1. 幼少期・学生時代
ジム・パチョレックは、ミシガン州デトロイトに生まれ育ち、学生時代から野球とアメリカンフットボールの両方で優れた才能を発揮した。大学ではアメリカ合衆国代表として国際大会に出場し、アマチュア野球のキャリアを積んだ。
1.1. 出生と成長期
ジム・パチョレックは1960年6月7日にアメリカ合衆国ミシガン州デトロイトで生まれた。
1.2. 学生時代のスポーツ活動
セントメアリーズ・プレパラトリー高校を卒業後、ミシガン大学に進学し、野球とアメリカンフットボールの両方でチームのレギュラーとして活躍した。元々アメリカンフットボールでの奨学金を得て大学に入学した経緯があり、その恵まれた体格と高い運動能力は両競技で遺憾なく発揮された。
1980年には、大学野球のサマーリーグであるケープコッド野球リーグのファルマス・コモドアーズでプレーした。1981年には、大学在学中にもかかわらず、第10回日米大学野球選手権大会とワールドゲームズ1981(サンタクララで開催)のアメリカ合衆国代表に選出され、ワールドゲームズでは金メダルを獲得している。日米大学野球選手権では、後にNFLのスーパースターとなるジョン・エルウェイが4番打者を務めていたが、彼が不振に陥ると、終盤にはパチョレックがその打順を引き継いだ。
1981年のMLBドラフトでは14巡目(全体350位)でクリーブランド・インディアンスから指名を受けたが、この時は契約を見送った。翌1982年のMLBドラフトで8巡目(全体209位)でミルウォーキー・ブルワーズから指名を受け、プロ入りを決めた。大学時代に日米大学野球で日本を訪れて以来、日本でのプレーを希望するようになったという。また、ブルワーズと契約した1982年にはビッグ・テン・カンファレンスの最優秀野球選手に選ばれている。
2. プロ野球経歴
ジム・パチョレックのプロ野球キャリアは、メジャーリーグでの短期間の経験から始まり、その後、日本プロ野球で輝かしい成功を収めた。引退後もスカウトや指導者として野球に関わり続けている。
2.1. メジャーリーグベースボール (MLB) 時代
ミルウォーキー・ブルワーズと契約後、パチョレックは主にマイナーリーグで経験を積んだ。マイナーリーグ時代は長打力よりも確実性を重視する打者として評価されており、シーズン最多本塁打はAA級エルパソ・ディアブロス時代の9本塁打だった。
1987年にはAAA級バンクーバー・カナディアンズで自己最高の成績を記録していたため、初めてメジャーリーグに昇格した。同年4月9日にミルウォーキー・ブルワーズでメジャーデビューを果たし、主に一塁手や三塁手として48試合に出場した。特に4月15日のボルチモア・オリオールズ戦では、初めて先発出場(左翼手)し、この試合でフアン・ニエベスがブルワーズ球団史上初のノーヒットノーランを達成する際、パチョレックもロブ・ディアーの代役として守備でファインプレーを見せ、快挙達成に貢献した。メジャーでの最終出場は同年9月23日だった。MLBでの通算成績は、打率.228、2本塁打、10打点であった。
2.2. 日本プロ野球 (NPB) 時代
メジャーリーグでの経験を経て、パチョレックは日本でのプレーを熱望し、日本のプロ野球に活躍の場を移した。横浜大洋ホエールズと阪神タイガースの2球団に在籍し、卓越した打撃とファンを大切にする姿勢で日本のファンから絶大な支持を得た。

2.2.1. 横浜大洋ホエールズ時代
1988年、学生時代に日本を訪れた経験から、横浜DeNAベイスターズの前身である横浜大洋ホエールズに入団した。同年はリーグ2位の打率.332、リーグ最多の165安打という好成績を記録し、外野手としてセントラル・リーグのベストナインに選出された。そのおとなしい性格と真面目な態度、そして確実性のある打撃スタイルから、たちまちファンの人気を得た。その後も、4番打者カルロス・ポンセの後を打つ5番打者として、毎年安定した結果を残し、翌1989年にも打率リーグ2位を記録した。
1990年には念願の首位打者のタイトルを獲得し、リーグ最多の172安打も記録した。1991年は前半戦で不振に陥ったものの、9月には月間打率.500(80打数40安打)という驚異的な記録を樹立した。しかし、最終的にはそれまでの3年間を下回る成績に終わり、大洋のフロント陣からは「ホームランが少ない」と指摘され、ラリー・シーツの獲得が既に決定していたこともあり、この年限りで契約を打ち切られることになった。それでも、この年には最多勝利打点(特別賞)のタイトルを獲得している。大洋時代には、彼の応援歌に映画『大脱走』のテーマソングが使われ、その歌詞に登場する「パッキー」という愛称でファンに親しまれた。
2.2.2. 阪神タイガース時代
大洋を退団後、1992年からは友人のトーマス・オマリーの誘いもあり、同じセントラル・リーグの阪神タイガースに移籍した。この年、本拠地阪神甲子園球場からラッキーゾーンが撤去され、チームの守備力が向上した阪神は、優勝は逃したものの、1986年以来のAクラス入りを果たした。パチョレックは当初3番打者を任されたが、シーズン後半には故障で戦列を離れたオマリーに代わって4番を打つ機会が増えた。
この年、前球団から指摘された本塁打数は自己最多の22本と大幅に増加した。加えて、リーグ最多となる159安打、そして14勝利打点を記録し、チームの期待に応えた。これらの活躍により、ベストナインとゴールデングラブ賞の一塁手部門に選出された。
1993年は、外国人選手を3名以上出場選手登録できないという規定がチームにとって大きな課題となった。パチョレック、郭李建夫、オマリーのいずれかがベンチに回らざるを得ない状況が生じ、マスコミはこれを当時国際問題となっていた国連平和維持活動(PKOピーケーオー英語)のニュースにちなみ、3人の姓の頭文字(Paciorek, Kuo, O'Malley)を取って「(阪神)PKO問題」と報じた。当初は実績のあるパチョレックとオマリーが出場していたが、郭李の台頭と、トレードで加入した松永浩美が三塁を守ることになったため、前年三塁を守っていたオマリーが再び一塁に、そしてパチョレックが左翼手にコンバートされることになった。
シーズン開幕前から微熱が続いていたことに加え、外野守備の負担から腰痛を発症し、出場機会が減少。最終的には出場選手登録枠を郭李に譲って二軍に降格した。これによりシーズン中に現役引退を表明し、帰国した。この年は、日本でのキャリアで初めて打率.300を下回り、7本塁打、打率.243に終わった。
パチョレックは、お立ち台で関西弁を駆使して人気を集めたオマリーとは異なり、自身の言葉でファンへの感謝を伝えることで知られていた。彼は「阪神ファンは10番目の野手」と表現し、ファンの持つ大きな力に感謝の意を示していた。また、不振に苦しんだ1993年にもファン投票でオールスターゲームに選出されたことに深く感激していたという。
2.3. 引退後の活動
プロ野球引退後、パチョレックは阪神タイガースのアメリカ合衆国在住スカウトを1年間務めた後、母校の高校で野球部のコーチを務めた。
2004年4月6日、横浜市と外務省が中心となって進めていた「日米交流150年」記念セレモニーの一環として、横浜スタジアムで行われた古巣・横浜対阪神のホーム開幕戦(横浜主催試合)の始球式を務めるため、11年ぶりに来日した。この際、「僕は両チームとも在籍したからどちらを応援するとはいえないけど、あえて言うなら今日はクジラ(大洋の意味)を応援しようかな」という言葉を残し、ファンに温かいメッセージを届けた。彼は、日本の野球、特に両球団への貢献が旧来のファンによって記憶されており、熱狂的な歓迎を受けた。
3. 家族
パチョレック家は、ジムを含め3兄弟がMLBでプレーしたという珍しい野球一家である。
長兄のジョン・パチョレックは1963年にヒューストン・コルト45's(現在のヒューストン・アストロズ)でわずか1試合に出場したものの、3打数3安打3打点2四球4得点を記録し、「生涯打率10割の選手で最多安打」というユニークなMLB記録を残している。
次兄のトム・パチョレックは1970年から1987年にかけてロサンゼルス・ドジャースを皮切りに6球団でプレーし、1392試合に出場、1162安打、86本塁打、打率.282という実績を残した。ジムが1987年4月9日にミルウォーキー・ブルワーズの一員としてMLBデビューした際、2試合目となる同年4月12日のテキサス・レンジャーズ戦では、10回表に当時レンジャーズ所属のトムが一塁手として出場し、その後の11回裏にはジムもブルワーズの一塁守備についたため、MLBにおいて兄弟が異なるチームで同時にプレーするという珍しい出来事が実現した。
ジムの息子であるジョーイ・パチョレックもまた野球選手として活動した。2007年6月に行われたMLBドラフトでは、ジムもかつて在籍したミルウォーキー・ブルワーズから15巡目(全体461位)で指名された。ジョーイはマイナーリーグで378試合に出場したが、2014年に現役を引退した。
4. 獲得タイトルと表彰
ジム・パチョレックは、日本プロ野球での輝かしいキャリアを通じて、数々の個人タイトルや表彰を獲得し、その打撃と守備の両面で高い評価を受けた。
4.1. タイトル
- 首位打者:1回 (1990年)
- 最多安打:3回(1988年、1990年、1992年)
- ※当時連盟表彰なし、1994年より公式表彰
- 最多勝利打点:2回 (1991年、1992年)
- ※特別賞
4.2. 表彰
- ベストナイン:3回 (1988年、1990年、1992年)
- ゴールデングラブ賞:1回 (1992年)
- 月間MVP:3回 (1988年7月、1990年8月、1991年9月)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回 (1992年)
- 優秀JCB・MEP賞:1回 (1990年)
4.3. NPBでの主な記録
- 初出場・初先発出場:1988年4月8日、対中日ドラゴンズ1回戦(ナゴヤ球場)、6番・左翼手として先発出場
- 初安打・初本塁打・初打点:上記と同じ試合、4回表に小松辰雄から左越ソロ
- 一塁手イニング最多補殺:3回 (1992年7月30日、対読売ジャイアンツ20回戦、阪神甲子園球場)
- ※セントラル・リーグ記録
- 月間打率(30打席以上):.500(80打数40安打) (1991年9月度)
- ※セントラル・リーグ記録
- オールスターゲーム出場:2回 (1992年、1993年)
5. 経歴統計
ジム・パチョレックのメジャーリーグと日本プロ野球における年度別の詳細な打撃成績、使用した背番号、そして国際大会での代表歴を以下に示す。
5.1. 年度別打撃成績
年 度 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1987 | MIL | 48 | 116 | 101 | 16 | 23 | 5 | 0 | 2 | 34 | 10 | 1 | 0 | 0 | 3 | 12 | 0 | 0 | 20 | 3 | .228 | .302 | .337 | .638 |
1988 | 大洋 | 130 | 537 | 497 | 58 | 165 | 33 | 2 | 17 | 253 | 76 | 6 | 4 | 1 | 4 | 30 | 5 | 5 | 59 | 16 | .332 | .373 | .509 | .882 |
1989 | 118 | 473 | 435 | 48 | 145 | 32 | 3 | 12 | 219 | 62 | 2 | 3 | 2 | 2 | 33 | 4 | 1 | 45 | 9 | .333 | .380 | .503 | .885 | |
1990 | 133 | 562 | 527 | 78 | 172 | 36 | 3 | 17 | 265 | 94 | 3 | 2 | 0 | 4 | 26 | 5 | 5 | 47 | 14 | .326 | .361 | .503 | .864 | |
1991 | 114 | 487 | 442 | 52 | 137 | 23 | 1 | 11 | 195 | 75 | 0 | 4 | 0 | 10 | 31 | 9 | 4 | 49 | 15 | .310 | .353 | .441 | .794 | |
1992 | 阪神 | 129 | 562 | 512 | 73 | 159 | 33 | 0 | 22 | 258 | 88 | 0 | 2 | 0 | 6 | 40 | 1 | 4 | 73 | 18 | .311 | .361 | .504 | .865 |
1993 | 74 | 297 | 263 | 24 | 64 | 12 | 1 | 7 | 99 | 36 | 1 | 1 | 0 | 2 | 32 | 0 | 0 | 45 | 13 | .243 | .323 | .376 | .700 | |
MLB:1年 | 48 | 116 | 101 | 16 | 23 | 5 | 0 | 2 | 34 | 10 | 1 | 0 | 0 | 3 | 12 | 0 | 0 | 20 | 3 | .228 | .302 | .337 | .638 | |
NPB:6年 | 698 | 2918 | 2676 | 333 | 842 | 169 | 10 | 86 | 1289 | 431 | 12 | 16 | 3 | 28 | 192 | 24 | 19 | 318 | 85 | .315 | .361 | .482 | .843 |
- 各年度の太字はリーグ最高
5.2. 背番号
- 14 (1987年 - 1991年)
- 42 (1992年 - 1993年)