1. Overview
ジョン・ファレン "スタッフィー"・マキニス(John Phalen "Stuffy" McInnis英語, 1890年9月19日 - 1960年2月16日)は、アメリカのプロ野球選手であり、監督も務めました。メジャーリーグベースボールの一塁手として活躍し、そのキャリアは1909年から1927年までの19シーズンに及びました。特にフィラデルフィア・アスレチックスの「10万ドルの内野陣」の一員として知られ、ワールドシリーズでの優勝に貢献しました。また、ボストン・レッドソックスやピッツバーグ・パイレーツなど複数の球団でプレーし、晩年にはフィラデルフィア・フィリーズで選手兼監督を務めました。打撃面では高い打率と低い三振率を誇り、守備では長年にわたり一塁手としての守備記録を保持した卓越した内野手でした。
2. Early Life and Professional Debut
マキニスは1890年9月19日にマサチューセッツ州グロスターで生まれました。彼のニックネームである「スタッフィー」("Stuffy")は、ボストン郊外のリーグで若くしてプレーしていた頃に、その見事なプレーを見て観客が「よくやった、坊主!」("that's the stuff, kid")と叫んだことに由来しています。
マキニスは1909年にフィラデルフィア・アスレチックスで遊撃手としてプロ野球のキャリアをスタートさせました。
3. Major League Career
ジョン・ファレン "スタッフィー"・マキニスは、1909年から1927年にかけての19シーズンにわたり、メジャーリーグベースボールで活躍しました。そのキャリアを通じて、様々な球団で重要な役割を果たし、特に打撃と守備の両面で高い安定性を見せました。彼は通算2,128試合に出場し、打率.307、20本塁打、1,063打点という成績を残しました。
3.1. Philadelphia Athletics Era (1909-1917)
アスレチックスでの最初の2シーズン後、マキニスは1911年にハリー・デイビスに代わって一塁手に転向しました。この年、彼は後に野球史に名を残す「10万ドルの内野陣」($100,000 infield英語)の一員となりました。この内野陣は、二塁手のエディ・コリンズ、三塁手のフランク・ベーカー、遊撃手のジャック・バリー、そして一塁手のマキニスで構成され、当時の野球界において破格の評価を受けるチームとして認識されていました。
当時のアスレチックスは全盛期を迎え、アメリカンリーグのペナントを1910年、1911年、1913年、1914年に獲得し、1910年と1911年には2年連続でワールドシリーズを制覇しました。
しかし、1914年ワールドシリーズでボストン・ブレーブスにスイープで敗れた後、オーナーのコニー・マックは、新たなフェデラル・リーグによるスター選手引き抜きへの試みを背景に、チームの解体を始めました。この動きにより、「10万ドルの内野陣」は崩壊しました。エディ・コリンズはシカゴ・ホワイトソックスに、フランク・ベーカーはニューヨーク・ヤンキースに、ジャック・バリーはボストン・レッドソックスにそれぞれ移籍し、マキニスだけがアスレチックスに残りましたが、彼も1917年シーズンの終わりにレッドソックスへトレードされました。
3.2. Boston Red Sox and Later Teams (1918-1926)
1918年、マキニスはボストン・レッドソックスの一員としてワールドシリーズに出場しました。彼はシリーズ初戦のシカゴ・カブス戦で、ベーブ・ルースが1対0で完封勝利を収めた試合において、唯一の得点となる打点を挙げ、チームの勝利に貢献しました。
レッドソックス退団後、マキニスは1922年に1シーズンだけクリーブランド・インディアンスでプレーしました。そして1923年にはナショナルリーグに移籍し、ボストン・ブレーブスでプレーしました。その後、ピッツバーグ・パイレーツに移り、1925年にはパイレーツの優勝チームの一員として、59試合で打率.368という素晴らしい成績を記録しました。
3.3. Player-Manager for Philadelphia Phillies (1927)
マキニスにとってメジャーリーグでの最後のシーズンとなった1927年、彼はフィラデルフィア・フィリーズで選手兼監督という二重の役割を担いました。
3.4. Batting Performance and Records
マキニスは、ボールを芯で捉えるラインドライブヒッターとして知られていました。彼は19シーズンというキャリアのうち12シーズンで打率.300以上を記録し、特に1910年から1915年までの6年間は毎年打率.300を上回る安定した成績を残しました。彼のキャリアで最も生産的だったシーズンは1912年で、この年彼は打率.327を記録しました。
また、マキニスは極めて三振しにくい打者でした。彼は通算7,822打席でわずか189回しか三振せず、2,405本の安打を放ちました。特に1921年には、584打席でわずか9回しか三振しませんでした。
さらに、彼は犠牲打でランナーを進める能力にも優れており、通算384本の犠牲打はメジャーリーグの歴史において歴代3位の記録です。
3.5. Exceptional Defensive Play
マキニスは、一塁手として特に堅実な守備を誇る選手でした。彼は長年にわたり、一塁手のシーズン守備記録を保持していました。
1921年にはレッドソックスで152試合に出場し、1,651回の守備機会でわずか1つの失策しか犯さず、守備率.9993という驚異的な記録を達成しました。また、このシーズン中にエラーなしで1,300回の守備機会をこなすという記録も樹立しました。
1921年5月31日から1922年6月2日にかけては、163試合で1,700回連続失策なしという、当時としては前人未踏のメジャーリーグ記録を樹立しました。彼のメジャーリーグ全体での通算守備率は.991でした。
彼の守備記録は、その後も長らく破られることはありませんでしたが、2007年6月25日にケビン・ユーキリスが120試合連続失策なしで一塁を守り、マキニスが1921年に樹立したレッドソックスの一塁手記録を更新しました。さらに2008年4月27日、ユーキリスは自身205試合目の失策なし試合で、1,701回連続失策なしの守備機会を達成し、マキニスが保持していた1,700回というメジャーリーグ記録を更新しました。ユーキリスのこの連続失策なし記録は、238試合(2,002回の守備機会)で途絶えました。
4. Post-Playing Career
選手としての引退後、マキニスは野球界での活動を続けました。1928年にはマイナーリーグのセーラム・ウィッチズで監督を務めました。その後は大学野球のコーチとして、ノーウィッチ大学で1931年から1944年まで、そしてハーバード大学で1949年から1954年まで野球チームを指導しました。
5. Legacy and Impact
ジョン・ファレン "スタッフィー"・マキニスは、その優れた打撃技術と卓越した守備能力により、野球史に大きな足跡を残しました。彼のキャリア通算打率.307という安定した打撃成績と、驚異的に低い三振率は、打者としての彼の技術の高さを物語っています。特に、通算384本の犠牲打はメジャーリーグ歴代3位という特筆すべき記録です。
また、一塁手としての彼の守備は伝説的であり、長年にわたり複数の守備記録を保持しました。連続失策なしの記録が後世の選手によって更新されたことは、彼の記録がそれほど長く破られなかったことの証左であり、彼がいかに堅実で信頼できる守備者であったかを示しています。マキニスは、「10万ドルの内野陣」の一員としてチームの黄金期を支え、複数のワールドシリーズ優勝に貢献するなど、その貢献は数字だけにとどまりません。彼のプレーは、その後の選手やチームに大きな影響を与え、野球の技術と戦略の発展に貢献しました。
6. Death
ジョン・ファレン "スタッフィー"・マキニスは1960年2月16日、マサチューセッツ州イプスウィッチで死去しました。享年69歳でした。