1. 概要
阮文維(Nguyễn Văn Vỹグエン・ヴァン・ヴィベトナム語、1916年1月16日 - 1981年)は、フランス植民地時代からベトナム国、そしてベトナム共和国にかけて活躍した軍人であり、政治家です。最終的にはベトナム共和国陸軍の中将にまで昇進し、国防大臣を務めました。彼のキャリアは、フランス植民地軍での勤務から始まり、ディエンビエンフーの戦いへの参加や朝鮮戦争への支援など、激動の時代を経験しました。しかし、国防大臣在任中には軍人互助貯蓄基金(SMASF)からの数百万ドルに及ぶ横領疑惑に直面し、その責任を問われて解任されるなど、論争の多い人物としても知られています。この記事では、彼の生涯、軍歴、政治的役割、そしてその後の論争と失脚に至る経緯を包括的に記述します。
2. 初期生い立ちと教育
阮文維は1916年1月16日、ハノイの中流家庭に生まれました。彼はハノイのアルベール・サロー高校で学び、1937年にはフランスの教育課程に基づくバカロレア(全課程修了)の資格を取得し、中等教育を修了しました。その後、1937年から1939年にかけてハノイ大学法学部で法律を学びました。
3. フランス植民地時代における軍歴
阮文維の軍歴は、フランス植民地時代に始まり、フランス軍の士官としてキャリアを積みました。彼はディエンビエンフーの戦いにも参加し、また朝鮮戦争への支援活動にも携わりました。
3.1. フランス陸軍での勤務
1939年末、阮文維は父親の希望に反してフランス軍に入隊し、ソンタイの陸軍士官学校の第1期生として学びました。翌1940年には歩兵少尉として卒業しました。1942年には中尉に昇進し、トンキン第4歩兵連隊の小隊長を務めました。1945年には大尉に昇進し、植民地遠征第19歩兵連隊の小隊長に転じました。
1945年3月9日、日本軍がフランス領インドシナでクーデターを起こし、フランス軍を武装解除すると、彼は海を渡って中国へ脱出し、フランス軍のマルセル・アレッサンドリ将軍の亡命部隊に加わりました。1946年には、中国南部を拠点とするベトナム・フランス合同偵察コマンド部隊の指揮官に任命されました。
1947年、フランスがインドシナを再占領した後、彼はベトナムに戻り、大尉に昇進してベトミン地域に駐屯するインドシナ機動大隊第4コマンド中隊の司令官を務めました。その後、中隊全体が空挺訓練を受け、「北ベトナム空挺中隊」と改称されました。1949年初頭には、第3空挺コマンド大隊に属するインドシナ第3空挺中隊の司令官に転じ、北ベトナムで多くの作戦に参加しました。1952年まで、彼は北ベトナムでフランス軍ゲリラの指揮官として、ベトミンへの後方攻撃を担当していました。
3.2. 朝鮮戦争支援
阮文維は、1952年以降の朝鮮戦争への支援活動にも参加しました。当時、彼の階級は大佐でした。
4. ベトナム国時代における軍歴
フランスからの独立後、阮文維はベトナム国軍に編入され、その創設期において重要な役職を歴任しました。しかし、その後のベトナム共和国の樹立を巡る政治的混乱の中で、彼は亡命を余儀なくされることになります。
4.1. ベトナム国軍での勤務
1950年末、阮文維は少佐に昇進し、フランスのパリにある高等参謀学校に留学しました。6ヶ月後に修了して帰国すると、中佐に昇進しました。1952年初頭、彼はフランス国防省によってベトナム国軍に転属されました。同年2月には大佐に昇進し、国長バオ・ダイの武官長に任命され、阮文馨少将の後任となりました。
1954年3月上旬には、沿岸地域の司令官を兼任し、中部ベトナム首相の軍事補佐官を務めました。同年7月20日のジュネーヴ協定調印後には少将に昇進し、再びバオ・ダイ国長の武官参謀長に再任されました。
4.2. 総参謀長就任を巡る論争と亡命
1954年11月19日、阮文維はバオ・ダイ国長によって、フランスに召還された阮文馨中将の後任として、暫定的なベトナム国軍総参謀長に任命されました。しかし、同年12月1日、ゴ・ディン・ジェム首相は、国長の承認なしに黎文巳新少将を総参謀長に任命する法令に署名しました。
ジェム首相を支持する上級将校たちの圧力により、阮文維は総参謀長の職務を黎文巳将軍に引き渡さざるを得ませんでした。事態を収拾するため、ジェム首相は彼を軍総監に任命し、バオ・ダイ国長の武官参謀長を兼任させました。それでも、1955年4月28日、バオ・ダイ国長はカンヌからジェム首相に電報を送り、阮文維を総参謀長に指名したことを伝えました。1955年4月30日、阮文維は国長の武官府近衛兵司令官である阮宣大佐と共にダラットからサイゴンへ向かい、黎文巳将軍に総参謀長の職務を引き渡すよう要求しました。同日午後の独立宮殿での会議中、彼は作家ニ・ランに銃で脅される事態となりました。
この事件の後、彼は急いでダラットに戻り、そこからカンボジアを経由してフランスへ亡命しました。サイゴンでは、1955年5月12日、ジェム首相は彼の軍総監の職を解き、近衛兵部隊をベトナム国軍に編入しました。1955年5月21日、阮文維は阮宣大佐と共に、国家安全保障の破壊と国家反逆罪で軍事裁判にかけられましたが、その前に二人はフランスへ渡っていました。
5. ベトナム共和国時代における軍および政治活動
1963年のゴ・ディン・ジェム政権打倒後、阮文維はベトナムに帰国し、ベトナム共和国軍の要職を歴任しました。彼は陸軍参謀総長や国防大臣を務め、ベトナム共和国の軍事・政治において重要な役割を果たしました。
5.1. クーデターへの関与と亡命・帰国
1963年のゴ・ディン・ジェム大統領を失脚させ、暗殺に至ったクーデターの後、阮文維はフランスでの亡命生活を終え、他の数名の将校と共にベトナムに帰国しました。しかし、その直後の1964年1月、グエン・カーン将軍がクーデター(「整頓」と称された)を起こすと、彼はズオン・バン・ミン将軍の軍事委員会司令部の一員であったため、チャン・バン・ドン、トン・タット・ディン、レ・バン・キム、マイ・フー・スアンといった他の将軍たちと共に、一時的にダラットで軟禁されました。これは、彼らが中立的な傾向を持つという理由によるものでした。しかし、他のクーデター関与者と同様に、彼はすぐに釈放されました。
5.2. 陸軍参謀総長
阮文維は、ベトナム共和国軍において着実に昇進を重ねました。1964年10月には、グエン・カーン中将が総司令官を務める総司令部事務局長(旧総参謀部事務局長に相当)に任命されました。1965年2月中旬、グエン・カーン将軍が若手将軍たちの圧力により亡命した後、総司令部は総参謀部に改編され、彼はクアンチュン国立訓練センターの司令官に任命されました。
1966年6月には、トン・タット・ディン中将の後任として軍事訓練総局長に転じ、同年11月には軍事訓練総局長をル・ラン少将に引き継ぎ、ブイ・フー・ニョン少将の後任として総参謀部参謀長に任命されました。1967年10月には中将に昇進しました。同年11月24日、彼は参謀長の職務をチャン・タイン・フォン少将に引き継ぎ、同日、政府の内閣に加わり、国防大臣に任命されました。国防大臣は、以前はカオ・バン・ビエン大将が総参謀長と兼任していました。彼はグエン・バン・ロック(1967年)、チャン・バン・フオン(1968年)、チャン・ティエン・キエム(1969年)の各首相の下で国防大臣を務めました。
5.3. 国防大臣
1968年5月25日、グエン・バン・ティエウ大統領は、国防大臣をカオ・バン・ビエンから阮文維に交代させました。国防大臣として、阮文維は南ベトナム軍人のための政府運営年金基金である軍人互助貯蓄基金(Servicemen's Mutual Aid and Savings FundSMASF英語)の管理責任者となりました。1967年2月には、当時の首相であったグエン・カオ・キーによって、軍高官の腐敗を根絶するための委員会の委員に任命されました。
6. 論争と失脚
阮文維のキャリアは、国防大臣在任中に発生した年金基金横領疑惑によって大きく揺らぎました。この疑惑は彼の解任につながり、その後の人生に大きな影響を与えました。
6.1. 年金基金横領疑惑
1971年、阮文維はSMASFから数百万ドルを横領したとされ、それが発覚しました。彼はこの資金を、産業商業銀行、道路・橋梁建設会社であるヴィッコ(Vicco)、運輸会社であるヴィナヴァトコ(Vi-navatco)、保険会社であるイシコ(Icico)、食品加工会社であるフォプロコ(Foproco)などの設立または買収に投資したとされています。この疑惑は、彼の政治的キャリアに大きな打撃を与えました。
6.2. 解任とその後
1972年3月22日、グエン・バン・ティエウ大統領は、SMASFに関連するスキャンダルを理由に、阮文維の側近5人を解任しました。そして、同年8月6日、ティエウ大統領は横領と腐敗の容疑により、阮文維を国防大臣の職から解任しました。彼は自宅軟禁下に置かれ、1973年3月には20年以上軍務に就いたという理由で、グエン・バン・ラー、チャン・ゴック・タム、ゴ・ズー、リン・クアン・ビエンといった他の将軍たちと共に軍を離れることになりました。
7. 1975年以降の状況
サイゴン陥落後の1975年4月30日以降、阮文維は新政府によって再教育キャンプへの出頭を命じられました。しかし、この時すでに彼は重病を患っており、ミンマン大学の寮に担ぎ込まれ、1975年末までそこに監禁されました。その後、彼はサンポール病院に送られ、監視下で治療を受けました。1979年、フランス国防次官であるビエガール大将がハノイを訪問した際、彼の介入により、阮文維は難病の治療のためフランスへ渡ることが許されました。
8. 死去
阮文維の病状はフランスに渡った後も悪化の一途をたどりました。そして、1981年にフランスのベガン軍事教育病院で65歳で死去しました。
9. 勲章・栄典
阮文維は、その軍歴において数々の勲章や栄典を受章しました。
- ベトナム共和国の勲章:
これらの勲章は、阮文維のベトナム共和国軍における功績を称えるものでした。
- フランスの勲章:
- レジオンドヌール勲章シュヴァリエ