1. 概要
ジェームズ・フレデリック・ボーキー(James Frederick Boekeジェームズ・フレデリック・ボーキー英語、1938年9月11日 - 2014年9月26日)は、アメリカ合衆国オハイオ州アクロン生まれのアメリカンフットボール選手、および俳優である。NFLにおいて、ロサンゼルス・ラムズ(Los Angeles Ramsロサンゼルス・ラムズ英語)、ダラス・カウボーイズ(Dallas Cowboysダラス・カウボーイズ英語)、ニューオーリンズ・セインツ(New Orleans Saintsニューオーリンズ・セインツ英語)、デトロイト・ライオンズ(Detroit Lionsデトロイト・ライオンズ英語)、ワシントン・レッドスキンズ(Washington Redskinsワシントン・レッドスキンズ英語)でオフェンシブタックルとしてプレーした。
選手引退後は、映画やテレビドラマに数多く出演する俳優として活躍する傍ら、体育教師や英語教師、高校のフットボールコーチとしても活動した。また、歌手のリッキー・ネルソンのボディーガードを務めた経験も持つ。彼は2014年9月26日、カリフォルニア州ファウンテンバレーで急性白血病により76歳で亡くなった。その功績が認められ、ハイデルバーグ大学体育殿堂とサミット郡スポーツ殿堂に殿堂入りを果たしている。
2. 幼少期と大学時代
ジム・ボーキーは1938年9月11日、オハイオ州アクロンで生まれた。彼はクヤホガ・フォールズ・ハイスクール(Cuyahoga Falls High Schoolクヤホガ・フォールズ・ハイスクール英語)に通い、そこでアメリカンフットボールと陸上競技に取り組んだ。
高校卒業後、ハイデルバーグ大学(Heidelberg Collegeハイデルバーグ大学英語)からフットボールの奨学金を得て進学。大学では攻守両面をこなすタックルとして活躍し、陸上競技でも「レターマン」(優秀選手)に選ばれた。彼の大学でのフットボールにおける功績は高く評価されており、1985年にはハイデルバーグ大学体育殿堂の創立メンバーとして殿堂入りしている。また、2008年にはサミット郡スポーツ殿堂にも選出された。
3. プロフットボール選手としての経歴
ボーキーは大学卒業後、NFLの選手として数々のチームを渡り歩き、プロのオフェンシブタックルとして活躍した。
3.1. ロサンゼルス・ラムズ時代
ボーキーは1960年のNFLドラフトにおいて、ロサンゼルス・ラムズ(Los Angeles Ramsロサンゼルス・ラムズ英語)から19巡目全体217位で指名された。ラムズでは当初、バックアップのオフェンシブタックルとしてプレーした。1963年シーズンには、ディフェンシブタックルとしてもプレーし、攻守両面での貢献を見せた。
1964年8月19日、彼はルーキーのランニングバックであるレス・ジョセフソンとのトレードでダラス・カウボーイズへと移籍した。
3.2. ダラス・カウボーイズ時代
1964年にダラス・カウボーイズ(Dallas Cowboysダラス・カウボーイズ英語)に加入したボーキーは、チームのオフェンシブラインの選手層強化に貢献した。この時期、チームは負傷者が続出しており、ボーキーはその穴を埋める存在として期待された。彼は7試合に先発出場し、そのうち4試合では負傷者リスト入りしていたトニー・リッシオに代わりレフトタックルとして先発した。
翌年には、リッシオが右膝の負傷から復帰できなかったため、ボーキーはレフトタックルのレギュラー選手となった。1966年シーズンには10試合に先発したが、自身も膝を負傷し、最終的にはリッシオにポジションを譲った。
彼の最も有名なプレーは、1966年のNFLチャンピオンシップゲーム(後の第1回スーパーボウルの前身にあたるAFL-NFLチャンピオンシップゲームで、グリーンベイ・パッカーズがカンザスシティ・チーフスを破った試合)終盤に起こった。この試合でパッカーズにタッチダウン差でリードされていたカウボーイズは、パッカーズの2ヤードラインでファーストダウンを獲得したが、ボーキーのフォルススタートによる反則があった。この反則により、カウボーイズは得点に失敗し、最終的にドン・メレディスが4thダウンでインターセプトを喫して試合に敗れた。
ボーキーは1960年から1966年まで、92試合連続出場という記録を達成した。しかし、1967年シーズンには先発の座を取り戻すことができず、リッシオのバックアップを務めた。カウボーイズでの彼の最後の試合は、「アイスボウル」として知られる1967年のNFLチャンピオンシップゲームであった。
1968年8月28日、ボーキーはラインバッカーのジャッキー・バーケットとのトレードでニューオーリンズ・セインツへ移籍した。
3.3. ニューオーリンズ・セインツ時代
ニューオーリンズ・セインツ(New Orleans Saintsニューオーリンズ・セインツ英語)に移籍したボーキーは、1968年シーズン中に13試合に出場した。しかし、短い期間でチームを去ることになり、1969年7月28日にはドラフト指名権とのトレードでデトロイト・ライオンズへ移籍した。
3.4. デトロイト・ライオンズ時代
デトロイト・ライオンズ(Detroit Lionsデトロイト・ライオンズ英語)は、チャーリー・ブラッドショーの引退により空席となったライトタックルのポジションを争わせるためにボーキーを獲得した。しかし、1969年7月28日には、ドラフト指名権とのトレードでワシントン・レッドスキンズへ再び移籍した。
3.5. ワシントン・レッドスキンズ時代
1969年9月5日、ボーキーはワシントン・レッドスキンズ(Washington Redskinsワシントン・レッドスキンズ英語)と契約を結んだ。しかし、このチームでの活動期間は短く、9月16日にはリリースされることになった。
4. 俳優としての経歴
アメリカンフットボール選手を引退した後、ジム・ボーキーはハリウッドでのコネクションを活かし、数多くの映画やテレビドラマに端役として出演する俳優に転身した。
4.1. 映画出演作
ボーキーが出演した主な映画作品は以下の通りである。
年 | タイトル | 役柄 | 備考 |
---|---|---|---|
1971 | 『ホット・フレンドシップ』 (Hot Friendshipホット・フレンドシップ英語) | ||
1978 | 『天国から来たチャンピオン』 (Heaven Can Wait天国から来たチャンピオン英語) | カワルスキー | |
1979 | 『ノース・ダラス・フォーティ』 (North Dallas Fortyノース・ダラス・フォーティ英語) | スタリングス | |
1980 | 『アリゲーター』 (Alligatorアリゲーター英語) | シャムスキー | |
1981 | 『アンダー・ザ・レインボー』 (Under the Rainbowアンダー・ザ・レインボー英語) | ハングマン | |
1981 | 『Escape from DS-3エスケープ・フロム・DS-3英語』 | ||
1982 | 『パンデモニウム』 (Pandemoniumパンデモニウム英語) | フレッチャー | |
1984 | 『フィアー・シティ』 (Fear Cityフィアー・シティ英語) | アーキテクト | |
1986 | 『キリマンジャロの影』 (In the Shadow of Kilimanjaroキリマンジャロの影英語) | ギャグノン | |
1987 | 『キンレッド』 (The Kindredキンレッド英語) | ジャクソン | |
1987 | 『LBJ:ザ・アーリーイヤーズ』 (LBJ: The Early YearsLBJ:ザ・アーリーイヤーズ英語) | ||
1987 | 『ドラグネット/正義一直線』 (Dragnetドラグネット/正義一直線英語) | ネクター・ペイガン | |
1988 | 『Moving Targetムービング・ターゲット英語』 | ||
1989 | 『リベンジ・オブ・ドッグ』 (Kill Me Againリベンジ・オブ・ドッグ英語) | ジャボノヴィッチ | |
1990 | 『バックストリート・ドリームス』 (Backstreet Dreamsバックストリート・ドリームス英語) | バート | |
1991 | 『スター・トレックVI 未知の世界』 (Star Trek VI: The Undiscovered Countryスター・トレックVI 未知の世界英語) | ファースト・クリンゴン・ジェネラル | |
1994 | 『フォレスト・ガンプ』 (Forrest Gumpフォレスト・ガンプ英語) | アラバマ大学フットボールアシスタントコーチ | クレジットなし |
2003 | 『ブルドッグ』 (A Man Apartブルドッグ英語) | 悪徳警官 | 最後の映画出演作 |
4.2. テレビ出演作
ボーキーは数多くのテレビシリーズやエピソードにも出演した。主な出演作には以下のものがある。
- 『M*A*S*H』(M*A*S*Hマッシュ英語) (1972年)
- 『サイモン&サイモン』(Simon & Simonサイモン&サイモン英語) (1981年)
- 『特攻野郎Aチーム』(The A-Team特攻野郎Aチーム英語) (1983年)
- 『Newhartニューハート英語』
- 『コーチ』(Coachコーチ英語) (1989年)
5. 引退後の生活と死
プロフットボール選手としてのキャリアを終えた後も、ジム・ボーキーは教育や指導の分野で活動を続けた。シーズンオフには、ロサンゼルスのクレンショー地区にあるAudubon Middle Schoolオーデュボン中学校英語で体育教師や英語教師として教壇に立った。
選手時代には、オジー・アンド・ハリエット(Ozzie and Harrietオジー・アンド・ハリエット英語)として知られるネルソン一家のボディーガードを務め、その後は歌手のリッキー・ネルソン(Ricky Nelsonリッキー・ネルソン英語)のボディーガードとしても活動した。
引退後も彼は南カリフォルニアに住み続け、教師としての仕事を継続し、ウェストミンスター・ハイスクール(Westminster High Schoolウェストミンスター高校英語)では高校フットボールのコーチを務めた。
2014年9月26日、ジム・ボーキーは急性白血病のため、カリフォルニア州ファウンテンバレーで76歳で亡くなった。
6. 殿堂入り
ジム・ボーキーは、その輝かしい功績を称えられ、二つの主要な殿堂に選出されている。
- ハイデルバーグ大学体育殿堂**: 1985年、彼は自身の母校であるハイデルバーグ大学の体育殿堂に、創立メンバーとして殿堂入りを果たした。
- サミット郡スポーツ殿堂**: 2008年には、彼の生まれ故郷であるオハイオ州サミット郡のスポーツ殿堂に選出された。