1. 生い立ちと教育
マーリーズ卿の幼少期から大学院での研究に至るまでの学問的背景は、彼の後の経済学における画期的な業績の基礎を築いた。
1.1. 出身地と幼少期
ジェームズ・アレクサンダー・マーリーズは、1936年7月5日にスコットランドのカークカブライツシャー州のミニガフで生まれた。彼はダグラス・エワート高校で教育を受けた。
1.2. 学歴
1957年、エディンバラ大学で数学と自然哲学の修士号(MA)を取得した。その後、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに進学し、ケンブリッジ数学トライポスを修めた。1963年には「動的経済の最適計画(Optimum Planning for a Dynamic Economy)」と題された論文で博士号を取得し、リチャード・ストーンの指導を受けた。彼は学生時代に非常に活発な討論者として知られ、同時代のクエンティン・スキナーは、マーリーズがノーベル賞受賞者のアマルティア・センと共にケンブリッジ使徒会のメンバーであった可能性を示唆している。
2. 学術的経歴と所属
マーリーズ卿の学術的キャリアは、複数の著名な大学での教鞭と、重要な役職の歴任によって特徴づけられる。
2.1. 大学での教鞭
マーリーズは、1963年から1968年までケンブリッジ大学で教鞭を執り、その後1995年から2018年まで再び同大学で教えた。その間、1968年から1995年まではオックスフォード大学のエッジワース経済学教授を務めた。また、マサチューセッツ工科大学(MIT)で1968年から1976年の間に3度客員教授を務めたほか、1986年にはカリフォルニア大学バークレー校、1989年にはイェール大学でも客員教授として教えた。晩年には、オーストラリアのメルボルン大学で毎年数ヶ月を過ごし、香港中文大学の特別教授(Distinguished Professor-at-Large)やマカオ大学の教授も務めた。
2.2. 主要な役職
彼はケンブリッジ大学の政治経済学名誉教授であり、トリニティ・カレッジのフェローでもあった。2009年には、香港中文大学の晨興書院(モーニングサイド・カレッジ)の初代院長に任命された。また、スコットランドの経済諮問評議会のメンバーを務め、財政学研究所(Institute for Fiscal Studies)によるイギリスの税制に関する包括的な検証である「マーリーズ・レビュー」を主導した。1982年には計量経済学会の会長を務めた。
3. 経済学上の業績と理論
マーリーズ卿の経済学における主要な貢献は、情報の非対称性という概念を経済分析に深く統合した点にある。
3.1. 情報の非対称性に関する理論
マーリーズのノーベル賞受賞の根拠となった研究は、情報の非対称性、すなわち経済主体が異なる情報を持つ状況下でのインセンティブの経済理論に関するものである。彼は、経済情報が非対称で不完全な状況において、それが経済における最適な貯蓄率にどの程度影響を与えるかを決定する経済モデルを開発した。この研究は、経済的インセンティブ構造を理解するための標準的な方法論を確立した。
3.2. 最適所得税理論
彼は最適所得税理論に顕著な貢献をした。この理論は、税制が効率性と公平性の両方をどのように達成すべきかを考察するものである。彼の研究は、ウィリアム・ヴィックリーの著書で議論されたように、最適な所得税率を導き出す原則を明らかにした。
3.3. モラルハザード
マーリーズは、経済的インセンティブ構造における「モラルハザード」の原則を実証した。これは、情報が非対称な状況において、一方の当事者が他方の当事者の行動を完全に観察できないために生じる問題である。
3.4. ダイヤモンド・マーリーズ効率性定理
1971年には、マサチューセッツ工科大学のピーター・A・ダイアモンド教授と共に「ダイヤモンド・マーリーズ効率性定理」を開発した。この定理は、公共部門が生産効率を達成すべき条件を特定し、最適な税制設計に関する重要な洞察を提供するものである。
3.5. マーリーズ・レビュー
マーリーズ卿は、財政学研究所が実施したイギリスの税制に関する包括的なレビューである「マーリーズ・レビュー」のリーダーを務めた。このレビューは、税制の公平性、効率性、簡素化、安定性といった観点から、英国の税制を徹底的に検証し、社会政策や公平性に対する重要な示唆を与えた。
3.6. スペンス・マーリーズの一階交差条件
「スペンス・マーリーズの一階交差条件」とは、異なる個人のタイプ同士では無差別曲線や等利潤曲線が一回しか交わらないという性質を指す。これは、インセンティブ整合性を考える上で利用しやすい性質である。
4. 受賞歴と栄誉
マーリーズ卿は、その傑出した学術的功績に対して、数々の重要な賞と栄誉を受けた。
4.1. ノーベル経済学賞
1996年、マーリーズはウィリアム・ヴィックリーと共にノーベル経済学賞を共同受賞した。受賞理由は「情報の非対称性のもとでの経済的誘因の理論に対する基礎的な貢献」であった。彼の研究は、経済主体間の情報格差が経済的意思決定や政策設計にどのように影響するかを理解する上で、画期的な進歩をもたらした。
4.2. ナイト爵位
1997年には、英国政府からナイト爵位を授与された。これは、彼の経済学への多大な貢献と学術的業績が国家レベルで認められたことを意味する。
4.3. 名誉学位
2011年6月29日、マーリーズは関西学院大学より名誉学位を授与された。
5. 著書と論文
マーリーズ卿の広範な学術的貢献は、多数の著書や論文を通じて発表されている。
5.1. 主要な論文
彼の中心的な研究分野である最適所得税や情報の非対称性を扱った代表的な論文には、以下のようなものがある。
- "An Exploration in the Theory of Optimum Income Taxation" (Review of Economic Studies, 1971年)
- "Optimal Taxation and Public Production I: Production Efficiency" (with P.A. Diamond, American Economic Review, 1971年)
- "Optimal Taxation and Public Production II: Tax Rules" (with P.A. Diamond, American Economic Review, 1971年)
- "The Optimal Structure of Incentives and Authority within an Organization" (Bell Journal of Economics and Management Science, 1976年)
- "Optimal Tax Theory: A Synthesis" (Journal of Public Economics, 1976年12月)
5.2. 共著・共編著
彼は他の学者と協力して、以下の主要な共著書や共編著書を出版している。
- Manual of Industrial Project Analysis in Developing Countries, Vol II: Social Cost Benefit Analysis (with I.M.D. Little, 1969年)
- Models of Economic Growth: Proceedings of a Conference held by the International Economic Association at Jerusalem (co-edited with N.H. Stern, 1973年)
- Project Appraisal and Planning for Developing Countries (with I.M.D. Little, 1974年)
- Welfare, Incentives, and Taxation (単著, 2006年)
- Tax by Design: the Mirrlees Review (J. Mirrlees, S. Adam, T. Besley, R. Blundell, S. Bond, R. Chote, M. Gammie, P. Johnson, G. Myles and J. Poterba, 2011年9月)
6. 人生
マーリーズ卿は、その学術的な功績だけでなく、個人的な信条についても知られている。
6.1. 信条
マーリーズは無神論者であった。
7. 死去
サー・ジェームズ・アレクサンダー・マーリーズは、2018年8月29日にイングランドのケンブリッジで死去した。82歳であった。
8. 遺産と影響力
マーリーズ卿の経済学への貢献は、現代の経済学理論と政策立案に永続的な影響を与え続けている。
8.1. 経済学への貢献
彼の情報の非対称性、最適所得税理論、モラルハザードに関する研究は、経済学の多くの分野における分析の基礎となり、その手法は現在では標準的なものとなっている。彼の理論は、公共政策、特に税制や社会保障制度の設計において、効率性と公平性を両立させるための重要な指針を提供した。
8.2. 指導した学生
マーリーズは多くの著名な経済学者や政策立案者を指導した。彼の博士課程の学生には、フランクリン・アレン教授、パルタ・ダスグプタ卿、ヒュー・ディクソン教授、ニコラス・スターン卿、アンソニー・ヴェナブルズ教授、ジョン・ヴィッカーズ卿、張維迎教授などがいる。彼らの活躍は、マーリーズの教育者としての影響力の大きさを物語っている。