1. 概要
エルマー・コンスタンティン・ニクランダーは、1890年にフィンランドで生まれ、投てき種目において目覚ましい成績を収めた陸上競技選手である。4度の夏季オリンピックに出場し、1912年ストックホルム大会では両手投げ円盤投で銀メダル、両手投げ砲丸投で銅メダルを獲得。第一次世界大戦とフィンランド内戦による競技生活の中断を経て、1920年アントワープ大会では円盤投で金メダル、砲丸投で銀メダルを獲得し、そのキャリアの頂点に達した。1924年パリオリンピックではフィンランド選手団の旗手を務め、引退後もその偉業は長く語り継がれている。国内では1909年から1924年の間に44ものタイトルを獲得しており、その競技人生は多岐にわたる輝かしい業績に彩られている。
2. 生涯
エルマー・コンスタンティン・ニクランダーは、その生涯においてフィンランドの陸上競技界に多大な貢献を果たし、国内の激動期をも経験した人物である。
2.1. 幼少期と初期の人生
エルマー・コンスタンティン・ニクランダーは1890年1月19日、フィンランドのハウスヤルヴィにあるルタヤルヴィ村で生まれた。父はコンスタンティン・ニクランダー(1848年-1903年)、母はヘンリーカ・ハルユラ(1858年-1942年)である。彼の弟であるシーヴォ(1883年-1961年)も陸上競技選手であり、1907年には砲丸投でフィンランド国内記録を2度樹立している。ニクランダー自身は12歳で練習を始め、17歳で競技会に出場し始めた。彼は主に兄弟の農場で練習を積んでいたと伝えられている。彼は特に両手投げの種目で優れた才能を発揮した。
2.2. フィンランド内戦期
フィンランド内戦以前の1917年11月、ニクランダーはハウスヤルヴィの白衛隊に加わり、モミラでの小競り合いに参加した。この行動により、赤衛隊は彼に死刑を宣告したため、内戦が始まると彼は身を隠さざるを得なくなった。この内戦期は彼の競技生活に大きな中断をもたらし、国際舞台での活躍が一時的に途絶えることとなった。戦時中、彼は隠れて暮らさなければならず、この経験は彼の人生に深く刻まれた。
2.3. 死去
エルマー・コンスタンティン・ニクランダーは1942年11月12日に胃癌のため死去した。52歳であった。
3. 主な陸上競技の業績
エルマー・コンスタンティン・ニクランダーは、フィンランド陸上競技の歴史において傑出した存在であり、数多くのオリンピックメダルと国内タイトルを獲得し、その才能と献身は国内外で高く評価された。
3.1. オリンピック出場

ニクランダーは1908年から1924年までの4度の夏季オリンピックに出場した。特に1912年ストックホルムオリンピックでは、両手投げ種目でメダルを獲得するという画期的な業績を成し遂げた。
大会 | 種目 | 順位 | 記録 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1908年ロンドンオリンピック | 男子ギリシャ式円盤投 | 9位 | 32.46 m | |
男子砲丸投 | 9位-25位 | 不明 | 公式記録なし。およそ11 m。18歳179日での出場は、オリンピック砲丸投における最年少記録である。 | |
男子円盤投 | 12位-42位 | 不明 | 公式記録なし。およそ36 m。 | |
1912年ストックホルムオリンピック | 男子砲丸投 | 4位 | 13.65 m | |
男子円盤投 | 4位 | 42.09 m | 1投目でオリンピック記録を樹立したが、2投目で破られた。 | |
男子両手投げ砲丸投 | 3位 | 27.14 m | ||
男子両手投げ円盤投 | 2位 | 77.96 m | ||
1920年アントワープオリンピック | 男子砲丸投 | 2位 | 14.155 m | |
男子円盤投 | 1位 | 44.685 m | ||
男子25.40kg重錘投 | 8位 | 8.865 m | ||
1924年パリオリンピック | 男子砲丸投 | 6位 | 14.265 m | この種目での4度目の出場は、男子砲丸投におけるオリンピック最多出場記録に並ぶものである。 |
男子円盤投 | 7位 | 42.09 m |
1924年のパリオリンピックでは、彼はフィンランド選手団の旗手を務めた。
3.2. 国内選手権
ニクランダーは1909年から1924年にかけて、フィンランド陸上競技選手権大会の投てき種目で44もの国内タイトルを獲得し、これは国内記録となっている。その内訳は以下の通りである。
- 両手投げ円盤投: 11回優勝 (1909年、1910年、1911年、1912年、1913年、1914年、1915年、1916年、1917年、1918年、1920年)
- 両手投げ砲丸投: 11回優勝 (1909年、1910年、1912年、1913年、1914年、1915年、1916年、1917年、1918年、1920年、1924年)
- 砲丸投(片手投げ): 7回優勝 (1914年、1915年、1916年、1917年、1918年、1920年、1924年)
- ハンマー投: 6回優勝 (1911年、1914年、1915年、1916年、1917年、1918年)
- 円盤投(片手投げ): 5回優勝 (1914年、1915年、1916年、1917年、1918年)
- ギリシャ式円盤投: 2回優勝 (1912年、1913年)
- 重錘投: 2回優勝 (1914年、1918年)
これらの金メダルの他に、彼は12個の銀メダルと1個の銅メダルも獲得している。
3.3. 記録と自己ベスト
ニクランダーは、競技キャリアを通じて多くの記録を樹立した。
彼は公式な世界記録を一度樹立している。
- 1913年7月20日、両手投げ円盤投で90.13 m。この記録は現在も破られていない。
また、非公式ながら2つの世界記録を樹立したことがある。
- 1909年、両手投げ砲丸投で26.89 m
- 1910年、両手投げ円盤投で87.12 m
これらの記録は、投てきサークルの寸法が国際基準に合致していなかったため、公式記録として承認されることはなかった。
彼は数々のフィンランド国内記録も樹立している。
- 1907年10月25日、砲丸投で13.47 m
- 1909年7月4日、砲丸投で14.68 m
- 1910年6月19日、円盤投で44.88 m
- 1910年8月15日、ハンマー投で40.04 m
- 1913年7月19日、両手投げ砲丸投で27.75 m
- 1914年6月7日、ハンマー投で45.95 m
- 1914年、重錘投で10.76 m
- 1915年7月4日、ハンマー投で47.18 m
- 1916年6月12日、ハンマー投で47.57 m
彼の各イベントにおける自己ベストは以下の通りである。
- 砲丸投: 14.86 m (1913年7月19日)
- 両手投げ砲丸投: 27.75 m (1913年7月19日)
- 円盤投: 47.18 m (1916年7月16日)
- 両手投げ円盤投: 90.13 m (1913年7月20日)
- ハンマー投: 47.57 m (1916年6月12日)
- やり投: 54.19 m (1916年6月12日)
- 重錘投: 10.76 m (1914年)
4. 遺産と影響
エルマー・コンスタンティン・ニクランダーは、フィンランド陸上競技史における伝説的な選手として、その遺産と影響は長く語り継がれている。彼は4度のオリンピック出場と複数のメダル獲得、特に1920年の円盤投における金メダルによって、フィンランドのスポーツ界に大きな誇りをもたらした。彼が1913年に樹立した両手投げ円盤投の世界記録90.13 mが現在も破られていないことは、彼の技術と力の際立つ証である。
国内選手権での44回優勝という比類なき記録は、彼が長期間にわたってフィンランドの投てき競技を支配したことを示している。これは彼の卓越した競技能力だけでなく、練習への継続的な献身と精神的な強さを物語るものである。1924年のパリオリンピックでフィンランド選手団の旗手を務めたことは、彼が単なるアスリートとしてだけでなく、国民的な英雄として認められていたことの象徴である。ニクランダーの業績は、後進のフィンランド人アスリートにとっての目標となり、国内の陸上競技の発展に多大な影響を与えた。彼の存在は、厳しい状況下でもスポーツを通じて栄光を掴むことができるという希望を多くの人々に与え、フィンランドのスポーツ文化を豊かにする上で重要な役割を果たした。