1. 初期および背景
カール・フリードリヒの幼少期は、父の早世と母方の叔父であるスウェーデン王カール12世との関係、そして大北方戦争の混乱の中で形成された。
1.1. 出生と家族
カール・フリードリヒは1700年4月30日にスウェーデンで生まれた。父はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公フレデリク4世、母はカール11世の娘であるヘドヴィグ・ソフィアであった。彼は母方の叔父であるスウェーデン王カール12世の近親者であり、父方の家系はオルデンブルク家の分家であるホルシュタイン=ゴットルプ家であった。この家系は、当時デンマーク=ノルウェーを統治していたデンマーク王家と密接な関係にあった。
1.2. 幼少期と後見
1702年、父フレデリク4世がクリシュフの戦いで戦死したため、カール・フリードリヒは2歳で公爵位を継承した。当初は母ヘドヴィグ・ソフィアが摂政を務め、彼らはストックホルムに居住し続けた。公国の日常的な共同統治は行政官に委ねられた。母は彼を優しくも厳しく育てたとされるが、カール・フリードリヒが8歳の時の1708年に死去した。その後、彼は母方の曾祖母(母の父方の祖母)であるヘドヴィグ・エレオノーラの養育下に置かれた。ヘドヴィグ・エレオノーラは彼をひどく甘やかしたと伝えられており、その結果、彼は消極的で怠惰な性格になったとされる。母とヘドヴィグ・エレオノーラは共に、子どものいない叔父カール12世の後継者として彼の権利を支持し、その実現のために尽力した。1717年には成年に達し、一部の軍事的責任を負うことになった。
1.3. 公爵位の継承
1702年、父フレデリク4世がクリシュフの戦いで戦死したことにより、カール・フリードリヒは2歳でシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公爵位を継承した。彼は神聖ローマ帝国の封土であるホルシュタイン公国と、デンマークの封土であるシュレースヴィヒ公国において、父の従兄弟であるデンマーク=ノルウェー王フレデリク4世と共同統治を行ったが、成人する1717年までは後見下に置かれた。シュレースヴィヒ公国においては、デンマーク=ノルウェー王の臣下としての立場であった。
2. シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公としての統治
カール・フリードリヒがシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公として統治した時期は、大北方戦争の影響により領土の喪失という大きな変化を経験した。
2.1. 領土の喪失
大北方戦争において、彼の後見人たちがデンマーク=ノルウェーに対してスウェーデン側に与したため、1713年にはデンマーク軍が公国領を荒らし、その北部地域を征服した。これには、シュレースヴィヒ公国にある代々の公爵の居城であるゴットルプ城も含まれた。1721年、デンマーク=ノルウェー王フレデリク4世は、1702年にカール・フリードリヒに授与したシュレースヴィヒ公の称号と封土を公式に剥奪した。
1720年にはスウェーデンとデンマーク=ノルウェーの間でフレデリクスボー条約が締結され、スウェーデンはホルシュタイン=ゴットルプ家への支援を停止することを誓約した。カール・フリードリヒはこの条約に反対したが、スウェーデン政府は彼のスウェーデン王位継承権に関する反抗的な態度を理由に、彼を支援対象から除外しようとした。この条約により、彼がシュレースヴィヒ公国の失われた領土を回復することは事実上不可能となった。この領土問題は、後に彼の息子ピョートルが1762年にロシア皇帝に即位した際、デンマーク=ノルウェーから失われた領土を奪還するためにロシア軍を動員する準備を始める動機となった。
3. スウェーデン王位継承権
カール・フリードリヒは母方の叔父カール12世の死後、スウェーデン王位継承者としての地位を主張したが、最終的にはその座から排除された。
3.1. スウェーデン王位継承の試み
1718年に母方の叔父であるスウェーデン王カール12世が死去すると、カール・フリードリヒは最も近親の男子としてスウェーデン王位継承権を主張した。しかし、彼の叔母であるウルリカ・エレオノーラ(1688年 - 1741年)が王位を掌握した。ウルリカ・エレオノーラは、その姉(カール・フリードリヒの母)が「議会の同意を得ずに」彼の父と結婚したため、ノルショーピング継承法に定められた継承法に則れば王位継承権がないと主張した。カール・フリードリヒの支持者たちは、彼の祖父カール11世が確立したスウェーデンの絶対君主制が、この婚姻条項を無関係にしたと主張した。叔父の死の報に接した際、彼は悲しみに打ちひしがれて行動を起こすことができなかったと伝えられている。しかし、同じくティーステーダレンにいたウルリカ・エレオノーラの夫フレデリク1世は、彼女の王位継承を支援するために急行した。カール・フリードリヒはウルリカ・エレオノーラと対面した際、アルヴィド・ホルンによって彼女を女王として迎えざるを得なかった。彼は「殿下」の称号と、彼女の推定相続人として認められることを求めたが、その称号が夫に与えられたため、1719年にスウェーデンを去った。

3.2. 王位からの排除
1723年、カール・フリードリヒは不在のまま「殿下」の称号を与えられたが、彼の親ロシア政策がスウェーデン王位継承の障害となった。彼はスウェーデンから撤退し、最終的にロシアに定住した。スウェーデン国内のいわゆる「ホルシュタイン派」は、引き続きカール・フリードリヒの王位継承権を主張した。彼らは子どものないウルリカ・エレオノーラの死を待ち、カール・フリードリヒを国王に擁立する準備を進めていたが、カール・フリードリヒは叔母よりも早く死去したため、その構想は実現しなかった。この頃には、スウェーデンとロシアの関係が緊張していたため、スウェーデンはカール・フリードリヒとその子孫を王位継承から明確に排除する新たな継承法を制定した。カール・フリードリヒとその子孫がスウェーデン王位から排除されたことで、スウェーデンとロシアの同君連合が回避された。なぜなら、カール・フリードリヒの一人息子は後にロシア皇帝ピョートル3世となるからである。その後、子どものいないウルリカ・エレオノーラの死後、スウェーデンでは「帽子党」がカール・フリードリヒの従弟にあたるアドルフ・フレドリク(彼の父の弟の息子であり、同じオルデンブルク家出身)をスウェーデン王太子に選出した。
4. ロシア皇室との関係
カール・フリードリヒはロシア皇室との結婚を通じて、その息子がロシア皇帝となる道を開き、自身の家系がロシアの歴史に深く関わることになった。
4.1. アンナ・ペトロヴナとの結婚
1725年5月21日、カール・フリードリヒはピョートル1世とその妻エカチェリーナ1世の長女であるアンナ・ペトロヴナ皇太子妃と結婚した。この結婚は、スウェーデン王位継承権者であった彼とロシア帝国の間の政治的な連携を強化する目的があった。ピョートル1世は、この結婚が政治的に有用であると見なしていた。しかし、アンナ自身は、カール・フリードリヒが娼婦と交際しているという評判のために、この結婚に乗り気ではなかったと伝えられている。ピョートル1世の死後、エカチェリーナ1世はカール・フリードリヒに宮廷での地位、自身の宮殿、収入を与え、アンナとの結婚を執り行った。
4.2. 息子ピョートル3世とロシア帝位継承
1728年、カール・フリードリヒとアンナの間には息子カール・ペーター・ウルリヒ(後のロシア皇帝ピョートル3世)が誕生した。カール・フリードリヒは、サンクトペテルブルク宮廷の近衛隊長を務めていたが、1727年に姑であるエカチェリーナ1世が死去した際、妻アンナのロシア女帝即位を画策した。しかし、この試みは失敗に終わった。それでも、夫妻の一人息子であるカール・ペーター・ウルリヒは、1739年にホルシュタイン公の公爵位を継承し、最終的に1762年にピョートル3世としてロシア皇帝に即位した。これにより、彼の家系がロシア帝位を継承する道が開かれた。ピョートル3世は、父が失ったシュレースヴィヒを回復するため、ロシア軍を動員してデンマークとの戦争を準備したが、妻で女帝エカチェリーナ2世のクーデターによって廃位され、その計画は実現しなかった。ピョートル3世の廃位には、カール・フリードリヒがかつて行った行動も決定的な影響を与えたとも言われている。
5. 後年と死
カール・フリードリヒは晩年をホルシュタイン=ゴットルプ公国で過ごし、その関心は主に息子のロシア帝位継承に向けられていた。
5.1. ホルシュタイン=ゴットルプでの生活
1727年、カール・フリードリヒは妻アンナと共にホルシュタイン=ゴットルプ公国の領地に移り住み、キール城を居城とした。アンナは1728年に息子を出産した後、キールで死去した。カール・フリードリヒは残りの人生をホルシュタイン=ゴットルプのキールで過ごした。彼の最優先事項は、息子のロシア帝位継承を確実にすることであった。彼はスウェーデンにおける自身の支持者たちも支援したが、ホルシュタイン=ゴットルプ公国そのものにはあまり注意を払わなかったとされている。

5.2. 死
1739年6月18日、カール・フリードリヒはザクセン地方のロールフスハーゲン(現在のリュンペル市の一部)で死去した。彼の墓はボルデスホルムの修道院教会にある。

6. 遺産と影響
カール・フリードリヒの生涯と業績は、特に彼の家系がロシアの歴史に与えた影響において、後世に重要な遺産を残した。
6.1. ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝の祖
彼の息子ピョートル3世がロシア皇帝に即位したことにより、ホルシュタイン=ゴットルプ家はロシア皇室と統合された。これにより、カール・フリードリヒは、ピョートル3世以降のロシア帝国を支配するロマノフ朝(正式にはホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝)の祖となった。これはロシアの歴史における重要な王朝交代であり、エカチェリーナ2世を除く全てのロシア皇帝が彼の父方の血統を引いている。
6.2. 歴史的評価
カール・フリードリヒの生涯、政治的選択、そして彼がヨーロッパの王室間の複雑な関係の中で果たした役割については、様々な歴史的評価と分析が存在する。彼はスウェーデン王位継承者としての地位を主張し、デンマークとの領土問題を抱えながらも、最終的にはロシア皇室との婚姻を通じて、その息子をロシア皇帝に擁立するという大きな成果を上げた。彼の遺産は、特にロシア帝国の形成過程において重要な意味を持っている。彼の消極的で怠惰な性格が指摘される一方で、その血筋がロシアの歴史を大きく動かした事実は、彼の存在が単なる一公爵に留まらないことを示している。