1. 概要
ジャック・ラフィットJacques Laffitteジャック・ラフィットフランス語(1767年10月24日 - 1844年5月26日)は、フランスの著名な銀行家であり、フランス銀行の総裁(1814年 - 1820年)を務めたほか、フランス復古王政期および7月王政期の代議院議員として自由主義派を牽引した政治家である。フランスの工業化初期において、新たな銀行技術の発展に重要な役割を果たした。政治においては、1830年の7月革命で決定的な役割を担い、不人気であったシャルル10世に代わってオルレアン公ルイ・フィリップを王位に就けることに貢献した。
ラフィットは、新王ルイ・フィリップの閣僚評議会議長(首相)兼財務大臣(1830年11月2日 - 1831年3月13日)に任命されたが、わずか131日間の短期間でその内閣は失脚した。彼の率いる「運動党」は、銀行家カジミール・ピエール・ペリエが率いる「秩序党」に道を譲り、ラフィットは政治的にも財政的にも信用を失い、破産状態に陥った。しかし、1836年にはクレディ・モビリエ(1852年)のような19世紀後半のフランス投資銀行の先駆けとなる「商工業一般金庫」(Caisse Générale du Commerce et de l'Industrieフランス語)を設立し、財政的に回復した。この商工業一般金庫は1848年のフランス革命による金融危機を乗り越えることはできなかった。
2. 初期生い立ちおよび背景
ジャック・ラフィットの初期の人生は、謙虚な出自から金融界および政界の要職へと登り詰める、異例の成功物語の始まりであった。
2.1. 出生と幼少期
ラフィットは1767年10月24日、フランス南西部のピレネー=アトランティックに位置するバイヨンヌで生まれた。彼の父は熟練した大工のピエール・ラフィット(1789年没)、母はエティエネ・ロジェールであり、十人兄弟(息子4人、娘6人)の一人であった。ラフィットの家庭はごく平凡な出自であったことが知られている。
短い学業期間の後、ラフィットは12歳で父の下で大工の徒弟として働き始めた。その後2年間はバイヨンヌの公証人事務所で3級書記として勤務し、14歳からは同市で商人のフォーマラゲス氏の店員を務めるなど、幼少期から多様な職務経験を積んだ。
2.2. 教育および初期経歴
1788年、21歳の時、ラフィットは後見人の紹介状を携え、パリへと上京した。彼は著名なスイス人銀行家であるジャン=フレデリック・ペレゴーJean-Frédéric Perregauxジャン=フレデリック・ペレゴーフランス語(1744年 - 1808年)の銀行事務所(サンティエ街)で簿記係として職を得た。この職は、ラフィットに貴重な学習機会と大きな昇進の可能性をもたらす出発点となった。ペレゴーは富裕な顧客層、重要な海外との繋がり、そして要人との交友関係を持つ有力な銀行家であり、フランス革命期においても巧みな経営手腕で繁栄を築いた。彼はナポレオン・ボナパルトの権力掌握を財政的に支援し、1800年にはフランス銀行の創設者の一人となり、その監督評議会の議長に就任している。
3. 銀行家としての経歴
ジャック・ラフィットは、金融界での目覚ましい昇進と、フランスの金融システムの近代化への貢献によって、その名を歴史に刻んだ。
3.1. ペレゴー銀行での活動
ペレゴー銀行に入社したラフィットは、その卓越した資質と銀行業務に対する真の才能をすぐに発揮した。社交的で活発、そして明晰な精神と並外れた勤勉さを持っていた彼は、たちまち頭角を現した。ペレゴーはラフィットの成長を促し、彼にますます重要な責任を委ねた。ラフィットはペレゴーの右腕となり、1806年には共同経営者に昇進した。1807年にはペレゴーの健康状態の悪化に伴い、彼は銀行の専務取締役、事実上の責任者に任命された。これに伴い、銀行の名称は「ペレゴー、ラフィット商会」(Perregaux, Laffitte and Company)へと変更された。ペレゴーの息子アルフォンス(1785年 - 1841年)とその妹は、休眠パートナー(commanditairesフランス語)として名を連ねた。
これはフランスの銀行史において画期的な出来事であり、ある歴史家は「フランスの銀行史上で初めて、一書記がその雇い主の地位を直接引き継いだ」と評している。ペレゴーが1808年に死去すると、ラフィットはフランス銀行の15人の摂政の一人としての地位も引き継いだ。彼は1810年から1811年までパリ商工会議所の議長を務め、1813年にはセーヌ商業裁判所の判事に任命された。
3.2. フランス銀行での役割
1814年のナポレオンの敗北後、新たに即位したルイ18世によって、ラフィットはフランス銀行の暫定総裁に任命された。彼は1814年から1820年まで総裁の職を務め、この期間にフランス銀行理事も兼任した。ラフィットは1814年の第一次王政復古において、国王ルイ18世に対し多額の融資を提供している。
また、ワーテルローの戦い(1815年6月18日)後、最後の亡命に向かう途中のナポレオンが、自身の財産である約600.00 万 FRFをラフィットの銀行に預けたとされている。このナポレオンの預金は、復古王政の政府によって没収が試みられたが、ラフィットはこれを拒否した。その代わりに、彼は帝政期のフランス軍への未払い金約200.00 万 FRFを自己負担で支払っている。1826年にナポレオンの遺産が争われた際には、ラフィットは銀行の債務を利息込みで385.61 万 FRFと算定した。
3.3. 復古王政期事業活動
フランス復古王政期には、「ジャック・ラフィット商会」(Jacques Laffitte and Company)はパリで最も裕福な民間銀行の一つであり、「オート・バンク・パリジェンヌ」(haute banque parisienneフランス語)として知られる約20の銀行家グループの中でも主要な企業であった。このグループには、ラフィットの他にカジミール・ピエール・ペリエとScipion Perier、Benjamin Delessert、Jean Hottinguer、アドルフ・マレ、フランソワ・コティエ、アントワーヌ・オディエ、ジャック・ルフェーブル、ミシェル・ピレ=ウィルなどの銀行が含まれていた。
19世紀初期の銀行の資本力は限られていたが、彼らは政府の主要な公債引き受けや有望な民間事業への資金調達のために連携した。ラフィットは1817年から1818年にかけて、ドゥセール、オッタンゲ、ジェームス・ド・ロスチャイルドらと協力し、フランスの解放借款の株式引受を巡って、強力な外国銀行であるベアリング・ブラザーズ(ロンドン)やホープ・アンド・カンパニー(アムステルダム)と競合した。
それ以前の1816年には、彼はドゥセールと共に「王立海上保険会社」(Compagnie Royale d'Assurances Maritimesフランス語)の設立を主導した。これは資本金1000.00 万 FRFを持つ初期の株式会社型保険会社であり、資本動員のための先駆的なベンチャーであった。ラフィットは社長を務め、カジミール・ペリエとシピオン・ペリエがこの事業の管理者の一員であった。1818年には、同業の銀行家で実業家でもあったバンジャマン・ドゥセールとともに、パリに初のフランス貯蓄銀行である「パリ貯蓄・共済金庫」(Caisse d'Épargne et de Prévoyance de Parisフランス語)の設立において中心的な役割を果たした。当時ラフィットが総裁を務めていたフランス銀行の摂政会のほぼすべてのメンバーが、新銀行の管理者として名を連ねた。
ラフィットは1818年までに財産を積み上げ、運勢の頂点に達していた。彼はこの頃、パリ近郊のイヴリーヌ県にある17世紀のメゾン城を、十分な財力をもって購入することができた。この城は、著名な建築家フランソワ・マンサールによって設計されたもので、革命以前はルイ16世の弟、アルトワ伯爵(後のシャルル10世)の所有であった。メゾン城を所有し、かつての王家の城でフランス社会の著名人をもてなすことは、バイヨンヌの大工の息子であったラフィットにとって個人的な成功の象徴であった。家族の歴史、爵位、そして土地の所有が非常に重要視されていた時代において、それは「成り上がりの夢」(le rêve d'un parvenuフランス語)と称されるものであった。
3.4. 金融革新および投資
1821年から1822年にかけて、ラフィットは「四運河会社」(Compagnie des Quatre Canauxフランス語)の設立を主導した。これは、政府が着手した大規模な運河建設プログラムへの資金提供を目的とした株式会社であり、「オート・バンク」のメンバーからの資本を集めたものである。ラフィットの企業連合は、政府への融資総額の半分を獲得した。四運河会社への主要な貸し手上位4社は、ジャック・ラフィット商会(1173.60 万 FRF)、H.ヘンチ、ブラン商会(1173.60 万 FRF)、ピレ=ウィル商会(1097.60 万 FRF)、アンドレ&コティエ(787.00 万 FRF)であった。ラフィットがさらに大きな融資シェアを獲得しようとした提案は、超王党派内閣のヴィレール伯爵によって拒否された。
1825年、ラフィットの野心的な金融計画は二度目の挫折を経験する。彼はフランスでの大規模な産業発展のために銀行信用を提供する私的投資銀行「産業合資会社」(Société Commanditaire de l'Industrieフランス語)を提案したが、ヴィレールがその認可を拒否したのである。ラフィットが社長を務めるこの合資会社は、資本金1.00 億 FRFとされ、フランスの産業家、パリの多くの「オート・バンク」メンバー、そしてロンドン、ジュネーブ、フランクフルトの主要銀行家の支援を得ていた。カジミール・ペリエと著名な毛織物産業家ウィリアム・テルノーが副社長を務める予定であった。当時の自由主義者の間で経済発展を促進するための広範なスローガンであった「結社の精神」(L'esprit d'associationフランス語)は、この会社によって具現化されるはずであった。しかし、この合資会社は政治的にタイミングが悪く、ラフィットは当時、シャルル10世政府に対する自由主義野党の指導者であった。また、その計画はあまりにも野心的であると、影響力のあるフランス銀行の保守的な摂政や政府関係者によって見なされた。ラフィットは、1830年の7月革命後に再度挑戦する必要があった。
4. 政治経歴
銀行家としての比類なき成功を収めたラフィットは、政界にもその影響力を拡大し、特に自由主義的立場を堅持した。彼の政治的野望は、1830年の7月革命において最高潮に達するものの、その後の首相としての短期間の失政は、彼を政治的にも財政的にも窮地に追いやることになった。
4.1. 議会活動および自由主義的立場
ラフィットは当初、ブルボン家の復帰を好意的に見ていた。彼は、新たに即位したルイ18世(1814年 - 1824年)に財政援助を提供し、1814年から1820年までフランス銀行総裁の地位を維持した。1815年には代議院議員に選出され、1824年から1827年を除き、復古王政期を通じて議員を務めた。同僚議員で銀行家でもあったカジミール・ピエール・ペリエと同様に、彼は「左派」として自由主義的立場を取り、議会で立憲君主制、出版の自由、企業活動の自由、国家行政における能力主義、政府財政の透明性を支持する発言をした。
1820年以降、ブルボン体制がますます保守的かつ王党派志向を強めるにつれて、ラフィットは不満を募らせ、公然と反対の声を上げるようになった。カジミール・ペリエと共に、彼は1820年代にヴィレール伯爵による政府の運河建設プログラムの財政処理に、議会で激しく異議を唱えた。1825年には、革命中に没収された土地の著名人への補償を目的としたヴィレール案に賛成票を投じ、一時的に人気を失ったが、1828年に娘のアルビーヌ・ラフィットが、ミシェル・ネイ元帥の息子であるナポレオン=ジョゼフ・ネイ(エルヒンゲン公、モスクワ公)と結婚したことで人気を回復した。
事態はシャルル10世が1824年に国王になってから急速に悪化した。国王は政府に対する高まる自由主義的、さらには共和主義的反対を恐れ、1829年にポリニャック公の超王党派内閣を樹立するという破滅的な行動に出た。1830年の選挙で超王党派が敗北すると、国王は同年7月25日に悪名高き7月勅令を発布し、出版の自由を停止し、代議院を解散させ、選挙法を土地貴族に有利なように変更した。その結果が1830年の7月革命であった。
4.2. 1830年7月革命での役割
ラフィットは、シャルル10世とその大臣たちを追放し、フィリップ・エガリテの息子であるオルレアン公ルイ・フィリップの下で新政府を樹立することを、最も早くから、そして最も強く主張した一人であった。彼のパリの邸宅は、ルイ・フィリップを改革された立憲君主制の「市民王」とするための「運動党」の本部となった。パリでの民衆蜂起と地方での騒乱の高まりを背景に、この計画は成功した。シャルル10世はイギリスへ逃亡し、その大臣たちは逮捕され、ルイ・フィリップが王位を継承した。
シャルル10世は悪評高き7月勅令を撤回した後、ダルグー伯爵をラフィットのもとに送り、組閣交渉を試みたが、ラフィットは「もう遅い。もはやシャルル10世などいない」と拒否した。1830年8月3日、ラフィットは代議院議長に就任し、同年8月9日には議長としてルイ・フィリップの1830年憲章への宣誓を見届けた。
4.3. 国務会議議長および財務長官
ラフィットは1830年11月2日、閣僚評議会議長(首相)兼財務大臣に任命された。彼の内閣は「運動党」内閣と呼ばれ、自由主義的改革を公約した。
しかし、首相としてのラフィットは、銀行家や金融家としての手腕に比べて、国王を擁立する役割や政治的指導者としての能力は劣っていることが明らかになった。彼の政府は、フランスの秩序を維持する必要性と、パリの民衆を懐柔する必要性の間で板挟みとなり、いずれも達成できなかった。カジミール・ピエール・ペリエのような代議院の穏健な自由主義者、さらには国王自身にとっても、ラフィットとラファイエット将軍のような民衆革命の指導者との関わりは、フランスを危険なほど共和制樹立へと向かわせているように見えた。ペリエはラフィット内閣に一切関わることを拒否した。
外交においては、ラフィット内閣は1830年革命におけるイタリアの蜂起を支援しようとしたが、国王に反対された。内政においては、パリ市民の間で投獄されていたシャルル10世の大臣たちの処刑を要求する声が上がったが、ラフィットはこれを拒否したことで支持を失った。財政難も改善せず、さらにジャック=シャルル・デュポン・ド・ルール法務大臣やラファイエット侯爵国民衛兵司令官も辞任した。
結局、ラフィットは131日間の動乱と優柔不断の末、1831年3月に辞任を余儀なくされた。政権はペリエの「抵抗党」(parti de la résistanceフランス語)に移った。ラフィットは1831年以降も議員の座は維持したが、二度と内閣を率いることも、その一員となることもなかった。
4.4. 政治的失敗と財政的破産
1830年の複雑なフランス政治への介入は、ラフィットに財政的に大きな代償を払わせた。革命は、すでに問題を抱えていたフランス経済をさらに悪化させていた。彼の「ラフィット商会」は1300.00 万 FRFもの損失を被り、1831年1月には銀行の清算を余儀なくされた。
銀行の損失を補填するため、ラフィットはフランス銀行総裁に働きかけ、前例のない700.00 万 FRFの融資を取り付けた。彼はパリの自宅(現在のラフィット通りに面していた)と所蔵する美術品を売却に出した。最も重要だったのは、ブレトゥイユにある家族所有の森林を国王ルイ・フィリップに600.00 万 FRFで売却したことであった。この売却は大いに役立ったが、国王がこの売却を公表したため、ラフィットは政治的にも財政的にも打撃を受けた。
ラフィットは、少なくともメゾン城を売却から守ることに成功したが、その広大な公園を分割して、富裕なパリ市民に売却するためのカントリーヴィラの区画造成を行った。これは、M.ド・ルヴィエールが著した『メゾン=ラフィットの歴史と絵のような描写』(1838年)に記述されているように、郊外の不動産開発における驚くほど創造的な初期の試みとなった。ラフィットと弟のジャン=バティスト・ラフィットは、パリからメゾンまでの約15 kmの道のりのために、駅馬車路線を確立した。彼の甥のシャルル・ラフィット(1803年 - 1875年)と義理の息子であるモスクワ公は、フランス初の競馬場となる草地のトラックを追加した。
5. 回復および後記経歴
政治的・財政的挫折を経験した後も、ジャック・ラフィットは金融家としての才能を諦めず、その経験を活かして新たな金融事業の再建に乗り出した。
5.1. 金融事業再建
1836年から1837年までには、ラフィットは自身の状況を十分に立て直し、1825年に提案した「産業合資会社」の計画を復活させるに至った。この構想は、産業企業に対する長期信用を供給することを目的としていた。
5.2. 商工業一般銀行設立
1837年7月15日、ラフィットは「商工業一般金庫」(Caisse Générale du Commerce et de l'Industrieフランス語)を設立した。この金庫は、後のフランス第二帝政期に発展するような近代的投資銀行の先駆者としての役割を果たした。従来の株式会社形態ではなく、合資会社形態(commanditeフランス語)が採用された。この事業には5500.00 万 FRFの資本が投じられた。フランス銀行からは「銀行」(Banqueフランス語)という名称の使用を禁じるなどの制約が課されたものの、金庫の認可は滞りなく進んだ。ラフィットの主要な協力者には、彼の弟マルタン・ラフィット(1773年 - 1840年)や、砂糖産業の実業家であるフランソワ・ルボディ(1799年 - 1863年)がいた。
この会社が、19世紀後半のフランスにおける大規模な株式制投資銀行の原型となったのかどうかについては、歴史家の間で研究と議論が続けられている。ラフィット自身は、「商工業一般金庫」が彼が夢見ていた真の「事業銀行」(banque d'affairesフランス語)を完全に実現したとは考えていなかったようである。彼は回顧録にこう記している。「もし私が望んだような大信用機関を創設できなかったとしても、少なくとも私は商業と家族に長く役立つ大きな銀行を築いた。70歳になった男にとって、それは十分立派な成果だ。たとえ私の後に他の誰かが大きな信用機関を創設するとしても、私には挑戦したという誇りが残るだろう」。
ラフィットがもし長生きしていれば、彼は熱意をもって商工業一般金庫をフランスの鉄道建設という危険な事業の資金調達へと導いていたことは間違いない。実際、歴史家は、1843年には同社がすでにこの分野に進出し、コンパニー・デュ・ノール社による鉄道建設のために1000.00 万 FRFの融資を行っていたことを指摘している。ラフィットの甥であるシャルル・ラフィットもこの投資に関わっていた(シャルル・ラフィットは7月王政期にパリで銀行家となり、1841年から1847年にかけてパリ=ルーアン鉄道の推進者であった)。
6. 個人生活および家族
ジャック・ラフィットは1801年に、ル・アーヴルの商人であったマリン=フランソワーズ・ラエ(1783年 - 1849年)と結婚した。二人の間には、一人娘のアルビーヌ=エティエネ・ラフィット(1881年没)がおり、彼女はモスクワ公夫人ネイ公爵夫人となった。
彼の兄弟姉妹には、ピエール・ラフィット(1765年 - 1846年)、マルタン・ラフィット(1773年 - 1840年)、ジャン=バティスト・ラフィット(1775年 - 1843年)がいた。マルタン・ラフィットはジャックと同様に代議院議員を務めた。ジャン=バティスト・ラフィットはアントワネット・ルイーズ・ルフェーブル・デヌエットと結婚し、銀行家シャルル・ラフィットをもうけた。シャルル・ラフィット(1803年 - 1875年)はジャックの甥にあたり、叔父と同様に金融業に携わった。
7. 死亡
ジャック・ラフィットは肺の病を患い、1844年5月26日、77歳でパリにて死去した。彼の死後、商工業一般金庫は数年間、銀行家アレクサンドル・グアン(1792年 - 1872年)の指導の下で事業を継続したものの、1848年のフランス革命による金融危機を乗り越えることはできなかった。グアンは未公表の自伝の中で、自身の経験から、同社の設計上の欠陥は、金融危機時に長期投資と短期商業融資の両方に適切に対処できなかった点にあると記している。1847年から1848年のフランス経済危機における同社の終焉は、その典型例であった。

8. 遺産と評価
ジャック・ラフィットは、金融界と政界の両方において大きな足跡を残した人物であり、彼の生涯はフランスの近代化における重要な時代と密接に結びついている。
8.1. 金融界に与えた影響
ラフィットはフランス金融システムの発展に大きく貢献した。彼の銀行である「ジャック・ラフィット商会」は、復古王政期において「オート・バンク・パリジェンヌ」の一員として、政府の主要な公債引き受けや民間事業への資金供給に不可欠な役割を果たした。特に、王立海上保険会社やパリ貯蓄・共済金庫の設立における彼の主導は、フランスにおける共同株式型企業や貯蓄機関の先駆的な試みとして評価される。
また、運河建設のための資金調達を目的とした「四運河会社」の設立や、産業発展のための私的投資銀行「産業合資会社」の構想は、当時のフランス経済が必要としていた大規模な資本動員と産業信用への彼の先進的な視点を示している。特に、1837年に設立された「商工業一般金庫」は、短期手形割引と長期産業投資の両方を行う銀行として、後のフランス第二帝政期に発展する投資銀行の先駆けと見なされており、フランス金融史における彼の革新性が高く評価されている。
8.2. 政治的評価および批判
政治家としてのラフィットは、1815年から代議院議員を務め、立憲君主制、出版の自由、企業活動の自由、政府財政の透明性を支持する自由主義的立場を貫いた。彼は特に、シャルル10世の反動的な政策に強く反対し、1830年の7月革命ではルイ・フィリップの擁立に決定的な役割を果たした。彼のパリの邸宅が革命の拠点となり、新体制樹立の場となったことは、彼の政治的影響力を象徴している。
しかし、7月革命後の閣僚評議会議長兼財務大臣としての短い任期は、政治的失敗として評価されることが多い。彼は自由主義改革の推進と社会秩序の維持という相反する課題の間で板挟みとなり、いずれも達成できなかった。パリ市民の要求と国王の反対の間で指導力を発揮できず、政権はわずか131日で崩壊した。この政治的失敗は、彼個人の財政にも大きな打撃を与え、銀行の清算と破産という結果を招いた。政治的指導者としての彼の限界は露呈したが、その後の金融事業再建における不屈の精神と、近代的投資銀行の概念を先取りした「商工業一般金庫」の設立は、彼の企業家としての手腕を改めて示した。彼の政治的キャリアは挫折に終わったものの、フランスの近代化期における金融と政治の交差点に立つ重要な人物として、その功績は歴史に刻まれている。