1. 初期生と教育
オスカル・リシャルト・ランゲは、1904年7月27日にロシア帝国領ポーランドのトマシュフ・マゾヴィエツキで生まれた。彼の父親はプロテスタントの製造業者アーサー・ジュリアス・ランゲ、母親はソフィー・アルベルティーネ・ロスナーであった。ランゲの祖先は19世紀初頭にドイツからポーランドに移住してきた。


彼はクラクフのヤギェウォ大学で法学と経済学を学び、1926年に文学士、1928年には法学修士を取得した。1928年にはアダム・クシジャノフスキの指導のもとで博士論文を提出した。1926年から1927年までワルシャワの労働省で勤務し、その後1927年から1931年までヤギェウォ大学で研究助手として活動した。
2. アメリカでのキャリア
1934年、ランゲはロックフェラー財団のフェローシップを得てイギリスに渡り、1937年にはアメリカ合衆国へ移住した。1938年にはシカゴ大学の教授に就任し、数理経済学の分野で学術教師および研究者として活動し、彼の学問的基盤を形成した。1943年にはアメリカ市民に帰化した。
2.1. 第二次世界大戦中の外交・政治活動
第二次世界大戦中、ランゲは当初ロンドンにあったポーランド亡命政府と関係を持っていた。しかし、ヨシフ・スターリンはランゲを左翼的で親ソ連的な人物と見なし、フランクリン・D・ルーズベルト大統領に働きかけて、ランゲが公式な立場でソビエト連邦を訪問するためのパスポートを取得させた。スターリンはランゲと個人的に会談することを望み、将来のポーランド内閣での役職を提案した。
アメリカ合衆国国務省は、ランゲの政治的見解がポーランド系アメリカ人やアメリカの世論を代表していないと感じたため、彼が特使として渡航することに反対した。1944年のソ連訪問はさらなる論争を引き起こし、新たに設立されたポーランド系アメリカ人会議は彼を非難し、ロンドンを拠点とするポーランド亡命政府の利益を擁護した。ランゲは5月末にアメリカに戻り、ルーズベルトの要請でワシントンを訪問中だった亡命政府のスタニスワフ・ミコワイチク首相と会談した。ランゲはスターリンが独立したポーランドを連立政権のもとで維持したいというソ連の願望を伝え、亡命ポーランド指導部にソ連指導者との理解に達するよう圧力をかけるよう国務省に要請した。
第二次世界大戦末期、ランゲはポーランド亡命政府との関係を断ち切り、ソ連が支援するポーランド民族解放委員会(ルブリン委員会、PKWN)への支持に転じた。彼はヤルタ会談における戦後ポーランドに関する議論において、ルーズベルトとスターリンの間の仲介役を務めた。また、戦後のポーランドの国境画定や新政府樹立に関する政治的交渉にも深く関与した。
3. 戦後の活動と外交キャリア
1945年の第二次世界大戦終結後、ランゲはポーランドに帰国した。彼はアメリカ市民権を放棄し、同年中にポーランド人民共和国の初代駐米大使として再びアメリカに赴任した。1946年には国際連合安全保障理事会のポーランド代表も務めた。1947年からはポーランドに居住し、ポーランド政府のために活動を続けた。
彼はワルシャワ大学や中央計画統計学校で教鞭をとりながら、学術的な追求も継続した。1961年から1965年までポーランド国家評議会の副議長を務め、その間、国家元首の職務を代行する4人の評議会議長の一人として、1964年8月7日から5日間、代理国家元首を兼任した。1962年には国際社会科学研究所(ISS)から名誉フェローシップを授与された。
4. 経済理論と貢献
ランゲの経済学への貢献の大部分は、1933年から1945年のアメリカ滞在中に生み出された。彼は熱心な社会主義者であったが、マルクス経済学における労働価値説には異を唱え、新古典派経済学の価格理論を強く支持した。
4.1. 市場社会主義とランゲ・モデル
経済学史において、ランゲは1936年に出版された著書『社会主義の経済理論について』で最もよく知られている。この著作で彼は、マルクス経済学と新古典派経済学を統合し、社会主義経済の計画において市場の道具(特に新古典派の価格理論)を用いることを提唱した。
彼は、中央計画委員会が「試行錯誤」を通じて価格を設定し、不足や余剰が発生するにつれて調整を行うことを提案した。このシステムでは、中央計画者は政府工場で製造される製品の価格を任意に設定し、不足が生じれば価格を上げ、余剰が生じれば価格を下げるという調整を行う。この経済実験が数回繰り返された後、数学的手法を用いて経済を計画する。価格上昇は企業に利益増加への意欲を促し、生産を増やすことで不足を解消する。価格下落は企業に損失を防ぐために生産を抑制させ、余剰を解消する。ランゲの見解では、このような市場メカニズムのシミュレーションは、需要と供給を効果的に管理できるとされた。この考え方の支持者たちは、それが市場経済と社会主義経済の利点を組み合わせるものだと主張した。
ランゲは、このアイデアを利用すれば、計画経済は資本主義経済や私的市場経済と少なくとも同程度の効率性を持つと主張した。彼は、政府の計画者が市場経済と同様に価格システムを使用し、国有企業の管理者に国家が決定した価格にパラメトリックに(例えばコスト最小化など)反応するよう指示すれば、これが可能であると論じた。このモデルは、価格決定に「試行錯誤」を用いる手法の観点からはアバ・ラーナーの貢献により「ランゲ・ラーナー・モデル」としても知られ、またフレッド・テイラーの貢献によって「ランゲ・テイラー・モデル」ないし「ランゲ・ラーナー・テイラー・モデル」とも呼ばれることがある。これに対し、価格決定に「連立方程式」を用いる手法の観点からはディッキンソンの展開により「ランゲ・ディッキンソン・モデル」として知られる。
4.2. 社会主義経済計算論争
ランゲの議論は、オーストリア学派の経済学者たちとの社会主義経済計算論争の焦点の一つとなった。ミーゼスやハイエクが「中央当局(政府)は一般均衡の条件に関する十分な知識を持たず、市場原理を拡大してこそ理想的な資源配分が可能になる」と主張したのに対し、ランゲは「価格決定については市場原理を拡大するだけでは一般均衡の条件を達成することは不可能であり、中央当局の政策によってはじめて一般均衡条件に近づくことができるのだ」と述べ、政府と価格決定の市場原理との相互補完性を強調した。
当時のイギリスのフェビアン協会の社会主義者たちの間では、ランゲがこの論争に勝利したという見方が広まった。しかし、ハイエクの論文『社会における知識の利用』はランゲの著作に対する反論であり、経済学分野で書かれた最も重要な論文の一つとされている。
4.3. 福祉経済学と一般均衡理論への貢献
ランゲは他の様々な分野にも貢献した。彼は1930年代の一般均衡理論における「パレート的復活」の主導的な人物の一人であった。1942年には、第一および第二厚生定理の最初の証明の一つを提示した。彼はまた、一般均衡の安定性分析(1942年、1944年)を開始した。
彼の貨幣数量説に対する批判(1942年)は、彼の学生であるドン・パティンキンが貨幣を一般均衡理論に「統合」するという画期的な研究を発展させるきっかけとなった。ランゲは新古典派総合の発展にもいくつかの画期的な貢献(1938年、1943年、1944年)を行った。彼は古典派経済学と新古典派経済学を単一の理論構造に統合する研究も行った(例:1959年)。晩年には、サイバネティクスやコンピュータを用いた経済計画の研究にも取り組んだ。
5. 政治的・思想的立場
ランゲは熱心な社会主義者であり、戦後はポーランド人民共和国のスターリン主義的政府と密接な関係を持ち、その政府の代弁者として活動した。彼はポーランド統一労働者党に入党し、党中央委員会のメンバーとなった。時にはスターリンを「経済理論家」として評価する論文も執筆し(例:1953年)、経済学者仲間からその政治的立場を糾弾されることもあった。それでもランゲは、自身を社会主義活動家と自任していた。

新古典派経済学に基づいたランゲのモデル(いわゆる市場社会主義)は、あくまで社会主義全体のイデオロギーの範疇で計画経済の高度な効率性を達成するための計算ツールであった。戦後ポーランドにおいては、新古典派価格理論をソヴィエト式経済計画の実践に統合することと、古典派と新古典派経済学を一本の理論体系に統合することに尽力した(例:1959年)。
ランゲ・モデルは、ケネス・アローとジェラール・ドブリューによって一般均衡の存在が数学的に証明されたことで、その理論それ自体は完璧な「最終理論」であることが証明されていた。しかし、最も大きな問題は、一般均衡条件が実際の経済における様々な単位の実物要素を定量的な尺度で観測・計算できるかという実測面と、資源配分が現実的に見て本当に可能かという実物的な技術面(ないし政治面)の2つの点にあった。したがって彼はサイバネティクスとコンピュータの技術の発展により、ランゲ・モデルの実用面の問題が改善(価格決定の試行錯誤の範囲をより限定すること)されると考え、そのための研究をしていた。
6. 著書
- 1934年: "The Determinateness of the Utility Function", RES
- 1935年: "Marxian Economics and Modern Economic Theory", 『Review of Economic Studies』, 2(3), pp. [https://www.jstor.org/discover/10.2307/2967586?uid=3739936&uid=2&uid=4&uid=3739256&sid=21101748045753 189]-201
- 1936年: "The Place of Interest in the Theory of Production", RES
- 1936年: "On the Economic Theory of Socialism, Part One", 『Review of Economic Studies』, 4(1), pp. [https://www.jstor.org/discover/10.2307/2967660?uid=3739936&uid=2&uid=4&uid=3739256&sid=21101937426277 53]-71
- 1937年: "On the Economic Theory of Socialism, Part Two", 『Review of Economic Studies』, 4(2), pp. [https://www.jstor.org/discover/10.2307/2967609?uid=3739936&uid=2&uid=4&uid=3739256&sid=21101937426277 123]-142
- 1938年: 『On the Economic Theory of Socialism』, (with Fred M. Taylor), Benjamin E. Lippincott, editor. University of Minnesota Press
- 1938年: "The Rate of Interest and the Optimum Propensity to Consume", 『Economica』
- 1939年: "Saving and Investment: Saving in Process Analysis", QJE
- 1939年: "Is the American Economy Contracting?", AER
- 1940年: "Complementarity and Interrelations of Shifts in Demand", RES
- 1942年: "Theoretical Derivation of the Elasticities of Demand and Supply: the direct method", 『Econometrica』
- 1942年: "The Foundations of Welfare Economics", 『Econometrica』
- 1942年: "The Stability of Economic Equilibrium", 『Econometrica』
- 1942年: "Say's Law: A Restatement and Criticism", in Lange et al., editors, Studies in Mathematical Economics
- 1943年: "A Note on Innovations", REStat
- 1943年: "The Theory of the Multiplier", 『Econometrica』
- 1944年: "Strengthening the Economic Foundations of Democracy", with Abba Lerner, American Way of Business
- 1944年: 『Price Flexibility and Employment』
- 1944年: "The Stability of Economic Equilibrium" (Appendix of Lange, 1944)
- 1944年: "The Rate of Interest and the Optimal Propensity to Consume", in Haberler, editor, Readings in Business Cycle Theory
- 1945年: "Marxian Economic in the Soviet Union", 『American Economic Review』, 35(1), pp. [https://www.jstor.org/discover/10.2307/1810114?uid=3739936&uid=2&uid=4&uid=3739256&sid=21101937426277 127]-133
- 1945年: "The Scope and Method of Economics", RES
- 1949年: "The Practice of Economic Planning and the Optimum Allocation of Resources", 『Econometrica』
- 1953年: "The Economic Laws of Socialist Society in Light of Joseph Stalin's Last Work", Nauka Paulska, No. 1, Warsaw (trans ., 1954, International Economic Papers, No. 4, pp. 145-ff. Macmillan)
- 1958年: 『Introduction to Econometrics』
- 1959年: "The Political Economy of Socialism", 『Science & Society』, 23(1) pp. [https://www.jstor.org/discover/10.2307/40400609?uid=3739936&uid=2&uid=4&uid=3739256&sid=21101937426277 1]-15
- 1960年: "The Output-Investment Ratio and Input-Output Analysis", 『Econometrica』
- 1961年: 『Theories of Reproduction and Accumulation』
- 1961年: 『Economic and Social Essays, 1930-1960』
- 1963年: 『Political economy』, Macmillan
- 1963年: 『Economic Development, Planning and Economic Cooperation』
- 1963年: 『Essays on Economic Planning』
- 1964年: 『Optimal Decisions: principles of programming』
- 1965年: 『[https://archive.org/details/problemspoleconsocialismlange Problems of Political Economy of Socialism]』, Peoples Publishing House
- 1965年: 『Wholes and Parts: A General Theory of System Behavior』, Pergamon Press
- 1965年: "The Computer and the Market", 1967, in Feinstein, editor, Socialism, Capitalism and Economic Growth
- 1970年: 『Introduction to Economic Cybernetics』, Pergamon Press. Review [https://www.jstor.org/discover/10.2307/2229893?uid=3739936&uid=2&uid=4&uid=3739256&sid=21101937426277 extract.]
6.1. 日本語訳
- 1942年: 『計画経済理論』、土屋清訳、中央公論社。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1882405/1/4]
- 1954年: 『社会主義体制における統計学入門』、都留重人監修、岩波書店。[https://dl.ndl.go.jp/pid/3030610]
- 1964年: 『計量経済学入門』、竹浪祥一郎訳、日本評論社。[https://dl.ndl.go.jp/pid/3014308/1/4]
- 1966年: 『再生産と蓄積の理論』、玉垣良典、岩田昌征訳、日本評論社。[https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/3019515/1/3]
- 1970年: 『経済発展と社会の進歩』、都留重人、斎藤興嗣、鈴木正俊訳、岩波書店。[https://dl.ndl.go.jp/pid/11935719]
- 1970年: 『最適決定論 プログラミングの原理』、有木宗一郎、岩田昌征訳、合同出版。[https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12607727/1/3]
- 1973年: 『政治経済学 1 (一般的諸問題)』、竹浪祥一郎訳、第2版、合同出版社。[https://dl.ndl.go.jp/pid/11938155/1/3]
- 1973年: 『政治経済学 2』、竹浪祥一郎訳、合同出版社。[https://dl.ndl.go.jp/pid/11937908/1/3]
7. 私生活
オスカル・ランゲは1932年にイレーネ・オーダーフェルトと結婚した。
8. 死去
オスカル・リシャルト・ランゲは1965年10月2日にロンドンで死去した。
9. 遺産と評価
ランゲの経済思想は後世の経済学者や経済システム設計に大きな影響を与えた。彼の著作は市場社会主義の最も初期のモデルを提供した。

9.1. 経済思想への影響
ランゲの理論は、社会主義経済における市場メカニズムの導入可能性に関する議論の基礎を築き、その後の市場社会主義の研究に多大な影響を与えた。彼の貢献は、経済学における一般均衡理論、厚生経済学、貨幣理論、そして新古典派総合の発展に不可欠なものであった。また、晩年のサイバネティクスとコンピュータを用いた経済計画に関する研究は、現代の経済モデリングやデータ分析の先駆けとも評価される。
9.2. 批判的視点
ランゲの経済モデル、特にその実現可能性については、経済計算論争においてミーゼスやハイエクといったオーストリア学派の経済学者から強い批判を受けた。彼らは、中央計画者が市場の分散された知識を効率的に収集・処理することは不可能であると主張した。
また、彼の政治活動、特に第二次世界大戦中にポーランド亡命政府からソ連支援のルブリン暫定政府に支持を転換したことや、戦後のポーランド人民共和国のスターリン主義的政府と密接な関係を築いたことについては、歴史的に論争の対象となっている。彼がスターリンを「経済理論家」として評価する論文を執筆したことなども、一部の経済学者や政治評論家から批判された。これらの批判は、彼の経済理論の政治的含意や、独裁的な政治体制との連携の是非を問うものであった。