1. 初期の生い立ちと背景
グレゴリー・マイケル・ハンセルは、1971年3月12日にアメリカ合衆国カリフォルニア州で生まれた。アメリカ国籍を持つ元プロ野球選手である。
2. 選手としての経歴
グレッグ・ハンセルは、メジャーリーグベースボール(MLB)と日本プロ野球(NPB)で投手として活躍した。MLBでは4球団に所属し、NPBでは阪神タイガースでプレーした。
2.1. メジャーリーグベースボール (MLB) での経歴
ハンセルは、1995年4月28日にロサンゼルス・ドジャースでメジャーリーグデビューを果たした。ドジャースでは1995年にプレーし、その後、1996年にはミネソタ・ツインズ、1997年にはミルウォーキー・ブルワーズ、そして1999年にはピッツバーグ・パイレーツに所属した。メジャーリーグでの最後の試合は1999年10月3日だった。
特に、ロサンゼルス・ドジャースのマイナーリーグ時代には、1994年に「ロサンゼルス・ドジャース マイナーリーグ年間最優秀投手」に選出されるなど、その将来性が高く評価されていた。
2.2. 日本プロ野球 (NPB) での経歴
1999年12月7日、ハンセルはピッツバーグ・パイレーツから阪神タイガースに金銭トレードで移籍し、日本プロ野球でのキャリアをスタートさせた。
2000年シーズン、阪神タイガースに入団したハンセルは、当初はベン・リベラに代わる抑え候補として期待された。しかし、先発投手としての適性が見出され、メジャーリーグでは経験がなかった先発として20試合に登板した。チームはセ・リーグ最下位に沈んだものの、ハンセル自身は規定投球回には到達しなかったものの、7勝8敗を記録し、川尻哲郎に次ぐチーム2番目の好成績を挙げた。
2年目の2001年シーズンには開幕から先発ローテーションに加わり、27試合に登板した。この年は規定投球回に到達し、防御率はリーグ9位の3.49を記録したが、打線の援護に恵まれず5勝13敗となり、このシーズンのリーグ最多敗戦を記録してしまった。
3年目の2002年シーズンは、開幕間もなくヘルニアが悪化し戦線離脱を余儀なくされた。帰国して6月に内視鏡手術を受けた後、驚異的な回復力を見せ、シーズン後半には再来日を果たして阪神への残留を強くアピールした。しかし、当時の星野仙一監督の戦力構想から外れ、このシーズン限りで阪神を退団することとなった。
2.3. MLB復帰への挑戦
阪神タイガース退団後も、ハンセルは日本でのプレーを希望し、実際に日本の複数の球団から獲得のオファーがあった。特に中日ドラゴンズが彼に強い興味を示していたと言われている。しかし、その後阪神がストッパーとして活躍したマーク・バルデスを放出したため、中日は獲得対象をハンセルからバルデスに変更した。
結局、ハンセルの日本でのプレーの希望は叶わず、2003年にはニューヨーク・ヤンキースやアリゾナ・ダイヤモンドバックスのマイナーリーグに所属した。その後、メキシコのリーグなどでプレーし、メジャーリーグへの復帰を目指したが、その夢は叶わず現役を引退した。
3. 選手引退後の活動
プロ野球選手としてのキャリアを終えた後、グレッグ・ハンセルは野球界に留まり、スカウトとして活動する一方で、個人的な関心事も追求した。
3.1. スカウトとしての経歴
2006年には東北楽天ゴールデンイーグルスの在米スカウトに就任した。当時の野村克也監督は、阪神時代のハンセルを「近鉄のいてまえ打線がバックなら20勝」と高く評価していたと伝えられている。
その後、2017年時点では横浜DeNAベイスターズの在米スカウトとして活動していた。
3.2. 個人的な活動と関心事
ハンセルは、パソコンやインターネットに深い造詣があることでも知られている。来日する前の現役時代から、attheyard.comというスポーツグッズ販売会社のウェブサイトに定期的にブログを掲載しており、ファンがメールを送れるようにしていたという。
4. 詳細な記録と情報
グレッグ・ハンセルの選手としての具体的な記録や統計情報を以下に示す。
4.1. 年度別投手成績
年 度 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995 | LAD | 20 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 93 | 19.1 | 29 | 5 | 6 | 1 | 2 | 13 | 0 | 0 | 17 | 16 | 7.45 | 1.81 |
1996 | MIN | 50 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 3 | -- | 1.000 | 329 | 74.1 | 83 | 14 | 31 | 1 | 2 | 46 | 9 | 1 | 48 | 47 | 5.69 | 1.53 |
1997 | MIL | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 21 | 4.2 | 5 | 1 | 1 | 0 | 1 | 5 | 0 | 0 | 5 | 5 | 9.64 | 1.29 |
1999 | PIT | 33 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | 4 | .250 | 168 | 39.1 | 42 | 5 | 11 | 3 | 3 | 34 | 2 | 0 | 20 | 17 | 3.89 | 1.35 |
2000 | 阪神 | 20 | 20 | 0 | 0 | 0 | 7 | 8 | 0 | -- | .467 | 497 | 114.0 | 108 | 10 | 52 | 2 | 6 | 97 | 4 | 0 | 59 | 55 | 4.34 | 1.40 |
2001 | 27 | 26 | 0 | 0 | 0 | 5 | 13 | 0 | -- | .278 | 700 | 162.1 | 145 | 14 | 75 | 1 | 8 | 123 | 6 | 0 | 71 | 63 | 3.49 | 1.36 | |
2002 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 19 | 4.2 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 1 | 1 | 1.93 | 1.07 | |
MLB:4年 | 106 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 4 | 3 | 4 | .500 | 611 | 137.2 | 159 | 25 | 49 | 5 | 8 | 98 | 11 | 1 | 90 | 85 | 5.56 | 1.51 | |
NPB:3年 | 52 | 46 | 0 | 0 | 0 | 12 | 21 | 0 | -- | .364 | 1216 | 281.0 | 257 | 24 | 128 | 3 | 14 | 222 | 11 | 0 | 131 | 119 | 3.81 | 1.37 |
4.2. 主な記録
グレッグ・ハンセルが日本プロ野球(NPB)で達成した主な記録は以下の通りである。
; NPB投手記録
- 初登板・初先発登板:2000年4月2日、対横浜ベイスターズ3回戦(横浜スタジアム)、4回6失点で敗戦投手
- 初勝利・初先発勝利:2000年4月8日、対広島東洋カープ2回戦(広島市民球場)、6回2/3を4失点
- 初奪三振:同上、2回裏に西山秀二から空振り三振
; NPB打撃記録
- 初安打・初打点:同上、4回表に紀藤真琴から遊撃2点適時内野安打
4.3. 背番号
ハンセルが選手時代に着用した背番号は以下の通りである。
- 52 (1995年)
- 19 (1996年)
- 53 (1997年)
- 57 (1999年)
- 49 (2000年)
- 14 (2001年)
- 42 (2002年)
5. 評価と影響
グレッグ・ハンセルは、選手としてのキャリアを通じて、特に日本プロ野球での活躍や、その後のスカウトとしての活動で評価された。
5.1. 専門家による評価
阪神タイガースの監督を務めた野村克也は、ハンセルを高く評価しており、彼が阪神に在籍していた当時、「近鉄のいてまえ打線がバックなら20勝」と発言したとされる。これは、ハンセルの投球能力が、打線の援護があればさらに多くの勝利を挙げられたであろうという、彼の潜在能力と実力に対する野村監督の信頼を示している。