の複雑な政治的問題に対し、賢明な判断と的確な行動をもって対処しました。このことは、ホーエンツォレルン家が後の時代にブランデンブルク=プロイセン、さらにはドイツ帝国へと発展していく上で、その初期の安定と発展に不可欠な貢献を果たしたと評価されています。
また、エリーザベトは、第三子であるアルブレヒト3世を通じて、後のホーエンツォレルン家の王室の血統の祖先となりました。彼女の存在は、ホーエンツォレルン家の歴史における重要な節目であり、その系統が発展していく上で欠かせない役割を担いました。
エリーザベトは1442年11月13日、アンスバッハで生涯を終えましたが、彼女の生涯と摂政としての活動は、単に王室の姻戚関係を築いただけでなく、政治的リーダーシップと行政能力の模範として記憶されています。彼女の貢献は、中世後期における女性の政治的影響力を示す顕著な例の一つと言えるでしょう。