1. 概要

ジャック・ブリットン(Jack Britton英語、本名:ウィリアム・J・ブレスリン、William J. Breslin英語、1885年10月14日 - 1962年3月27日)は、アメリカ合衆国のプロボクサー。ニューヨーク州クリントンで生まれ、アイルランド系の家系を持つ。史上初めて世界ウェルター級のタイトルを3度獲得した選手であり、その長きにわたるキャリアは25年間、1905年から1930年まで続いた。
ブリットンは、キャリアを通じて世界タイトルマッチを37回戦っており、これはボクシング史上最多の記録である(このうち18回は無判定試合で終わっている)。特に、ライバルであるテッド・"キッド"・ルイスとは計20回にも及ぶ激しい対戦を繰り広げた。その卓越した技術と業績が認められ、1960年には『リングマガジン』の殿堂に、1990年には初年度メンバーとして国際ボクシング殿堂に献額された。統計サイトBoxRecでは歴代ウェルター級6位、『リングマガジン』創設者のナット・フレイシャーは同級3位と評価している。また、彼の試合はアーネスト・ヘミングウェイの短編小説『五万ドル』に影響を与えたことでも知られる。
2. 生い立ちとキャリア
ジャック・ブリットンの幼少期からプロボクシングキャリアの主要な出来事を時系列で解説する。
2.1. 幼少期と初期のキャリア
ジャック・ブリットンは、本名をウィリアム・J・ブレスリンといい、1885年10月14日にニューヨーク州クリントンで生まれた。アイルランド系の家系である。彼は1905年にプロボクシングのキャリアをスタートさせ、その現役生活は1930年まで25年間にも及んだ。1962年3月27日にこの世を去った。
2.2. 初のウェルター級世界王座獲得
1915年6月22日、ブリットンはマイク・グローバーを相手に12回判定で勝利し、空位となっていた世界ウェルター級王座を初めて獲得した。しかし、その王座は長くは続かなかった。わずか2ヶ月後の同年8月31日、英国の猛ファイター、テッド・"キッド"・ルイスとの対戦で12回判定負けを喫し、王座を失った。
2.3. テッド・"キッド"・ルイスとのライバル関係
ブリットンとテッド・"キッド"・ルイスは、ボクシング史に名を刻むほどの激しいライバル関係を築いた。ルイスが攻撃的な猛ファイターであったのに対し、ブリットンはカウンターを得意とする技巧派ボクサーであり、両者のスタイルは好対照をなし、数々の名勝負を生み出した。両者の対戦は1921年までの6年間で計20回にも及び、その中で世界ウェルター級王座は何度も入れ替わった。
ブリットンは1916年4月24日、ルイジアナ州ニューオーリンズでの20回判定戦でルイスに勝利し、2度目の世界ウェルター級王座を獲得した。しかし、この王座は1917年6月25日にオハイオ州デイトンで行われた20回戦で再びルイスに奪われた。
その後、ブリットンは1919年3月17日にオハイオ州カントンで開催された12回戦でルイスを9回2分5秒KOで下し、3度目の世界ウェルター級王座に就いた。これは、彼が史上初のウェルター級3冠王者となった瞬間である。両者の最後の対戦は1921年2月7日にニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデンで行われ、ブリットンが15回判定で勝利し、王座を防衛した。公式記録によると、ルイスとの通算戦績はブリットンの4勝3敗1引き分け12無判定であった。
2.4. ベニー・レナードとの論争の的となった試合
1922年6月26日、ニューヨーク市のベロドロームで、ブリットンは当時ライト級の偉大な王者であったベニー・レナードの挑戦を受けた。この試合は、ボクシング史上で最も論争の的となった一戦として広く知られている。
試合は12ラウンドを終えても激しい攻防が続き、ニューヨークのスポーツ記者たち(デイモン・ラニオン、シド・マーサー、ハイプ・アイゴー、W.R.マクギーハン、ジョージ・アンダーウッドを含む)は満場一致でブリットンが優勢であると報じた。ブリットンはレナードを巧みにアウトボックスし、着実に打撃も与えていた。
しかし、13ラウンドにレナードがブリットンのボディに左を打ち込み、ブリットンは苦しげに腹部を抱えて片膝をついた。ブリットンは反則を主張したように見えたが(後に本人は否定)、レフェリーのパッツィー・ヘイリーはその主張を認めなかった。ブリットンが片膝をついたまま立ち上がろうとしたところ、レナードが急襲し、軽い一撃を加えたため、レフェリーはレナードを失格とした。レナードはこの最後の打撃が反則ではないと主張したが、どの記者も同意しなかった。
この試合の結末について、記者たちの間では様々な憶測が飛び交い、中には試合が八百長だったと疑う者もいた。しかし、最も妥当な見方としては、レフェリーの判断をそのまま受け止めるべきであろう。この勝利により、ブリットンはNYSAC(ニューヨーク州アスレチックコミッション)およびNBA(全米ボクシング協会)のウェルター級タイトルを防衛した。
2.5. 晩年のキャリアと引退
3度目の世界ウェルター級王座を保持していたブリットンだったが、1922年11月1日、ニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデンで行われたタイトルマッチで「トイ・ブルドッグ」の異名を持つミッキー・ウォーカーに15回判定で敗れ、王座を失った。この試合は、後に著名な作家アーネスト・ヘミングウェイの短編小説『五万ドル』の着想源の一つとなったとされている。
彼のプロボクシングキャリアは1905年に始まり、1930年7月29日の試合を最後に25年間の長きにわたる現役生活に終止符を打った。
3. プロボクシング戦績
ジャック・ブリットンのプロボクシングにおける詳細な戦績を以下に示す。この記録は、ボクシング記録サイトBoxRecの情報を基に作成されている。彼のキャリアでは、公式判定がなかった「ノーデシジョン」(無判定)の試合が多数を占めた点が特徴である。
3.1. 公式戦績
公式戦績とは、新聞判定(ノーデシジョン)の試合を勝敗や引き分けに含まない形で集計した記録である。以下に示す総試合数には、ノーデシジョンの試合187回は含まれていない。
総試合数 | KO勝ち | 判定勝ち | 判定負け | KO負け | 引き分け | 失格勝ち | 失格負け | ノーコンテスト |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
344 | 30 | 72 | 26 | 1 | 20 | 2 | 2 | 5 |
ブリットンのキャリアを通じて行われた世界タイトルマッチは計37回であり、そのうち18回がノーデシジョンで終わっている。
3.2. 非公式戦績
非公式戦績とは、新聞判定(ノーデシジョン)の試合を勝敗または引き分けに含めて集計した記録である。これは、当時のボクシングでは公式判定がなかった試合における、新聞記者による非公式な判断を反映したものであり、以下に示す総試合数にはノーコンテストの試合も含まれる。
総試合数 | KO勝ち | 判定勝ち | 判定負け | KO負け | 引き分け | 失格勝ち | 失格負け | ノーコンテスト |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
345 | 30 | 205 | 57 | 1 | 43 | 2 | 2 | 5 |
4. 評価と影響
ジャック・ブリットンがボクシング界および文化に残した遺産と、彼に対する様々な評価を多角的に分析する。
4.1. ボクシング殿堂入り
ブリットンは、その卓越したキャリアと革新的な技術が認められ、ボクシング界の主要な殿堂に献額されている。1960年には権威ある『リングマガジン』の殿堂に、そして1990年には初年度メンバーとして国際ボクシング殿堂にそれぞれ名を連ねた。
彼のボクサーとしての実力は、各種ランキングにも反映されている。統計的なボクシングウェブサイトであるBoxRecは、ブリットンを歴代ウェルター級選手の中で6位にランク付けしている。また、『リングマガジン』の創設者であり、ボクシング史に詳しいナット・フレイシャーは、彼を同級3位に位置づけている。これらの評価は、ブリットンがボクシング史における偉大な選手の一人であり、その技術が時代を超えて高く評価されていることを示している。
4.2. 文化的影響
ジャック・ブリットンは、単にボクシング界でその名を馳せただけでなく、文学の世界にも影響を与えた。著名なアメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイの短編小説『五万ドル』は、ブリットンが1922年11月1日にマディソン・スクエア・ガーデンでミッキー・ウォーカーと対戦し、世界ウェルター級王座を失った試合に着想を得ているとされる。
しかし、著名なボクシング作家であるバッド・シュルバーグなど、一部の文献では、この小説の着想源はウォーカー戦の前の1922年6月26日にブロンクスのヒッポドロームで行われた、ブリットンとベニー・レナードの論争の的となった試合にあると指摘されている。この試合では、レナードが意図的な反則により敗北したと見られており、ヘミングウェイの短編の初稿には、レナードの名前が具体的に記されていたという事実もこの説を裏付けている。ブリットンの劇的な試合は、文学作品を通じてより広い層にその名を知らしめることになった。