1. Overview
ヨハン・フォン・ファルケンベルク(Johann von Falkenbergドイツ語、生年不詳 - 1418年頃)は、ドイツ出身のドミニコ会神学者であり作家です。彼の生涯は、中世後期のキリスト教界における重要な紛争と深く結びついており、特に西方教会大分裂への関与、そしてドイツ騎士団とポーランド王国・リトアニア大公国の間の紛争における役割によって歴史に名を残しています。ファルケンベルクは、特定の民族に対するジェノサイドを公然と擁護した最初期の思想家の一人として知られ、その思想は当時の教会内外で大きな論争を巻き起こしました。本稿では、彼の生涯、主要な活動、著作、そして特にその思想がもたらした社会的・人道的影響と、その歴史的評価を詳細に概観します。
2. Life
ヨハン・フォン・ファルケンベルクの生涯については、幼少期に関する情報はほとんど残されていませんが、彼の学術的経歴と主要な人生の出来事を通じてその足跡を辿ることができます。
2.1. Early Life and Education
ファルケンベルクはポメラニアのヤストジェンブニキ(現在のポーランド、西ポモージェ県ヤストジェンブニキ)にあるファルケンベルクで生まれました。生年は不明です。彼は若くして聖ドミニコ会に入会し、カミンの修道院で修練期を過ごしました。
2.2. Theological Career
ファルケンベルクは神学の修士号を授与されており、これは彼が長年にわたり自身の修道会において哲学と神学を教えていたことを示しています。彼は学問的にも高く評価された存在でした。
3. Involvement in Major Conflicts and Writings
ファルケンベルクは、中世後期のヨーロッパにおける主要な二つの紛争、すなわち教会大分裂とドイツ騎士団とポーランド・リトアニア間の紛争に深く関与しました。これらの紛争の中で、彼は自身の思想を表明する多数の著作を発表しました。
3.1. Western Schism and Papal Dispute
西方教会大分裂期において、多くのドミニコ会士や当時の総長であったベルナルド・デ・ダティスが対立教皇アレクサンダー5世やヨハネス23世の熱心な支持者であったのに対し、ファルケンベルクは教皇グレゴリウス12世の熱烈な支持者でした。彼は自らの対立教皇に対する反対の立場を明確に示し、コンスタンツ公会議においては、総長ベルナルドを公的に自身の長として認めない発言をするほどでした。
3.2. Conflict between Teutonic Knights and Poland-Lithuania
ファルケンベルクは、プロイセンのドイツ騎士団と、同盟関係にあったポーランド王国およびリトアニア大公国との間に長年続く紛争において、ドイツ騎士団を強く支持しました。ドイツ騎士団は、かつては異教のリトアニア大公国に対して十字軍を組織し、100年にわたる戦争を繰り広げていました。この紛争はコンスタンツ公会議に調停が委ねられることになり、ファルケンベルクもその場に関与しました。
3.3. Major Works and Ideology
ファルケンベルクは、自身の政治的・神学的信念を表明するために複数の著作を著しました。これらの著作には、彼独自の過激な思想が明確に示されています。
3.3.1. Liber de doctrina
1416年に発表された『Liber de doctrinaラテン語』(教義の書)は、ポーランド人学者パウルス・ヴラディミリへの反論として書かれました。この著作においてファルケンベルクは、ポーランド国王とその支持者たちは偶像崇拝者であり不信心者であると主張し、彼らへの反対は高貴で称賛に値すると論じました。彼はまた、フランシスコ会の神学者ジャン・プティが擁護した僭主殺害の正当性を支持し、『Liber de doctrinaラテン語』の中で、ポーランド国王とその協力者を殺害することは合法的であると結論付けました。
さらに、ファルケンベルクは『Liber de doctrinaラテン語』の中で、「皇帝は異教徒であるという理由だけで、平和な異教徒ですら殺害する権利を有する(中略)。ポーランド人たちは異教徒を擁護しているため、死に値し、異教徒以上に根絶されるべきである。彼らは主権を奪われ、奴隷にされるべきである」と主張しました。スタニスラウス・F・ベルチは、自身の著作『パウルス・ヴラディミリと国際法および政治に関する彼の教義』の中で、ファルケンベルクをジェノサイドの正当化を初めて体系的に構築した作家であると評価しています。
3.3.2. Satira and Tres tractatuli
ファルケンベルクは、1412年には『Satiraラテン語』を発表し、この中でポーランドとその国王ヤギェウォをさらに攻撃しました。当時、ヤギェウォ国王もリトアニアもキリスト教に改宗していましたが、ファルケンベルクはヤギェウォ国王を「狂犬」と呼び、国王として不適格であると断じました。
また、1416年に発表された後期作品『Tres tractatuliラテン語』(三つの小論)では、ジャン・ジェルソンやピエール・ダイイ、その他パリ大学の学者たちがジャン・プティの著作を非難したことに対し、反論を試みました。この著作の中で彼は、司教たちが彼の著書やその一部を異端であると宣言する権利を否定し、信仰の問題においては教皇と総公会議のみが不可謬であると主張しました。
4. Condemnation and Criticism
ファルケンベルクの過激な思想と行動は、当時の教会および学界から厳しい非難と批判に晒され、公的な評決が下されました。
4.1. Verdicts from the Council of Constance and Dominican Order
グニェズノ大司教ミコワイ・トロンバの命令により、ファルケンベルクは投獄されました。ポーランド側は彼の異端としての有罪判決を要求しましたが、それは叶いませんでした。しかし、コンスタンツ公会議は彼の著作を「スキャンダラスな中傷的」であると非難し、異端ではないとしながらもその内容を糾弾しました。1417年5月から6月にかけてストラスブールで開かれたドミニコ会総会も同様の評決を下し、著者であるファルケンベルクに対し終身刑を宣告しました。ローマに戻った教皇マルティヌス5世はファルケンベルクを伴い、数年間彼を厳重に監禁しました。彼が最終的に自由を取り戻したのか、あるいはそこで死亡したのかは不確かです。
4.2. Evaluation of Genocide Advocacy
ヨハン・フォン・ファルケンベルクが提唱した民族抹殺(ジェノサイド)擁護論は、その後の歴史において極めて重大な問題として認識されています。彼の主張は、特定の民族集団を異教徒であるという理由だけでなく、「異教徒を擁護した」という理由で主権を奪い、奴隷化し、最終的には根絶すべきであるというものでした。これは、近代的な意味での国際法や人権の概念とは相容れないものであり、人間の尊厳を根本から否定する思想です。歴史的には、このような思想が、後に民族的・宗教的迫害や大量虐殺へと繋がるイデオロギー的根拠の一つとなり得たとして、極めて批判的に評価されています。彼の論理は、紛争における敵対者を人間以下の存在と見なし、彼らの存在そのものを否定するという危険な道筋を示したものであり、中世におけるその時代の精神的限界を示す一例であると同時に、現代においても繰り返される民族紛争や差別問題の根源的な問いを提起するものです。
5. Death
ヨハン・フォン・ファルケンベルクは、正確な死亡日時や場所は不確かですが、およそ1418年頃にイタリア、または彼の故郷のファルケンベルクで亡くなったとされています。彼が最終的に監禁から解放されたのか、それとも監禁中に死亡したのかは不明です。
6. Historical Impact and Legacy
ヨハン・フォン・ファルケンベルクは、その生涯と著作を通じて、中世後期における教会内部の権力闘争、国際関係、そして倫理的・哲学的論争に深く関わりました。彼の思想は、特に民族抹殺を擁護するという点で、歴史上特異な位置を占めています。
6.1. Overall Historical Assessment
ファルケンベルクの思想は、当時の政治的・宗教的対立の激しさを反映していますが、特にポーランド人に対する極端な排他性と暴力を正当化する論理は、後世において繰り返し批判されてきました。彼の著作、特に『Liber de doctrinaラテン語』における「異教徒とその擁護者の根絶」という主張は、集団に対する暴力を神学的・法的に正当化しようとする試みとして、その後の歴史学や国際関係論において否定的に評価されています。彼は、教会や国家の権威の範囲、そして戦争の倫理といった問題について、当時の最も過激な見解を代表する人物の一人でした。彼の遺した業績は、中世キリスト教思想の多様性と、その中に潜む危険な思想傾向の両面を示すものとして、今日でも研究対象となっています。彼の生涯と活動は、思想が社会や人々に与えうる影響の大きさを再認識させる重要な事例であり、特に人間の尊厳と共存の価値を再考させる契機となっています。