1. 生涯
ジャン=ルイ・バローは、その生涯を通じてフランス演劇界に多大な足跡を残し、俳優、演出家、劇団主宰者として多岐にわたる活動を展開しました。
1.1. 幼少期と教育
ジャン=ルイ・バローは1910年9月8日、イヴリーヌ県ル・ヴェジネに、薬剤師の息子として生まれました。彼の父親は第一次世界大戦中に亡くなっています。バローはパリのシャプタル高等中学校で学び、1930年に卒業しました。その後、エコール・デュ・ルーヴルで学業を続けましたが、父親の希望に背き、店員や中学校の自習監督係などを経験しました。
1.2. 初期活動と芸術の形成
1931年、バローはシャルル・デュランが主宰するアトリエ座劇団に入団し、演劇活動を開始しました。彼の初舞台は、ベン・ジョンソン作『ヴォルポーヌ』の端役でした。当時、生活に困窮していたバローは、デュランの許しを得て『ヴォルポーヌ』の舞台セットにあるベッドで寝泊まりしていたといいます。アトリエ座では、彼はエティエンヌ・ドクルーと出会い、彼の下でパントマイムを学び、1931年にはドクルーと共にパントマイム作品『La Vie Primitive』を創作しました。このパントマイム学校には、後に世界的パントマイムアーティストとなるマルセル・マルソーも在籍していました。
1935年には、ウィリアム・フォークナーの『母をめぐって』をアトリエ座で演出し、演出家としての名声を確立しました。この功績は、デュランの友人であった著名な演出家ルイ・ジューヴェにも認められました。1932年から1936年にかけては、ジャック・プレヴェールやポール・グリモーらが組織したアジプロ(アジテーション・プロパガンダ)劇団「10月グループ」のメンバーとしても活動しました。
1.3. コメディ・フランセーズ時代
1939年、29歳で第二次世界大戦に召集され兵役を終えた後、1940年に臨時支配人ジャック・コポーの招きにより、フランス国立の伝統あるコメディ・フランセーズに入座しました。1943年には同劇団の正座員となります。この時期、彼はシェイクスピアの『ハムレット』やコルネイユの『ル・シッド』で主役を演じました。
特に注目すべきは、ナチスによるフランス占領期の1943年に、ポール・クローデルの『繻子の靴』を演出し上演したことです。これは困難な時代における演劇界の快挙として歴史に記録されています。この頃、彼はコメディ・フランセーズの女優であったマドレーヌ・ルノーと結婚しました。また、1943年から1944年にかけては、後に彼の代表作となる映画『天井桟敷の人々』の撮影にも関わっています。
1.4. ルノー=バロー劇団の創設と活動
1946年、ジャン=ルイ・バローは、コメディ・フランセーズの改革政令に不服を唱え、妻マドレーヌ・ルノーと共に同劇団を退団しました。そして、二人は自らの劇団である「ルノー=バロー劇団」(la compagnie Renaud-Barraultラ・コンパニー・ルノー=バローフランス語)を組織し、パリのマリニー劇場と10年間の契約を結びました。
1.4.1. マリニー劇場での活動と初期巡業
ルノー=バロー劇団はマリニー劇場を拠点に、活発な活動を展開しました。劇団旗揚げ後の初演はジッド翻訳による『ハムレット』でした。その後も、ラシーヌ、カフカ、モリエール、アシャール、ジロドゥ、サルトルなど、古典から現代劇まで幅広い作品を上演し、その多様な演目は観客から大きな人気を集めました。
特に、ポール・クローデルの『クリストファー・コロンブスの書物』の演出においては、「全体的演劇」という彼独自の演劇哲学を主張し、その実験的な手法を試みました。マリニー劇場との契約が満了した1956年以降、劇団はフランス国内の地方都市や国外への巡業を精力的に行い、世界各地で彼らの芸術を披露しました。
1.4.2. フランス劇場(オデオン座)監督時代と国際交流
1959年、当時の文化大臣アンドレ・マルローの招きにより、バローはオデオン座のフランス劇場監督に就任しました。オデオン座はそれまでコメディ・フランセーズの第二劇場でしたが、「フランス劇場」(Théâtre de Franceテアトル・ド・フランスフランス語)と改称され、コメディ・フランセーズから独立した新たな拠点としてルノー=バロー劇団に預けられました。バローはここで自らの演劇活動を行う傍ら、国際的な演劇交流を促進しました。
彼はイヨネスコの『犀』やベケットの『幸福な日々』など、当時のアヴァンギャルド作品を積極的に上演し、新しい演劇の潮流をフランスに紹介しました。また、「諸国民演劇祭」(Théâtre des nationsテアトル・デ・ナシオンフランス語)を主催し、アメリカの『リヴィング・シアター』を招聘するなど、世界の演劇に門戸を開放しました。これにより、バローは当時のフランス演劇界の中心的な存在として、演劇の民主的発展に大きく貢献しました。
1.4.3. 1968年以降の活動
1968年のフランス五月革命の際、ジャン=ルイ・バローはオデオン座を占拠した学生たちに劇場を開放しました。この行動が原因となり、劇団はオデオン座を追われることになりました。
その後、ルノー=バロー劇団は一時的な劇場を転々としながら演劇活動を継続しました。1968年末から翌春にかけては、闘技小屋であったエリゼ・モンマルトルで興行を行い、1974年から1980年までは旧オルセー駅の構内に設置された仮設小屋を拠点としました。このような困難な時期を経て、1981年に当時の文化大臣ジャン=フィリップ・ルカの斡旋により、劇団はロン・ポワン劇場に落ち着き、再び安定した活動を再開することができました。
ルノー=バロー劇団は国際的な活動も活発に行い、1960年、1977年、1979年の計3回にわたって日本を訪れ、公演を行いました。

2. 映画活動
ジャン=ルイ・バローは1935年の映画『みどりの園』(Les Beaux Joursレ・ボ・ジュールフランス語)で映画デビューを果たし、その後、生涯にわたって約50本近い映画に出演しました。彼の俳優としての名声を不動のものにしたのは、マルセル・カルネ監督の不朽の名作『天井桟敷の人々』(1945年)です。この作品で彼は、天才的なパントマイムアーティストであるバチスト・ドビュロー役を演じ、その卓越した演技は国際的な評価を獲得しました。
その他の主要な出演映画は以下の通りです。
公開年 | 邦題 原題 | 役名 | 備考 |
---|---|---|---|
1935 | みどりの園 {{lang|fr|Les beaux jours|}} | レネ | |
1936 | ジェニイの家 {{lang|fr|Jenny|}} | ||
1936 | 美しき青春 {{lang|fr|Hélène|}} | ピエール | |
1936 | 楽聖ベートーヴェン {{lang|fr|Un grand amour de Beethoven|}} | ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン | |
1937 | 王冠の真珠 {{lang|fr|Les Perles de la couronne|}} | ジャン・マルタン フランソワ1世 ポール・バラス ナポレオン3世 | サシャ・ギトリ監督 |
1937 | 奇妙なドラマ {{lang|fr|Drôle de drame|}} | ウィリアム・クランプス | マルセル・カルネ監督 |
1941 | デジレ {{lang|fr|Le Destin fabuleux de Désirée Clary|}} | ナポレオン・ボナパルト | サシャ・ギトリ監督 |
1941 | セーヌ川のモンマルトル {{lang|fr|Montmartre-sur-Seine|}} | ミシェル・クーティン | |
1942 | 幻想交響楽 {{lang|fr|La Symphonie fantastique|}} | エクトル・ベルリオーズ | |
1944 | 泣きぬれた天使 {{lang|fr|L'Ange de la nuit|}} | ジャック・マルタン | |
1945 | 天井桟敷の人々 {{lang|fr|Les enfants du paradis|}} | ジャン・バチスト/ガスパール・ドビュロー | |
1945 | しのび泣き {{lang|fr|La Part de l'ombre|}} | ミシェル・クレメール | |
1950 | 輪舞 {{lang|fr|La ronde|}} | ロベルト(詩人) | マックス・オフュルス監督 |
1951 | 永遠と汚辱に関する論考 {{lang|fr|Traité de bave et d'éternité|}} | 本人 | |
1954 | ヴェルサイユ語りなば {{lang|fr|Si Versailles m'était conté...|}} | フェヌロン | サシャ・ギトリ監督 |
1958 | コルドリエ博士の遺言 {{lang|fr|Le testament du Docteur Cordelier|}} | コルドリエ博士 / オパール | ジャン・ルノワール監督、テレビ映画 |
1958 | グレバン蝋美術館 {{lang|fr|Musée Grévin|}} | 本人 | 短編 |
1962 | 史上最大の作戦 {{lang|en|The Longest Day|}} | ルイ・ルーラン神父 | |
1966 | チャパクア {{lang|en|Chappaqua|}} | ブノワ博士 | |
1982 | ヴァレンヌの夜 {{lang|fr|La Nuit de Varennes|}} | レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ | エットレ・スコーラ監督 |
3. 舞台作品
ジャン=ルイ・バローが演出または出演した主要な舞台作品を、劇団および時期別に紹介します。(再演は記載していません。)
3.1. アトリエ座時代
- 1935年:フォークナー作『母をめぐって』、演出
- 1937年:セルバンテス作『ヌマンシアの包囲』、演出
- 1939年:クヌート・ハムスン作『飢え』、演出
3.2. コメディ・フランセーズ時代
- 1940年:コルネイユ作『ル・シッド』、演出
- 1940年:ラシーヌ作『フェードル』、演出
- 1941年:シェイクスピア作『ハムレット』、出演
- 1941年:アイスキュロス作『嘆願する女たち』、スタッド・ローラン・ギャロスで上演、芸術監督
- 1943年:ポール・クローデル作『繻子の靴』、演出
- 1945年:シェイクスピア作『アントニーとクレオパトラ』、演出
- 1945年:アルベール・カミュ作『カリギュラ』、演出
- 1945年:フランソワ・モーリアック作『愛されぬ人々』({{lang|fr|Les Mal-Aimés|}})、演出
3.3. マリニー劇場時代
- 1946年:シェイクスピア作『ハムレット』、演出
- 1946年:マリヴォー作『偽りの告白』({{lang|fr|Les Fausses Confidences|}})
- 1946年:アルマン・サラクルー作『怒りの夜』({{lang|fr|Les nuits de la colère|}})
- 1946年:カフカ作『審判』
- 1947年:モリエール作『アンフィトリオン』
- 1947年:アントン・チェーホフ作『桜の園』
- 1948年:ジョルジュ・フェドー作『アメリーにご執心』({{lang|fr|Occupe-toi d'Amélie|}})
- 1948年:カミュ作『戒厳令』({{lang|fr|L'État de siège|}})
- 1948年:クローデル作『真昼に分つ』({{lang|fr|Partage de midi|}})
- 1949年:モリエール作『スカパンの悪だくみ』、ルイ・ジューヴェ演出
- 1950年:ジャン・アヌイ作『下稽古または罰せられた恋』({{lang|fr|La répétition ou l'amour puni|}})
- 1950年:アンリ・ド・モンテルラン作『マラテスタ』({{lang|fr|Malatesta|}})
- 1951年:アンドレ・オベイ作『ラザール』({{lang|fr|Lazare|}})
- 1951年:ジャン・コクトー作『バッカス』
- 1952年:ジャン・ジロドゥ作『ジークフリード』({{lang|fr|Siegfried (Giraudoux)|}})
- 1953年:ジロドゥ作『リュクレースのために』({{lang|fr|Pour Lucrèce|}})
- 1953年:クローデル作『クリストファー・コロンブスの書物』({{lang|fr|Le Livre de Christophe Colomb|}})
- 1954年:ジュルジュ・シュアデ作『格言の夜』({{lang|fr|La Soirée des proverbes|}})
- 1955年:アイスキュロス作『オレステイア』
- 1955年:クリストファー・フライ作『囚人の夢』({{lang|en|A Sleep Of Prisoners|}})
- 1956年:ジャン・ヴォティエ作『たたかう男』({{lang|fr|Le Personnage comattant|}})
- 1957年:シュアデ作『ヴァスコの話』({{lang|fr|Histoire de Vasco|}})
- 1957年:ヴィクトル・ユゴー作『リュイ・ブラス』
3.4. オデオン座時代
- 1959年:クローデル作『黄金の頭』
- 1960年:イオネスコ作『犀』
- 1961年:ジロドゥ作『ユディット』
- 1961年:フェドー作『晴には君と歩けない』({{lang|fr|Mais, n'te promène donc pas toute nue|}})
- 1961年:ジョルジュ・シェアデ作『旅』({{lang|fr|Le Voyage|}})
- 1961年:オベイ作『リュクレースの凌辱』({{lang|fr|Le Viol de Lucrèce|}})
- 1962年:ラシーヌ作『アンドロマック』
- 1963年:イオネスコ作『空中歩行者』
- 1963年:サミュエル・ベケット作『幸福な日々』({{lang|en|Oh les beaux jours|}})、ロジェ・ブラン演出
- 1964年:フランソワ・ビエドゥー作『曇の中を通るべし』({{lang|fr|Il faut passer par les nuages|}})
- 1965年:マルグリット・デュラス作『木立の中の日々』
- 1966年:ジャン・ジュネ作『屏風』、ブラン演出
- 1966年:シェイクスピア作『ヘンリー四世』
- 1967年:フローベル作『聖アントワーヌの誘惑』、モーリス・ベジャール演出
- 1967年:エドワード・オールビー作『デリケート・バランス』
- 1967年:ナタリー・サロート作『静寂』({{lang|fr|Le Silence|}})
- 1967年:サロート作『嘘』({{lang|fr|Le Mensonge|}})
3.5. 仮住まい時代
- 1968年:ジャン=ルイ・バロー作『ラブレー』({{lang|fr|Rabelais|}})、エリゼ・モンマルトル、演出
- 1970年:バロー作『丘の上のジャリ』({{lang|fr|Jarry sur la butte|}})、エリゼ・モンマルトル、演出
- 1973年:モリエール作『町人貴族』、コメディ・フランセーズ、演出
- 1974年:ニーチェ作『ツァラトゥストラはかく語りき』、オルセー駅内仮設劇場
- 1976年:三島由紀夫作『サド侯爵夫人』、オルセー駅内仮設劇場
- 1977年:ヴィリエ・ド・リラダン作『新世界』、オルセー駅内仮設劇場
- 1978年:『千夜一夜物語』、オルセー駅内仮設劇場(大魔法サーカス團と共演)
3.6. ロン・ポワン劇場時代
- 1981年:アプレイウス、ラ・フォンテーヌ、モリエールから編集したバローのショー、『ラムール・ド・ラムール』({{lang|fr|L'Amour de l'amour|}})
- 1982年:ジョルジュ・クーローニュ作『シュトラウス家の人たち』({{lang|fr|Les Strauss|}})
4. 芸術哲学と影響
ジャン=ルイ・バローは、演劇を単なる娯楽としてではなく、人間の深層を探求する芸術形式として捉えていました。彼は「全体的演劇」という哲学を提唱し、舞台上のあらゆる要素、すなわち演技、パントマイム、照明、音楽、そして観客の存在までもが一体となって機能する、総合的な舞台芸術の創造を目指しました。
彼が試みた実験的な演出手法は、フランス演劇界に大きな革新をもたらしました。古典作品の新たな解釈から、イヨネスコやベケットといった当時のアヴァンギャルド劇作家の作品の積極的な上演に至るまで、バローは常に新しい表現の可能性を追求しました。彼はまた、国際的な演劇交流を積極的に推進し、オデオン座の監督時代に開催した「諸国民演劇祭」では、海外の革新的な劇団を招聘することで、フランス演劇に新たな風を吹き込みました。これにより、フランスの演劇界は多様な演劇観に触れる機会を得て、演劇の民主的発展に大きく貢献しました。
バローの活動は、後進の芸術家たちにも多大な影響を与えました。彼は多くの若手演出家や俳優に活躍の場を提供し、彼らの創造性を育む土壌を築きました。彼の革新性と芸術への献身は、今日に至るまでフランス演劇の発展の礎の一つとして高く評価されています。
5. 人物
ジャン=ルイ・バローは、女優のマドレーヌ・ルノーと1940年に結婚しました。二人は公私にわたる最高のパートナーであり、共に「ルノー=バロー劇団」を創設し、その生涯を通じて数多くの劇場を運営し、南アメリカを含む世界各地で広範な巡業を行いました。彼らの結婚生活は、フランス演劇界における最も著名なパートナーシップの一つとして知られています。
バローはまた、女優のマリー=クリスティーヌ・バローの叔父にあたります。さらに、彼は英国の著名な演出家ピーター・ブルックを一時的に後援していたことでも知られています。これらの個人的な繋がりは、彼の芸術活動だけでなく、演劇界全体の発展においても重要な役割を果たしました。
6. 死去
ジャン=ルイ・バローは、1994年1月22日、パリで心臓発作のため83歳で逝去しました。彼の死はフランス演劇界に大きな喪失感をもたらしました。
彼の遺体は、同年9月に後を追うように亡くなった妻マドレーヌ・ルノーと共に、パリのパッシー墓地に埋葬されています。
7. 評価と遺産
ジャン=ルイ・バローの生涯と芸術活動は、フランス演劇史において極めて高く評価されています。
7.1. 功績と貢献
バローは、俳優としての才能と、演出家としての革新的な手腕を兼ね備えた稀有な芸術家でした。コメディ・フランセーズでの古典劇の主演や演出、そして自らのルノー=バロー劇団における「全体的演劇」の追求は、彼の芸術的業績の核心をなしています。特に、第二次世界大戦中の困難な時期にポール・クローデルの『繻子の靴』を演出したことは、文化的な抵抗の象徴として記憶されています。
彼はアンドレ・マルロー文化相の協力を得てオデオン座のフランス劇場監督に就任し、イヨネスコやベケットなどのアヴァンギャルド作品を積極的に上演することで、フランス演劇の現代化に大きく貢献しました。また、「諸国民演劇祭」の開催を通じて、世界の演劇に門戸を開き、国際的な演劇交流を促進した功績は、フランス演劇の多様性と発展に不可欠なものでした。彼の演劇に対する深い哲学と、新たな表現形式への絶え間ない探求は、後進の多くの芸術家たちに多大な影響を与え、フランス演劇の豊かな遺産として今もなお受け継がれています。
7.2. 批判と課題
ジャン=ルイ・バローのキャリアには、社会的な論争に巻き込まれた時期も存在します。特に、1968年のフランス五月革命の際、彼がオデオン座を占拠した学生たちに劇場を開放した行動は、当時の政府や一部の保守層から批判を浴びました。この判断は、結果的に彼がオデオン座の監督職を追われる原因となりました。この出来事は、彼の芸術家としての自由な精神と、社会的な潮流への共感を示すものでしたが、同時に、彼のキャリアにおける困難な時期としても認識されています。
8. 著作と出版物
ジャン=ルイ・バローは、自身の演劇観や経験を綴った著書も残しています。
- 『Reflections on the Theatreリフレクションズ・オン・ザ・シアター英語』 (1951年)
- 『Souvenirs pour demainスーヴニール・プール・ドゥマンフランス語』 (1972年) - 日本語訳は『明日への贈物-ジャン=ルイ・バロー自伝』(石沢秀二訳、新潮社、1975年)として出版されています。
- 梅田晴夫編訳『フランス俳優論』(未来社 てすぴす叢書、1955年) - ルイ・ジューヴェ、ガストン・バティとの共著。
9. 関連項目
- マドレーヌ・ルノー
- マリー=クリスティーヌ・バロー
- ピーター・ブルック
- シャルル・デュラン
- エティエンヌ・ドクルー
- ルイ・ジューヴェ
- ポール・クローデル
- アンドレ・マルロー
- イヨネスコ
- サミュエル・ベケット
- コメディ・フランセーズ
- オデオン座
- ルノー=バロー劇団
- 天井桟敷の人々
- 五月革命 (フランス)
- パントマイム
- ドメーヌ・ミュジカル