1. 概要

セドリック・パトリス・ティエリ・ヴィラニ(Cédric Patrice Thierry Villaniフランス語、1973年10月5日 - )は、フランスの著名な数学者であり、かつて国民議会議員を務めた政治家である。彼は主に偏微分方程式、リーマン幾何学、数理物理学を専門とし、2010年には数学界で最も権威あるフィールズ賞を受賞した。2009年から2017年までアンリ・ポアンカレ研究所の所長を務め、2022年9月時点ではフランス高等科学研究所の教授を務めている。
ヴィラニは、その数学的才能と同時に、政治家としての活動や公的な知性としての役割を通じて、フランス社会に大きな影響を与えてきた。彼は2017年のフランス議会総選挙で共和国前進から出馬し当選したが、2020年のパリ市長選挙を巡る党内対立を経て、エコロジー・民主主義・連帯、その後エコロジー世代へと所属政党を変遷させた。彼の政治活動は、科学技術の評価や環境問題への関与など多岐にわたるが、一部の活動、特にファーウェイとの関係は、社会的な議論や批判の対象となることもあった。本記事では、ヴィラニの生涯、数学者としての輝かしい業績、政治家としての挑戦、そして社会に与えた影響と評価について、多角的な視点から詳述する。
2. 生涯と学歴
セドリック・ヴィラニは、その幼少期から高等教育、そして数学者としての初期キャリアに至るまで、一貫して学問の世界で卓越した才能を発揮してきた。
2.1. 生い立ちと学生時代
ヴィラニは1973年10月5日、フランスのコレーズ県ブリーヴ=ラ=ガイヤルドで生まれた。幼少期から学業に秀で、名門ルイ=ル=グラン高校で学んだ。1992年から1996年までエコール・ノルマル・シュペリウール(パリ)に在籍し、そこで助教授(agrégé préparateurフランス語)に任命された。
2.2. 高等教育と学位
1998年、パリ・ドーフィン大学でピエール=ルイ・リオンの指導のもと博士号を取得した。また、2000年には教授資格(Habilitationフランス語)を取得している。博士号取得後も、学術的な研鑽を続け、様々な客員教授の職を歴任した。具体的には、1999年秋にはジョージア工科大学、2004年春にはカリフォルニア大学バークレー校、2009年春にはプリンストン高等研究所で客員研究員を務めた。
2.3. 数学分野での初期キャリア
2000年にリヨン高等師範学校の教授に就任し、その後リヨン大学の教授も務めた。2009年から2017年までパリのアンリ・ポアンカレ研究所の所長を務め、2022年9月時点ではフランス高等科学研究所の教授である。彼はフランス語、英語、イタリア語を話すことができる。2014年10月19日には、フランス大使館文化サービスが主催する「アルベルティーヌ・フェスティバル」の一環として、ノーベル経済学賞受賞者の数学者ジョン・フォーブス・ナッシュと対談を行った。ナッシュが2015年5月23日に自動車事故で亡くなる数日前、ノルウェーでヴィラニに対し「アインシュタインの相対性理論に代わる方程式を発見した」と語ったことを、ヴィラニはヘイ・フェスティバルで明かしている。
3. 数学者としての業績
ヴィラニの数学者としてのキャリアは、数々の革新的な研究と権威ある賞によって特徴づけられる。彼の研究は、純粋数学と応用数学の境界を越え、広範な分野に影響を与えている。
3.1. 主な研究分野
ヴィラニの主要な研究分野は、偏微分方程式、数理物理学、統計力学、リーマン幾何学である。特に、気体分子運動論におけるボルツマン方程式やランダウ減衰の理論に深く貢献している。また、最適輸送理論とその微分幾何学への応用についても重要な研究を行っている。
3.2. ボルツマン方程式とランダウ減衰
ヴィラニは、統計力学における偏微分方程式、特にボルツマン方程式の理論に取り組んだ。ローラン・デヴィレットとともに、彼は非平衡状態に近い初期値に対する収束速度を初めて厳密に証明した。また、ジュゼッペ・トスカーニともこの主題について共同で執筆している。
クレマン・ムオとは、非線形ランダウ減衰に関する研究を行った。韓国の資料によると、2008年3月に「非均質的なボルツマン方程式の正則性問題」に取り組み、1年9ヶ月後の2009年12月に「ムオ=セドリックの定理」を完成させたとされる。この定理を通じて、ロシアの物理学者レフ・ダビドヴィッチ・ランダウが1946年に提唱した「ランダウ減衰」を数学的に立証する業績を上げた。
3.3. 最適輸送理論
ヴィラニは、最適輸送理論とその微分幾何学への応用に関する研究で知られている。ジョン・ロットとは共同で、一般的な測度距離空間におけるリッチ曲率の有界性の概念を定義した。彼の著書『Optimal Transport: Old and New英語』(2009年)は、この分野における重要な文献となっている。
3.4. フィールズ賞受賞
2010年、ヴィラニはランダウ減衰とボルツマン方程式に関する研究の功績により、数学界の最高栄誉であるフィールズ賞を受賞した。この賞は、インドのハイデラバードで開催された国際数学者会議(ICM)で授与された。彼は、エロン・リンデンシュトラウス、ンゴー・バオ・チャウ、スタニスラフ・スミルノフとともに受賞者の一人となった。この受賞は、彼の研究が数学の最前線における重要なブレークスルーであることを国際的に認められた証となった。
4. 政治活動

数学者としての輝かしいキャリアを築いた後、セドリック・ヴィラニは2017年に政治の世界へと転身した。
4.1. 国会議員への選出
2017年のフランス議会総選挙において、エマニュエル・マクロン大統領率いる共和国前進(La République En Marche!フランス語, LREM)の候補者として、エソンヌ県第5選挙区から立候補した。彼は選挙戦で強力な支持を集め、第1回投票では47%の票を獲得し、第2回投票では69.36%の得票率で当選し、国民議会の議員となった。
4.2. 政党所属の変遷
国民議会に当選後、ヴィラニは共和国前進に所属していたが、2020年5月には同党を離党し、新たな政党であるエコロジー・民主主義・連帯(Écologie, Démocratie, Solidaritéフランス語, EDS)の結成に参加した。EDSの解党後、彼はエコロジー世代(Écologie Générationフランス語)に加わり、2022年のフランス議会総選挙では新人民連合・エコロジー・社会主義連合(Nouvelle Union Populaire écologique et socialeフランス語, NUPES)の旗の下で再選を目指した。
4.3. パリ市長選挙への挑戦
2019年、ヴィラニは2020年のパリ市長選挙において共和国前進の候補者リストの筆頭となることを目指した。2019年7月までに、彼はバンジャマン・グリヴォー(当時の政府報道官)とユーグ・ランソン(当時の国民議会副議長)とともに、共和国前進の3人の候補者のうちの1人であった。しかし、7月10日に党の指名委員会はグリヴォーを選出した。
これに対し、ヴィラニは2019年9月4日にパリ市長選挙への立候補を正式に表明した。この行動は党の方針に反するとされ、彼は共和国前進から追放されることとなった。
4.4. 国会議員としての活動
2017年7月、彼はフランス議会科学技術選択評価委員会の副議長に選出された。この役職を通じて、科学技術政策の評価と提言に貢献した。
4.5. 議員職の喪失
2022年のフランス議会総選挙において、ヴィラニは再選を目指したが、共和国前進の候補者ポール・ミディにわずか19票差で敗れ、議席を失った。
5. 著書と著作
セドリック・ヴィラニは、その数学研究の成果を学術論文として発表するだけでなく、一般読者向けの書籍も多数執筆しており、特に数学の魅力を伝えることに力を入れている。
5.1. 主要な著作
彼の代表的な著書の一つに、2008年から2010年までの研究生活について綴った自伝的著作『Théorème vivantフランス語』(2012年)がある。この本は英語に翻訳され、『Birth of a Theorem: A Mathematical Adventure英語』(2015年)として出版された。日本語版は『定理が生まれる』の題で2014年に刊行されている。この本の中で、彼は気体分子運動論に関する自身の研究と、数学者カルロ・チェルチニャーニの研究との関連性について記述しており、自身が「チェルチニャーニの予想」を証明したことを述べている。
その他の主な著作には以下のものがある。
- 『Limites hydrodynamiques de l'équation de Boltzmannフランス語』(2001年)
- 『A Review of Mathematical Topics in Collisional Kinetic Theory英語』(2002年)
- 『Topics in Optimal Transportation英語』(2003年)
- 『Optimal transportation, dissipative PDE's and functional inequalities英語』(2003年)
- 『Cercignani's conjecture is sometimes true and always almost true英語』(2003年)
- 『On the trend to global equilibrium for spatially inhomogeneous kinetic systems: the Boltzmann equation英語』(ローラン・デヴィレットとの共著、2005年)
- 『Mathematics of Granular Materials英語』(2006年)
- 『Optimal transport, old and new英語』(2009年)
- 『Ricci curvature for metric-measure spaces via optimal transport英語』(ジョン・ロットとの共著、2009年)
- 『Hypocoercivity英語』(2009年)
- 『On Landau damping英語』(クレマン・ムオとの共著、2009年)
- 『Les Coulisses de la créationフランス語』(作曲家・ピアニストのカロル・ベファとの共著、2015年)
- 『Freedom in Mathematics英語』(ピエール・カルティエ、ジャン・ドンブル、ゲルハルト・ハインツマンとの共著、2016年)
- 『De mémoire vive, Une histoire de l'aventure numériqueフランス語』(フィリップ・デュウォストとの共著、2022年)
6. 受賞歴と栄誉
セドリック・ヴィラニは、その卓越した数学的業績と広範な学術的貢献に対し、国内外の数多くの賞や栄誉を受けている。
6.1. 学術賞
- 2001年: フランス科学アカデミールイ・アルマン賞
- 2003年: コレージュ・ド・フランス・ペコ=ヴィモン賞およびクール・ペコ
- 2003年: リスボンで開催された国際数理物理学会議で全体講演者
- 2004年: ハロルド・グラッド講演者
- 2004年: カリフォルニア大学バークレー校ミラー客員教授
- 2006年: フランス大学協会会員
- 2006年: マドリードで開催された国際数学者会議で招待講演者
- 2007年: フランス科学アカデミージャック・エルブラン賞
- 2008年: ヨーロッパ数学会賞
- 2009年: アンリ・ポアンカレ賞
- 2009年: フェルマー賞
- 2010年: フィールズ賞
- 2013年: ジョサイア・ウィラード・ギブズ講演会講演者(演題: 『On Disorder, Mixing and Equilibration英語』)
- 2014年: アメリカ数学会ジョセフ・L・ドゥーブ賞(著書『Optimal Transport: Old and New英語』に対して)
- 2014年: ピウス11世メダル
- 2015年、2016年: インフォシス賞数学部門審査員
6.2. 学術以外の栄典
- 2009年: 国家功労勲章シュヴァリエ
- 2011年: レジオンドヌール勲章シュヴァリエ
- 2013年: フランス科学アカデミー会員
- 2016年: 教皇庁立科学アカデミー正会員
- 2022年: 国際学術会議フェロー
- 2020年には、ヒメグモ科の新種クモ「Araniella villanii英語」が彼の名にちなんで命名された。
7. その他の活動と関連
セドリック・ヴィラニは、数学研究や政治活動以外にも、様々な公的な役割や組織との関わりを持っている。特に、国際的な組織との関係は、彼の活動に対する社会的な評価に影響を与えることがある。
7.1. アンリ・ポアンカレ研究所理事
ヴィラニは2009年からパリのアンリ・ポアンカレ研究所の理事を務めている。この研究所の運営において、彼は資金調達にも関与しており、特にファーウェイからの寄付が注目されている。
7.2. Huaweiとの関係
2018年6月27日付のフランスの経済誌『シャランジュ』の報道によると、ヴィラニはファーウェイが運営するスタートアップ支援プログラム「デジタル・インパルス」の審査員長を務めた。また、アンリ・ポアンカレ研究所の寄付者リストにはファーウェイが主要な民間寄付者として含まれている。同記事は、フランスの防諜機関がヴィラニを「そのような機会に対してあまりにナイーブである」と報じている。この関係は、彼の活動における潜在的な社会的な影響や論争点を示唆する可能性がある。
7.3. フランス・中国財団
ヴィラニはかつてフランス・中国財団の戦略委員会のメンバーを務めていた。この財団は、フランスと中国の関係強化を目指す組織であり、彼の国際的な関与の一端を示している。
8. 影響力と評価
セドリック・ヴィラニは、その多岐にわたる活動を通じて、数学界、学術界、そして社会全体に大きな影響を与えてきた。彼の業績は高く評価される一方で、公的な立場での行動が議論を呼ぶこともある。
8.1. 数学界における影響
フィールズ賞受賞者としてのヴィラニは、現代数学の最前線を牽引する存在として、数学界に多大な影響を与えている。彼は自身の研究だけでなく、数学の教育や啓蒙活動にも積極的に取り組んでおり、一般向けの著書やTEDトークを通じて、数学の面白さや重要性を広く伝えている。これにより、次世代の数学者や科学者たちに大きなインスピレーションを与え、数学への関心を高める役割を果たしている。
8.2. 社会的・政治的影響
ヴィラニは、単なる数学者にとどまらず、公的な知性(インテリゲンチャ)として社会問題や政策議論に積極的に関与してきた。彼の政治家としての活動は、科学技術政策の推進や環境問題への意識向上に貢献した。特に、議会科学技術選択評価委員会副議長としての役割は、科学的知見に基づいた政策決定の重要性を社会に示し、専門家が政治に参画する意義を体現した。彼の発言や行動は、メディアを通じて広く報じられ、社会に一定の影響力を持っている。
8.3. 批判と論争
ヴィラニの活動は、常に肯定的に受け止められてきたわけではない。特に、ファーウェイとの関係を巡る報道は、彼の国際的な活動における潜在的なリスクや、国家安全保障上の懸念を引き起こす可能性について議論を呼んだ。フランスの防諜機関が彼を「ナイーブ」と評価したとされる報道は、科学者と政治家という二つの顔を持つ彼の活動における倫理的、政治的責任のあり方について、社会的な問いを投げかけるものとなった。このような論争は、彼の公的な役割の複雑さと、それに伴う多角的な評価の必要性を示している。
9. 関連項目
- ピエール=ルイ・リオン
- クレマン・ムオ
- ジョン・ロット
- ローラン・デヴィレット
- ジュゼッペ・トスカーニ
- スタニスラフ・スミルノフ
- エロン・リンデンシュトラウス
- ンゴー・バオ・チャウ
- ボルツマン方程式
- ランダウ減衰
- 最適輸送理論
- リッチ曲率
- 偏微分方程式
- 数理物理学
- 統計力学
- リーマン幾何学
- フィールズ賞
- ヨーロッパ数学会賞
- フェルマー賞
- アンリ・ポアンカレ賞
- ジョセフ・L・ドゥーブ賞
- ジャック・エルブラン賞
- 国家功労勲章 (フランス)
- レジオンドヌール勲章
- フランス科学アカデミー
- 教皇庁立科学アカデミー
- 国際学術会議
- アンリ・ポアンカレ研究所
- 高等師範学校 (フランス)
- パリ・ドーフィン大学
- リヨン高等師範学校
- リヨン大学
- フランス高等科学研究所
- 共和国前進
- エコロジー・民主主義・連帯
- エコロジー世代
- 新人民連合・エコロジー・社会主義連合
- 議会科学技術選択評価委員会
- フランス・中国財団
- ファーウェイ
- 『定理が生まれる』(Théorème vivantフランス語)
- ジョン・フォーブス・ナッシュ