1. 概要
ジャイール・ダ・ローザ・ピント(Jair da Rosa Pintoジャイール・ダ・ローザ・ピントポルトガル語、1921年3月21日 - 2005年7月21日)は、ブラジル出身のサッカー選手、指導者である。主に攻撃的ミッドフィールダーとして活躍し、1940年代から1950年代にかけてのブラジルを代表するサッカー選手の一人として知られる。特に、ブラジルで開催された1950 FIFAワールドカップでのパフォーマンスは彼のキャリアの象徴的な出来事であり、その後の彼の人生とブラジル社会に深い影響を与えた。自由なプレースタイルとスピード、高い技術を特徴とし、「インサイドフォワード」として多くの試合でチームを牽引した。1950年ワールドカップ決勝の敗戦が彼に与えた個人的な苦悩と、それがブラジル国民全体にもたらした「マラカナンの悲劇」は、単なるスポーツの敗北を超え、国家的なトラウマとして記憶されている。
2. 幼少期と初期の人生
ジャイール・ダ・ローザ・ピントは、1921年3月21日にブラジルのリオデジャネイロ州クアチスで生まれた。彼の幼少期に関する詳細は少ないが、早くからサッカーの才能を示し、後にプロの道を歩むことになる。
3. 選手としてのキャリア
ジャイール・ダ・ローザ・ピントの選手としてのキャリアは、数々のクラブでの成功と、ブラジル代表チームでの国際的な活躍によって特徴づけられる。特に1950 FIFAワールドカップでの彼の貢献と、その後のクラブキャリアは特筆すべきものである。
3.1. 初期
ジャイールは1938年にマドゥレイラECで左ウィングとしてキャリアをスタートさせた。その2年後の1940年3月5日には、アルゼンチン代表との試合でブラジル代表デビューを果たした。この試合はブラジルが1対6で敗れたものの、ジャイールはブラジルの唯一の得点を挙げ、代表での初ゴールを記録した。これは、後に彼がブラジル代表で合計22ゴールを挙げることになるキャリアの始まりであった。
1940年代を通じて、ジャイールはブラジル代表の主力選手として定期的に招集された。クラブキャリアでは、まずリオデジャネイロを拠点とするCRヴァスコ・ダ・ガマに移籍し、1943年に加入。1944年にはヴァスコ・ダ・ガマをリーグ2位に導いた。その後、同じくリオのCRフラメンゴへと移った。フラメンゴでは1947年シーズンにリーグ優勝を果たすことはできなかったが、彼のプレーは光り続けた。
この時期の彼の最も輝かしい瞬間の一つは、1944年にサンパウロで行われたウルグアイ代表との親善試合でハットトリックを達成したことである。ウルグアイは後に彼を苦しめることになる相手であったが、1940年代にはジャイールがウルグアイ相手に2度の2得点を記録するなど、好相性を見せた。1949年にはコパ・アメリカでブラジルを優勝に導き、決勝のパラグアイ代表戦の2ndレグでは2得点を挙げ、7対0の大勝に貢献した。この大会ではジャイール自身も大会得点王に輝いている。
3.2. 1950 FIFAワールドカップ
ジャイールの才能が世界的に広く認識されたのは、翌年の1950年にブラジルで開催された1950 FIFAワールドカップであった。彼はジジーニョやアデミール・マルケス・デ・メネゼスらと共に、ブラジル代表をトーナメントで大成功へと導いた。チームはスピードと華麗な技術で攻撃的なサッカーを展開し、6試合で合計22得点を挙げる圧倒的な攻撃力で世界中のファンを魅了した。
しかし、事実上の決勝戦となったウルグアイとの最終戦で、ブラジルは悲劇的な敗北を喫した。ジャイールは試合序盤にブラジルが優勢だった時間帯にポストを叩くなど、決定的なチャンスを逃した。フラシャの先制点によってブラジルがリードしたものの、ウルグアイはそこから挽回し、最終的に2対1で勝利を収めた。この結果、20万人もの観衆で埋め尽くされたマラカナン・スタジアムのファンは失望の渦に包まれた。
サッカーは常にブラジルにおいて特別な意味を持つものであったが、この敗北はあまりにも壊滅的であった。著名なブラジル人作家ネルソン・ロドリゲスは、この敗戦について「どこにでも取り返しのつかない国家的惨事がある。ヒロシマのようなものだ。我々の惨事、我々のヒロシマは、1950年のウルグアイ戦での敗北だった」と述べた。この敗戦は、ブラジル代表チームが現在の象徴的な黄色いシャツにユニフォームを変更するきっかけとなり、現在でもブラジルでは単に「あの敗戦(The Defeat)」と呼ばれるほど、深い傷跡を残している。
3.3. 後期のクラブキャリアと引退
1950年のワールドカップでの敗戦は、ジャイールの心に深い影を落とした。彼は後に「あの敗戦は墓場まで持っていく」と語ったとされ、その言葉通り、彼はこの敗戦を深く反省する時間を与えられた。ブラジル代表からは1956年1月まで遠ざかり、復帰後もわずか2試合の出場にとどまり、若手の台頭により代表でのキャリアは終焉を迎えた。
クラブキャリアでは、サンパウロ州のクラブを転々とした。パルメイラスでは1949年から1955年までプレーし、最も成功した時期の一つを過ごした。1955年には、ライバルであるサンパウロFCとの最終戦で引き分けさえすればリーグ優勝が決まる状況の中、1対0でリードを許す展開からジャイールが同点ゴールを挙げ、チームを優勝に導いた。
1956年にサントスFCに移籍すると、彼はさらに多くの成功を収めた。サントスでは、彼が加入した最初のシーズンに2位に7点差をつけてリーグ優勝を果たした。サントス在籍中、チームは一度もリーグ2位以下になることはなく、1958年と1960年には再びリーグ優勝を果たした。この時期、彼は若きペレと共にプレーし、彼の才能の開花を間近で見た。
1960年に40歳でサントスを離れた後、彼はサンパウロFCで1シーズン、その後はAAポンチ・プレッタでプレーした。そして1963年、42歳で現役を引退した。
4. 指導者としてのキャリア
選手としてのキャリアを終えた後、ジャイールは複数のチームで監督を務めた。監督として指揮を執ったクラブには、古巣のサントスやパルメイラス、そしてキャリアの出発点となったマドゥレイラなどがある。彼は選手時代にサントスで活躍した際、若きペレがサントスFCのトップチームに昇格するのを助けた功績でも評価されている。
5. 栄誉
ジャイール・ダ・ローザ・ピントは、その選手キャリアを通じて、クラブおよび代表チームで数々の栄誉を獲得した。また、個人としても輝かしい賞を受賞している。
5.1. クラブ
- リオ州選手権: 1945(ヴァスコ・ダ・ガマ)
- サンパウロ州選手権: 1950(パルメイラス)、1956、1958、1960(サントスFC)
- リオ-サンパウロ・トーナメント: 1951(パルメイラス)、1959(サントスFC)
- コパ・リオ: 1951(パルメイラス)
5.2. 代表チーム
- コパ・アメリカ: 1949
- FIFAワールドカップ: 準優勝 1950
5.3. 個人
- コパ・アメリカ得点王: 1949
- FIFAワールドカップオールスターチーム: 1950
6. 死去
ジャイール・ダ・ローザ・ピントは2005年7月21日に、リオデジャネイロで肺感染症のため死去した。84歳であった。彼はブラジル代表として39試合に出場し、22ゴールを記録した。
7. 遺産と影響
ジャイール・ダ・ローザ・ピントは、ブラジルサッカー界に大きな足跡を残しただけでなく、そのキャリアを通じてブラジル社会にも影響を与えた人物である。
7.1. 1950年ワールドカップ敗戦の影響
1950年のFIFAワールドカップにおけるブラジルのウルグアイに対する敗北は、ジャイール個人にとって「墓場まで持っていく」と語るほどの深い傷となった。この敗戦は、ブラジル国民にとって単なるスポーツの敗北ではなく、国民の誇りやアイデンティティにまで影響を及ぼす「マラカナンの悲劇」として記憶されている。ブラジルサッカーの歴史において、この出来事はユニフォームの色変更(白から現在の黄色へ)にまで繋がり、その後の代表チームの戦術や精神性にも長期的な影響を与えた。ジャイールは、この敗戦の痛みを共有し、国民の感情を代弁する存在として、その記憶と共に語り継がれることになった。
7.2. 文化的影響
ジャイールの名前は、ブラジル社会において広く知られる存在であった。特に興味深い文化的影響の一つとして、元ブラジル大統領であるジャイール・ボルソナーロが彼の名前から名付けられたことが挙げられる。ボルソナーロはジャイール・ダ・ローザ・ピントの34歳の誕生日に生まれたとされており、彼の親がこの著名なサッカー選手に敬意を表して命名したとされる。これは、スポーツ選手が国民的英雄となり、その影響が政治指導者の命名にまで及ぶという、ブラジルのサッカー文化の深さを示す一例である。