1. 概要

- エーリク4世**(デンマーク語: Erik IVデンマーク語、1216年頃 - 1250年8月10日)は、1241年から1250年までデンマーク王として君臨した人物である。また、彼が課した厳しい税金、特に鋤に課税したことから「**鋤税王**」(デンマーク語: Erik Plovpenningエーリク・プローペニングデンマーク語)という異名で知られている。
エーリク4世の治世は、彼の兄弟、特にシュレースヴィヒ公のアーベルとの内乱や激しい対立に常に悩まされた。また、教会の特権を無視して土地に課税しようとしたため、聖職者たちとも衝突した。さらに、彼が導入した「鋤税」はスコーネの農民の激しい反乱を引き起こし、その強硬な施策は民衆に大きな負担を強いた。これらの紛争は彼の統治を不安定にし、最終的には1250年の暗殺という悲劇的な最期を迎えることとなった。本記事では、エーリク4世の生涯と、その権力志向的な行動がデンマークの社会、教会、そして民衆にもたらした影響を、人権と社会正義の観点も踏まえながら詳細に論じる。
2. 生涯前半
エーリク4世の生涯前半は、デンマーク王家の一員として生まれ、共同統治者として王位に就くまでの重要な時期であった。
2.1. 出生と教育
エーリク4世は1216年頃、デンマーク王ヴァルデマー2世とその2番目の妃ベレンガリア・デ・ポルトゥガルの間に、次男として誕生した。彼は、後のデンマーク王となるアーベルとクリストファ1世の兄にあたる。彼の幼少期に関する具体的な記録は少ないが、王家の慣例に従い、将来の統治者としての教育を受けたものと推測される。
2.2. 公爵時代と共同統治
1218年、エーリク4世の異母兄であるヴァルデマー若王が父ヴァルデマー2世の共同統治者として王位に就き、王位継承者に指名された際、エーリクはシュレースヴィヒ公に叙せられた。しかし、1231年にヴァルデマー若王が若くして死去したため、エーリクが次なる共同統治者として指名されることになった。
1232年5月30日、エーリクはルンド大聖堂で父の共同統治者および王位継承者として戴冠した。その後、シュレースヴィヒ公国は弟のアーベルに割譲された。この共同統治体制は1241年に父ヴァルデマー2世が死去するまで続き、その死をもってエーリク4世はデンマークの単独の王として即位した。
3. 治世と主要な出来事
エーリク4世の治世は、家族との対立、教会との税金問題、そして農民反乱といった、多くの困難と内戦に満ちたものであった。彼の統治は、権力の集中と強硬な課税政策を特徴としていた。
3.1. 兄弟との紛争
エーリク4世の治世は、特に弟のシュレースヴィヒ公アーベルとの激しい対立によって特徴づけられる。アーベルは自身の独立した地位を確立しようとし、ホルシュタインの伯爵たちの支持を受けていた。
王位に就いてわずか1年後の1242年、エーリク4世はシュレースヴィヒ公アーベルと最初の衝突を起こした。この紛争は2年間続き、1244年に兄弟間で休戦が合意され、エストニアへの共同十字軍遠征が計画された。
しかし、1246年にはエーリクと兄弟たちとの対立が再び激化した。エーリクは父ヴァルデマー2世がかつて保持していたホルシュタインへの支配権を回復しようと、ホルシュタインに侵攻した。これに対し、ホルシュタイン伯アドルフ4世の娘と結婚し、義弟であるホルシュタイン伯ヨハン1世とゲルハルト1世の後見人を務めていたシュレースヴィヒ公アーベルは、エーリクにホルシュタイン征服を断念させた。翌年、アーベルとホルシュタイン軍はユトランドとフュン島に侵攻し、ラナースからオーデンセに至る広範囲で焼き討ちと略奪を行った。アーベルは、ハンザ同盟都市であるリューベック、さらに弟であるロラン島およびファルスター島領主クリストファ、そして父の庶子であるブレーキンゲ公クヌーズからも支援を受けていた。
エーリクは即座に報復に転じ、リーベの街を奪還し、同年にアーベルの領地であるスヴェンボーを占領した。1247年には、フュン島にあるアレスコフ城(Arreskov Slot)を占領し、クリストファとクヌーズを捕虜とした。エーリクの妹であり、ブランデンブルク辺境伯のヨハン1世(1213年頃 - 1266年)の妻であったソフィア(1217年頃 - 1247年)の仲介により休戦協定が成立し、これによりエーリクはデンマーク全土を確固たる支配下に置くこととなった。
しかし、1249年にスコーネの農民が鋤税に反対する反乱を起こすと、エーリクはシェラン島の助けを借りて秩序を回復したが、教会、弟アーベル、そして南ユトランドのドイツの伯爵らは、王に対抗するための新たな同盟を形成することとなった。
3.2. 教会および農民との対立
エーリク4世の治世は、教会との税金問題と、農民への厳しい課税によって引き起こされた社会不安が顕著であった。特に「鋤税」の導入は、彼に「鋤税王」(プローペニング)という異名をもたらす原因となった。
エーリクは、教会の土地が他の土地所有者と同様に課税されるべきだと主張し、教会の特権を侵害しようとした。これに対し、教会は課税からの免除を主張し、1245年には教皇が使節を派遣し、オーデンセで王と司教たちとの間で交渉が行われた。交渉の中で、教会の古来からの権利と特権を侵害する者はいかなる者であれ破門されるという明確な警告が発せられた。これは、エーリクが教会の財産を課税対象として評価し続けることに教会が容認しないという強い意志を示唆していた。
しかし、エーリクはこれに激怒し、1249年にはロスキレ司教区の司教ニールス・スティグセンを標的にした。ニールス・スティグセンは同年デンマークから逃亡し、エーリクは新興都市コペンハーゲンを含むシェラン島にある司教の領地を没収した。インノケンティウス4世は司教の復職と領地の教区への返還を求めて介入したが、この論争は解決されることなく、ニールス・スティグセンは1249年にクレルヴォー修道院で死去した。没収された司教の領地は、エーリク4世が1250年に死去するまで教区に返還されることはなかった。
農民に対しては、厳しい税金、特に鋤に課される税金が導入された。当時、所有する鋤の数は個人の富の尺度として用いられており、この新しい課税は農民に大きな負担を強いた。この政策が原因で、スコーネの農民が大規模な反乱を起こす事態へと発展した。この重税政策により、エーリクは「プローペニング」(「鋤税王」の意)という異名で呼ばれるようになり、彼の統治が民衆に与えた経済的・社会的な圧迫を象徴する言葉となった。
3.3. 領土拡大と維持
エーリク4世は、デンマークの領土の拡大と維持にも力を注いだ。特に、デンマーク領エストニアにおける権益の確保と、ホルシュタインにおける支配権の回復を目指した軍事介入を行った。
1249年、エーリクは軍隊を編成し、自身の支配基盤を確保するためエストニアへと出航した。この遠征は、バルト海地域におけるデンマークの勢力圏を維持する上で重要な意味を持っていた。
翌1250年、エストニアからの帰国の途上で、エーリクは軍を率いてホルシュタインへ向かった。これは、国境付近の重要な要塞であるレンツブルクが占領されるのを防ぐとともに、ドイツの伯爵たちに対してデンマーク王としての自らの権威を示し、支配を確立するための行動であった。これらの軍事行動は、彼の兄弟との紛争と同様に、エーリク4世の権力維持と領土保全への強い意欲を示している。
4. 暗殺
エーリク4世の治世は、1250年8月10日の暗殺という悲劇的な終焉を迎えた。この事件はデンマーク史における重要な転換点となった。
1250年、エストニア遠征を終え、デンマークへの帰還の途上にあったエーリクは、ホルシュタインを訪れていた。彼はレンツブルクの国境要塞の占領を防ぎ、ドイツの伯爵たちに自らの王権を知らしめることを目的としていた。この時、弟のシュレースヴィヒ公アーベルは、ゴットルプにある自身の屋敷にエーリクを招き、もてなしを提供した。
その夜、エーリクがドイツ人騎士の一人とギャンブルに興じている最中、アーベルの侍従と数人の貴族たちが突然乱入し、エーリクを捕らえた。彼らはエーリクを縛り上げ、屋敷から引きずり出してボートに乗せ、シュライ湾へと漕ぎ出した。彼らの後を追うように別のボートが続いた。エーリクは、自らの宿敵であるレーヴ・グドムンセン(1195年頃 - 1252年)の声を聞いたとき、自分が殺される運命にあることを悟った。捕獲者の一人には、エーリクを斧の一撃で殺害する報酬が支払われていた。エーリクは斬首され、その遺体はシュライ湾に投げ込まれた。
翌朝、二人の漁師が網の中に頭部のないエーリクの遺体を引き上げた。彼らは遺体をシュレースヴィヒのドミニコ会修道院に運び、後に遺体は1257年にリングステズの聖ベント教会に移され、埋葬された。
エーリクの死後、弟のアーベルがデンマーク王位を継承した。アーベルは暗殺への関与を否定したが、彼自身も即位からわずか1年半後の1252年に殺害された。アーベルの死後、さらに末弟であるクリストファ1世がデンマーク王位を継承することとなった。エーリクの暗殺は、デンマーク歴史を巡る激しい権力闘争の象徴的な事件として歴史に刻まれている。
5. 結婚と子女
エーリク4世は1239年11月17日、ザクセン公アルブレヒト1世の娘であるユッタと結婚した。夫婦の間には以下の6人の子女が生まれた。
氏名 | 生年 | 没年 | 備考 |
---|---|---|---|
クヌーズ | 1242年 | 1242年 | 夭逝 |
ソフィア | 1241年 | 1286年 | スウェーデン王ヴァルデマール1世と結婚。 |
インゲボー | 1244年 | 1287年 | ノルウェー王マグヌス6世と結婚。 |
ユッタ | 1246年 | 1284年 | ロスキレの聖アグネス修道院長。 |
クリストファ | 1247年 | 1247年 | 夭逝 |
アグネス | 1249年 | 1288年/1295年 | ロスキレの聖アグネス修道院長。ランゲラン領主エーリク・ロングボーンと結婚したとされる。 |

6. 評価と遺産
エーリク4世の統治は、デンマークの歴史において権力と権威を巡る激しい衝突の時代として記憶されている。彼の施策、特に「鋤税」(プローペニング)に代表される厳しい課税は、スコーネの農民反乱を引き起こし、民衆に大きな苦しみを与えた。この異名は、彼の統治が国民の生活に直接的な悪影響を及ぼしたことを象徴しており、彼の政策が社会正義や人権の観点から批判的に評価されるべき点を示している。
また、彼の治世は、兄弟や教会との絶え間ない紛争によって特徴づけられる。特に、教会の土地に対する課税の試みは、教会の古くからの特権を無視するものであり、教皇からの破門の脅威に直面するほどであった。このような教会との対立は、エーリクの権威主義的な姿勢を浮き彫りにし、宗教機関との関係悪化を通じて国内の不安定さを増幅させた。彼の強硬な姿勢は、デンマーク国内に深い亀裂を生み、彼の死後も王位を巡る混乱が続く要因となった。
肯定的な評価としては、エーリクがデンマークの王権強化と王国の統一に努めた点が挙げられる。エストニアへの遠征やホルシュタインにおける軍事行動は、デンマークの勢力圏を維持し、王国の統一を守ろうとする彼の意志を示している。しかし、これらの行動もまた、彼自身の権力への執着と、そのために手段を選ばない姿勢の表れと見ることもできる。
総じて、エーリク4世の遺産は、その暗殺という悲劇的な最期とともに、強権政治がもたらす社会的分裂と、人々の苦難の象徴として語り継がれている。彼の「鋤税王」という異名は、民衆に対する王権の過度な介入と、それが引き起こした抵抗の歴史的教訓として、後世に大きな影響を与えたと言える。