1. 概要
サギド・ムルタザリエフは、1974年3月11日に旧ソビエト連邦ダゲスタン自治ソビエト社会主義共和国(現在のロシアダゲスタン共和国)のマハチカラで生まれた、アヴァール人のフリースタイルレスリング選手であり政治家である。彼は、1999年世界レスリング選手権と2000年シドニーオリンピックでそれぞれ金メダルを獲得し、輝かしいレスリングキャリアを築いた。
スポーツ界引退後は政治の道に進み、ダゲスタン共和国内の要職を歴任したが、2015年にはテロ資金供与および複数の殺人容疑で刑事告発され、ロシア国外へ逃亡し、現在も指名手配されている。また、2013年にはレスリングがオリンピックの正式種目から一時的に除外されたことに抗議し、オリンピック金メダルを返還するという行動に出たことでも知られる。彼の生涯は、スポーツにおける偉大な功績と、その後の政治活動における論争、そして深刻な法的問題が複雑に絡み合ったものである。
2. 幼少期と背景
サギド・ムルタザリエフは1974年3月11日、旧ソビエト連邦ダゲスタン自治ソビエト社会主義共和国(現在のロシアダゲスタン共和国)のマハチカラで生まれた。彼はアヴァール人の民族的背景を持つ。
3. レスリング選手としてのキャリア
サギド・ムルタザリエフは、フリースタイルレスリング選手として国際的に成功を収めた。そのキャリアを通じて、彼は数々の主要な大会でメダルを獲得し、特にヘビー級での活躍が目覚ましかった。
3.1. 主要な実績
ムルタザリエフは、1999年世界レスリング選手権(トルコ、アンカラ開催)の97 kg級で金メダルを獲得した。翌年の2000年シドニーオリンピックでは、フリースタイル97kg級において金メダルに輝いた。
また、ヨーロッパ選手権でもその実力を示し、2000年には優勝を達成。それ以前の1995年と1996年には、それぞれ3位に入賞している。
3.2. オリンピックでの経歴
ムルタザリエフは、2度のオリンピックに出場している。最初の出場は1996年アトランタオリンピックで、この時はウクライナ代表として出場した。その後、2000年シドニーオリンピックではロシア代表として出場し、男子フリースタイル97kg級で金メダルを獲得するという輝かしい成績を収めた。
3.3. メダル返還抗議
2013年、IOCがレスリングを夏季オリンピックの正式種目から一時的に除外する投票を行った際、ムルタザリエフはこの決定に抗議の意を示すため、獲得したオリンピック金メダルをIOCに返還した。この行動は、レスリング界内外に大きな波紋を広げた。
4. 政治活動
レスリング選手として成功を収めた後、サギド・ムルタザリエフは政治の世界に転身し、主にダゲスタン共和国の公共行政分野で様々な役職を歴任した。
4.1. 公的生活への進出
2001年、ムルタザリエフの自宅近くのキズリャルで爆弾が発見される事件が発生し、彼の名が公に報じられるきっかけの一つとなった。この事件の後、2007年には彼自身の名を冠した慈善財団が設立され、ダゲスタン共和国のキズリャルスキー地区におけるスポーツ振興に尽力することを目的とした活動を開始した。
4.2. 行政および立法における役割
ムルタザリエフは、キズリャルスキー地区の首長を務めた。その後、2010年4月12日にはロシア年金基金のダゲスタン共和国支部の首長に就任した。さらに2011年4月18日には、統一ロシア党に所属するダゲスタン共和国立法府の議員として、政治的な影響力を拡大した。
5. 私生活
サギド・ムルタザリエフは結婚しており、5人の子供がいる。
6. 刑事告発と亡命
2015年、ムルタザリエフは深刻な法的問題に直面した。ロシアの検察当局は、彼をテロ資金供与および複数の殺人事件への関与の容疑で刑事告発し、捜査を開始した。これらの容疑は、彼の公的な役割と関連付けられ、特に重大なものと見なされた。
刑事告発後、ムルタザリエフはロシアを離れ、その後、ロシア検察当局によって指名手配された。現在もロシア国外に滞在しており、当局による捜査が続いている。
7. 評価と影響
サギド・ムルタザリエフの生涯は、スポーツ界における輝かしい成功と、政治家としてのキャリアにおける物議を醸す行動、そしてその後の深刻な法的問題によって特徴づけられる。レスリング選手としては、オリンピックと世界選手権の双方で金メダルを獲得するという偉業を達成し、ロシアおよび世界のレスリング史にその名を刻んだ。特に、2013年のレスリングのオリンピック種目一時除外に対するメダル返還抗議は、スポーツに対する彼の情熱と決意を示す象徴的な行為として記憶されている。
しかし、彼の公人としての評価は、その後の政治活動と刑事告発によって大きく変化した。ダゲスタン共和国の要職を歴任し、地域社会に貢献しようとした一方で、テロ資金供与や殺人といった重大な容疑がかけられたことで、世間の認識は複雑なものとなった。彼の人生は、スポーツ英雄から政治家、そして指名手配犯へと転じるという劇的な軌跡をたどり、その功績と論争の双方から多角的に評価されるべき人物である。