1. 概要
オットー・ブラウン(1900年 - 1974年)は、ドイツの共産主義者、ジャーナリスト、そしてドイツ共産党の幹部であり、中国共産党におけるコミンテルンの軍事顧問「李徳リー・ドー中国語」として最も知られています。彼の生涯は、ドイツでの初期の共産主義活動と逮捕、劇的な脱獄とソ連への亡命、そして中国での軍事顧問としての極めて重要な役割、さらにはソ連と東ドイツでの晩年という多岐にわたるものでした。
中国では、彼は紅軍の軍事戦略に深く関与し、特に長征初期には軍事決定に大きな影響力を行使しました。しかし、その戦術は多大な犠牲を伴い、遵義会議で毛沢東によって批判され、彼の軍事指揮権は縮小されました。彼の活動は、中国共産党の初期の発展と、その後の毛沢東の台頭に不可欠な影響を与えましたが、その判断や行動は社会自由主義的な観点から、その結果として生じた人命の損失や、権威主義的な体制下での個人の自由への影響という点で批判的に評価されるべきです。晩年には回顧録『中国の記録』を発表し、初期中国共産党史に関する貴重な情報を提供しましたが、その客観性には議論の余地があるとされています。
2. 初期生い立ちと背景
オットー・ブラウンの初期の人生は、困難な環境と政治的覚醒の時期でした。
2.1. 出生と幼少期
オットー・ブラウンは、1900年9月28日にドイツのバイエルン州ミュンヘン近郊のイスマニングで生まれました。母親は存命でしたが、彼は6歳から13歳まで孤児院で育ちました。
2.2. 教育
ブラウンはミュンヘン地域のパージングにある教員養成大学に入学し、1913年から1919年まで学びました。1918年6月にはバイエルン軍に徴兵され、第一次世界大戦のイタリア戦線に参加しましたが、戦闘に投入される前に休戦を迎えました。休戦後、彼は教員養成大学での学業を終え、1919年に教員免許を取得しました。しかし、思想的な問題から教師の職に就くことはできませんでした。彼は新たに創設されたドイツ共産党(KPD)の前身であるスパルタクス団に1917年に加入しており、その後、社会主義者による反乱であるバイエルン・レーテ共和国の樹立にも関与したとされています。反乱が失敗に終わると、ブラウンは逃亡生活を送ることになります。
3. ドイツでの共産主義活動
ブラウンはドイツ共産党の幹部として活発に活動しましたが、その過程で法的な問題に直面し、最終的にはソ連への亡命を余儀なくされました。
3.1. 党活動と法的問題
1921年、ブラウンはドイツ共産党の専従党員となりました。同年7月、彼はベルリンに拠点を置く白系ロシア人の亡命者フレイベルク大佐の機密文書窃盗事件に関与したとして警察に拘束されました。裁判では、彼は共産主義者としてのつながりを隠し、「右翼」であると主張することで、ヴァイマル共和政の司法制度の偏向により軽い判決を受け、投獄を免れて潜伏しました。
1924年以降、彼は党の「防諜」活動を指揮し、党の機関紙に定期的に記事を執筆するなど、ドイツ共産党の中核メンバーとしての地位を確立しました。また、党の民兵組織や準軍事活動にも深く関与していました。
3.2. 脱獄とモスクワへの亡命
1926年9月、ブラウンは再び警察に逮捕され、1922年のフレイベルク事件の判決を受けた後、モアビット刑務所に収監されました。しかし、1928年4月11日、当時の恋人であったオルガ・ベナリオを含む共産主義者の仲間たちが刑務所に銃で押し入り、彼を奪還するという大胆な脱獄劇を成功させました。この脱獄は世界中で大きな注目を集めました。ブラウンとベナリオはしばらくベルリンに潜伏した後、ソ連のモスクワへと亡命し、コミンテルンの活動に関わることになります。

ブラウンとベナリオは1931年に別れました。ベナリオは後にブラジルの革命的指導者ルイス・カルロス・プレステスと結婚し、ブラジルに移住しましたが、ジェトゥリオ・ヴァルガス独裁政権によって逮捕され、ドイツに引き渡されました。彼女は最終的にベルンブルク安楽死センターでガス室に送られ、ブラジルとドイツの左派からは殉教者として記憶されています。
4. コミンテルンでの訓練
モスクワに到着したブラウンは、コミンテルンが運営する教育機関で軍事および政治訓練を受けました。彼とオルガ・ベナリオは共に国際レーニン学校で学びました。ブラウンはさらにフルンゼ軍事アカデミーに入学し、軍事教育を受けました。このアカデミーでの訓練は、彼が後に中国で軍事顧問としての役割を果たす上で重要な基盤となりました。
5. 中国での活動
ブラウンのキャリアにおいて最も重要かつ論争の的となったのは、コミンテルンの軍事顧問として中国共産党に派遣された時期です。彼は「李徳リー・ドー中国語」という中国名を名乗り、軍事戦略に大きな影響を与えましたが、その結果は賛否両論を呼びました。
5.1. 中国への派遣と初期の任務

1932年、フルンゼ軍事アカデミーを卒業したブラウンは、ソビエト軍事情報局第4総局によって中国満州のハルビンに派遣されました。そこから上海へ移動し、現地のコミンテルン支局に合流しました。上海では、軍事面では「クレバー将軍」(マンフレート・シュテルンの偽名)の指揮下で、政治面では同じドイツ人共産主義者であるアルトゥール・エヴァルトの指導の下で活動しました。
しかし、当時の上海における共産主義運動は、蔣介石率いる中国国民党による上海クーデター(1927年)によって壊滅的な打撃を受けており、中国共産党(中共)は江西省の農村地帯に撤退し、再起を図っていました。1933年1月、上海での中共臨時中央の活動が困難になったため、ブラウンは博古と共に、周恩来が事実上支配していた江西省の中央ソビエトの首都瑞金に移り、軍事顧問となりました。この地でのブラウンの通訳を務めた伍修権は、後に回顧録でブラウンについて詳しく記録を残しており、中ソ対立期の中国側から見たブラウン像は伍の回顧録によるところが大きいとされています。
当時26歳であった博古は、ソ連留学の経験とコミンテルンの後押しを受けて中国共産党総書記の座に就き、軍事に疎かったため、軍事顧問の李徳リー・ドー中国語に紅軍(中共軍)の全権を委ねました。ブラウンは赴任当初の1932年から1933年にかけて、蔣介石が指揮する国民党軍を撃退する功績も挙げました。しかし、ブラウン自身の後年の回想によれば、この時期の彼はあくまで指揮権を持たないアドバイザー役であり、後の敗戦による瑞金撤退の責任は自分にはないと語っています。
5.2. 軍事顧問としての役割と戦略
ブラウンが軍事顧問として果たした役割と、その戦略の具体的な状況については、依然として議論が続いており、不明瞭な点も残されています。フレディ・リッテンがオットー・ブラウンのこの時期のキャリアを徹底的に調査した結果、「ブラウンの回顧録は、これらの出来事にとって重要ではあるが、疑わしい情報源である」と指摘しています。
当時、国民党は中国共産党を自らの統治に対する危険な脅威とみなし、都市部で中国共産党に対する一連の強力な攻撃を開始しました。国民党軍は瑞金に迫り、瑞金は包囲される危険にさらされ、維持が不可能となりました。中国共産党はこの危険から逃れるため、長征を開始しました。ブラウンは、中国名「李徳リー・ドー中国語」を名乗り、長征に参加したほぼ唯一の外国人であり、より安全な中国内陸部へ向かうという長征のアイデアを最初に提案した人物である可能性さえあります。
1934年後半、ブラウンは周恩来や博古と共に、初期の紅軍第一方面軍において、すべての軍事決定を下す権限を持つ指揮官の地位に就きました。ブラウンは、第一方面軍がはるかに大規模で装備の整った国民党軍を直接攻撃することを主張しました。その結果、第一方面軍は甚大な損害を被り、中国共産党軍の兵力は1年以内に86,000人から約25,000人に激減しました。
5.3. 長征と遵義会議での役割
中国共産党はこれまで、博古、ブラウン、周恩来の「三人団」が重要事項を決定していましたが、黎平に到着した際、ブラウンと周恩来は激しく対立しました。1935年1月、貴州省に到着した際に開催された遵義会議で、周恩来が毛沢東に寝返ったこともあり、ブラウンは敗戦の責任を問われ、博古と共に解任されました。この会議において、毛沢東と彭徳懐はブラウンと博古の戦術に反対を表明しました。毛沢東は、直接攻撃が多くの命を犠牲にしていると主張し、より小規模で装備の劣る部隊は、毛沢東が後に有名になるゲリラ戦術を用いて国民党を包囲すべきだと提案しました。毛沢東は、1920年代にオランダ人顧問ヘンク・スネーフリートのようなコミンテルンからの顧問が壊滅的な助言を与えていたため、ヨーロッパ人顧問をすでに信用していませんでした。他の軍事部門の指導者たちも毛沢東に同意し、ブラウンと博古は軍事指揮官から解任され、毛沢東が長征の指導者となりました。この会議の後、コミンテルンは脇に追いやられ、「生粋の共産主義者」が中国共産党の支配権を握りました。
しかし、ブラウンはその後も1939年まで中国に留まり、中国共産党と共に長征に参加しました。軍事指揮権はもはや持っていませんでしたが、主に顧問業務や戦術の指導に携わりました。中国共産党軍が延安に到着した後、ブラウンはアメリカ生まれの医師ジョージ・ハテムと同居しました。それまでは時々主要な会議に呼ばれていましたが、1936年頃からは呼ばれなくなりました。役割を失ったブラウンは、モスクワに対してたびたび帰還命令を出すよう要請していました。しかし、彼は軟禁されていたわけではなく、共産党を支援するために延安に入った国内外の支援家などを自宅に招いて接待に当たっていました。
5.4. 中国での私生活
1933年、ブラウンは中国共産党員の蕭月華と結婚し、息子をもうけました。しかし、瑞金での彼の生活は、通訳の伍修権の回想録によれば、一戸建てに住み、伍修権や警備兵、炊事員などを住まわせ、饅頭を嫌ってパンを要求するなど、贅沢であったとされています。瑞金は食糧も女性も不足しており、党幹部、とりわけ外国人であるブラウンの行動は目立ち、伍修権が実質以上に大げさに伝えた可能性も指摘されています。また、党の斡旋で蕭月華と結婚したものの、妻ではなく愛人であったとも言われています。
その後、ブラウンはより美しく教養のある李麗蓮と恋に落ち、蕭月華と離婚しました。李麗蓮は中国の女優であり、共産党員でもありました。ブラウンは1937年に延安で上海から来た歌手の李麗蓮と結婚しました。当時の延安の男女比は18対1であり、ブラウンはこの点では恵まれていたと言えます。1939年8月28日、ブラウンはソ連へ出発しましたが、李麗蓮とは二度と会うことはありませんでした。この際、ブラウンは妻の李麗蓮を連れて帰ろうとしましたが、入国許可証がないことを理由に許されませんでした。見送りに来た周恩来は後で李麗蓮を送り届けると言いましたが、結局実行されませんでした。ブラウンは1939年以降中国に戻ることはありませんでしたが、生涯にわたって中国の情勢に関心を持ち続けました。
6. ソ連および東ドイツでの時期
中国での活動を終えたブラウンは、ソ連と東ドイツで新たなキャリアを築きました。
6.1. ソ連での活動
1939年、ブラウンはソ連に到着しました。当時、ソ連はヨシフ・スターリンの秘密警察による粛清が行われており、多くの外国人共産主義者、特にドイツ人共産主義者が投獄、拷問、または殺害されるという非常に危険な場所でした。しかし、ブラウンは到着直後にいくつかの政治的困難に直面したものの、そのような運命を免れることができました。
1939年から1941年の間、彼はモスクワの外国文書翻訳所に編集者兼翻訳者として勤務しました。1941年にドイツによるソ連侵攻が始まると、彼のドイツ人としての経歴が活用され、ソ連軍に捕らえられたドイツ将校の忠誠心を転向させるための「政治教官」となりました。この役割では、彼は1920年代の古い偽名「Kommissar Wagnerコミッサール・ヴァーグナードイツ語」を使用しました。その後、彼は捕虜となった日本将校に対しても同様の役割を果たしました。
1946年から1948年にかけて、彼はモスクワ州クラスノゴルスクに拠点を置き、反ファシスト中央学校で講義を行いました。その後、再びモスクワ外国文書翻訳所で勤務しました。
6.2. 東ドイツへの帰還とキャリア

スターリンの死後、1954年にオットー・ブラウンは約30年間の亡命生活を経て故郷である東ドイツへの帰国を許されました。
東ドイツに到着後、ブラウンは支配政党であるドイツ社会主義統一党(SED)の中央委員会が運営するマルクス・レーニン主義研究所の研究員となりました。彼の主な職務は、ウラジーミル・レーニンの著作をドイツ語で出版することでした。彼はまた、ミハイル・ショーロホフの著作のドイツ語訳なども行いましたが、発表されたものは少ないです。
1961年から1963年まで、彼はドイツ作家協会の第一書記を務めましたが、その後失脚しました。60代半ばに差しかかり、しばらくの間は年金生活者としてロシア語のフリーランス翻訳を行っていました。
彼の名誉回復は、1964年に支配政党の機関紙『Neues Deutschlandノイエス・ドイチュラントドイツ語』が、1930年代の中国の長征に関わった無名の李徳リー・ドー中国語が、実はドイツ人オットー・ブラウンに他ならなかったという事実を明らかにしたことで明らかになりました。
中ソ対立が激化していた1959年から1964年の間には、たびたび中国を批判する文章を発表しました。1967年には愛国功労勲章を、1969年には東ドイツ国家勲章を授与され、1970年には独ソ戦の功績でカール・マルクス勲章とレーニンメダルを授与されました。
6.3. 主要な執筆活動と回顧録
1960年代後半、ブラウンは社会科学研究所の研究員でもあった時期に、自身の回顧録である『Chinesische Aufzeichnungen (1932-1939)中国の記録(1932-1939)ドイツ語』を執筆しました。この回顧録は、1973年に書籍として出版され、中国語、英語、その他の言語に翻訳されました。この著作は、延安滞在時代の毛沢東と中共国際派の王明らとの間の陰惨な対立について記されています。この本は長らく中国で完全発禁処分となっていましたが、近年では規制が緩くなり、中国の歴史学者によって初期中国共産党の研究に比較的数多く引用されています。
研究者たちは、この回顧録を、中国共産党の公式史観とは異なる視点を提供する興味深い情報に満ちたものと評価していますが、同時に客観的または公平とは言い難いとも指摘しています。
ブラウンのその他の著作には、1959年に発表された『In der Münchner Freien Sozialistischen Jugendミュンヘン自由社会主義青年団にてドイツ語』などがあります。
7. 死

オットー・ブラウンは74歳であった1974年8月15日、ブルガリアのヴァルナでの休暇中に死去しました。彼は東ベルリンに埋葬され、彼の死亡記事はソ連の機関紙『Правだプラウダロシア語』やアメリカの『The New York Timesニューヨーク・タイムズ英語』に掲載されました。彼の墓はベルリンのフリードリヒスフェルデ中央墓地にあります。
8. 評価と影響
オットー・ブラウンの活動と思想は、その生涯を通じて多様な評価を受け、中国共産党の歴史に大きな影響を与えました。
8.1. 肯定的な評価
ブラウンの回顧録『中国の記録』は、初期中国共産党史、特に延安時代の王明の「国際派」と毛沢東との対立を理解する上で重要な著作として引用されています。この著作は、公式の歴史記述とは異なる視点を提供し、研究者にとって貴重な情報源となっています。また、彼は長征に唯一参加した外国人であり、その経験は中国革命史の貴重な証言として評価されています。
8.2. 批判と論争
ブラウンの中国における軍事顧問としての役割は、その戦術が多大な犠牲を伴ったことから、特に批判の対象となっています。彼は、より大規模で装備の整った国民党軍に対し、紅軍に直接攻撃を主張しましたが、これにより中国共産党軍の兵力は大幅に減少しました。この消耗戦的な戦術は、毛沢東や彭徳懐によって批判され、彼らが主張するゲリラ戦術とは対照的でした。毛沢東は、コミンテルンからのヨーロッパ人顧問の助言が過去に壊滅的な結果をもたらしたことから、彼らを不信していました。
また、通訳の伍修権の回想録によれば、瑞金でのブラウンの生活は、食糧や物資が不足していた当時の状況下で、パンを要求するなど贅沢であったとされ、党幹部、特に外国人である彼の行動は目立ち、一部の中国共産党将校からは独断専行に対する不満も存在しました。毛沢東にとっては、ブラウンは軍の指揮権を奪われた「目の上のコブ」のような存在でした。彼の回顧録は、その内容が興味深い情報に満ちている一方で、客観性や公平性に欠けるという指摘もあります。