1. 概要
チャールズ・ガードナー・ラドボーン(Charles Gardner Radbourn英語、1854年12月11日 - 1897年2月5日)は、「オールド・ホス」(Old Hoss英語)の愛称で知られるアメリカ合衆国のプロ野球選手(投手)。メジャーリーグベースボール(MLB)で12シーズンにわたってプレーし、通算310勝、防御率2.68、奪三振1,830個という記録を残した。
特に1884年シーズンは、MLBにおける単一シーズン最多勝記録となる60勝を挙げ、これは未だに破られていない記録である。また、ナショナルリーグの最優秀防御率と最多奪三振も獲得し、投手三冠を達成した。レギュラーシーズン後には、同年のワールドシリーズで全試合に登板し、プロビデンス・グレイズの優勝に貢献した。1939年にはアメリカ野球殿堂に選出され、その功績が称えられている。
2. 生涯と背景
2.1. 幼少期と家族
ラドボーンは1854年12月11日にニューヨーク州ロチェスターで、チャールズとキャロライン(ガードナー)ラドボーン夫妻の8人兄弟の2番目の子供として生まれた。父親のチャールズ(シニア)はイングランドのブリストルから肉屋として働くためにアメリカに移住し、母親のキャロラインもすぐに続いた。
1855年、ラドボーン一家はイリノイ州ブルーミントンへ移り、ラドボーンはそこで育った。十代の頃、ラドボーンは父親と共に肉屋として働いたほか、インディアナ・ブルーミントン・アンド・ウェスタン鉄道会社で制動手としても勤務していた。
3. 野球選手としてのキャリア
3.1. 初期キャリア
1878年、ラドボーンは巡業チームのピオリア・レッズに右翼手と「チェンジピッチャー」として加わった。当時、選手の交代は許可されていなかったため、先発投手が後半に効果を失った場合、通常右翼を守っていたチェンジピッチャーが先発と交代し、試合を立て直そうと試みていた。1879年には新たに結成されたノースウェストリーグのダビュークと契約した。
1880年、ラドボーンはナショナルリーグのバッファロー・バイソンズでメジャーリーグデビューを果たした。当初は二塁手、右翼手、チェンジピッチャーとしてプレーした。しかし、6試合に出場して打率.143と打撃成績が低迷し、一度も登板機会がないまま肩を痛めたため、1年で解雇された。肩の怪我が回復した後、彼は即席のブルーミントンチームでプロビデンス・グレイズとのエキシビションゲームに登板し、その投球がプロビデンス・グレイズのチーム関係者を強く印象づけた。これにより、彼はプロビデンス・グレイズと約1100 USDから1400 USDの給与で契約した。
3.2. プロビデンス・グレイズ時代
1881年、ラドボーンはプロビデンス・グレイズでの最初のシーズンを迎え、ジョン・モンゴメリー・ウォードと投手としての登板機会を分かち合った。この年、ラドボーンは325.1イニングを投げ、25勝11敗の成績を残した。1882年にはチームの主力投手となり、466イニングを投げ、33勝19敗、防御率2.11を記録。ナショナルリーグで奪三振(201)と完封(6)で1位、勝利数と防御率で2位となった。1883年には632.1イニングを投げ、48勝25敗でリーグの最多勝投手となった。彼の防御率2.05と奪三振315は、いずれもリーグ2位の成績だった。この時期、野球のルールでは下手投げの制限が撤廃されたが、彼は一貫してサブマリン投法を続けたと言われている。
3.2.1. 1884年記録達成シーズン

1883年にプロビデンス・グレイズがリーグ優勝を逃すと、球団の財政は不安定になった。球団は新しい監督としてフランク・バンクロフトを招聘し、優勝しなければチームを解散するという方針を明確にした。
シーズンの初期、ラドボーンはチャーリー・スウィーニーと投球の役割を分担していた。しかし、虚栄心が強いと評判だったラドボーンは、スウィーニーがより成功し始めると嫉妬し、その緊張関係はついにクラブハウスでの暴力沙汰に発展した。ラドボーンは喧嘩の首謀者とされ、7月16日の不調な登板後、わざと緩い球を投げて試合を負けさせたと非難され、無給の出場停止処分を受けた。しかし、7月22日、スウィーニーは試合開始前に飲酒し、イニング間にもベンチで飲み続けた。明らかに泥酔していたにもかかわらず、スウィーニーは6対2のリードを保ったまま7回まで投げたが、バンクロフト監督がリリーフと交代させようとすると、彼を言葉で罵り、退場処分を受け、球場を飛び出してしまった。これにより、プロビデンスは8人しか選手がいない状態となった。3つの外野のポジションを2人の選手でカバーしなければならず、グレイズはリードを失い、その試合を落とした。
その後、スウィーニーはグレイズを追放され、チームは解散の危機に瀕する混乱状態に陥った。その時、ラドボーンは「残りのシーズン全ての試合に登板する」ことを条件に、わずかな昇給と翌シーズンの保留条項免除を球団と交渉した。この提案が受け入れられると、7月23日からペナントを勝ち取る9月24日までの間、プロビデンスは43試合を戦い、ラドボーンはそのうち40試合に先発し、36勝を挙げた。隔日登板が続いた結果、彼の腕は髪をとかすことさえできないほど痛んだ。試合の日には、彼は試合開始の数時間前に球場に到着し、準備運動を行った。最初は数フィートの距離から投げ始め、徐々に距離を伸ばし、最終的には二塁から、そしてさらに短い中堅の距離から投球練習を行うほどだった。
ラドボーンはシーズンをリーグ最多の678.2イニング登板と73完投で終え、60勝12敗、防御率1.38、441奪三振で投手三冠を獲得した。シーズン60勝という彼の記録は、1991年にグレッグ・マダックスが37先発を記録して以来、どの先発投手もその数に近づいていないため、破られることはないと考えられている。また、彼の678.2イニングは、1879年のウィル・ホワイトの680イニングに次ぐ歴代2位の記録である。
レギュラーシーズン終了後、ナショナルリーグ王者のグレイズは、アメリカン・アソシエーション王者のニューヨーク・メトロポリタンズと1884年のワールドシリーズで対戦した。ラドボーンはシリーズの全試合に先発し、3試合全てに勝利。わずか3失点(全て自責点なし)に抑え、チームを優勝に導いた。
3.2.2. 勝利数と統計に関する論争
ラドボーンの1884年シーズンにおける勝利数には統計上の異論がある。古典的な『マクミラン野球百科事典』、現行版の『エリアス野球記録集』、彼のアメリカ野球殿堂の伝記、およびBaseball-Reference.comはすべてラドボーンに60勝(12敗)を記録している。しかし、Baseball Almanac、MLB.com、およびエドワード・アチョーンの2010年の著書『Fifty-nine in '84』を含む他の情報源では、ラドボーンの勝利数を59勝としている。彼の墓石の銘板など、一部の古い情報源では62勝と数えているものもある。
これは、投手に勝利が割り当てられる方法をめぐるもので、投球イニング数(678.2イニング)には異論がない。初期のルールでは、現在のルールよりも公式記録員に裁量権が与えられていたことが原因である。
少なくとも2つの説明によると、7月28日のフィラデルフィア戦では、サイクロン・ミラーが5イニングを投げ終え、4対3でリードを許していた。その後、プロビデンスは6回表に4点を追加した。ラドボーンは救援として登板し、残りの4イニングを無失点に抑え、グレイズはさらに4点を追加して11対4で試合に勝利した。当時の公式記録員は、ラドボーンが最も効果的に投球したと判断し、彼に勝利を与えた。当時のルールでは、記録員のこの判断は理にかなっていた。しかし、現代の記録ルールでは、ミラーが降板時に「記録上の投手」であるため、ミラーに勝利が与えられ、ラドボーンには試合を締めくくり「3イニング以上効果的に投げた」としてセーブが記録されることになる。そのため、一部の現代の情報源は遡及的にこの勝利をミラーに与えている。
3.3. 後期キャリアと引退
ラドボーンはその後数年間、メジャーリーグで効果的に投球したが、1883年と1884年の成功を繰り返すことはできなかった。1885年には445.2イニングを投げ、28勝21敗の成績を残した。このシーズン後、グレイズは解散し、その選手名簿はナショナルリーグの管理下に移管された。
ラドボーンはボストン・ブレーブス(当時の球団名はボストン)に獲得され、続く4シーズンを同チームで過ごし、それぞれ27勝、24勝、7勝、20勝を挙げた。ボストン時代には、飲酒などの影響からか成績が思わしくない年もあった。特に1887年には、自責点と与四球がリーグ最多を記録し、防御率は4.55だった。
その後、彼はプレイヤー・リーグに移籍し、1890年シーズンを同リーグのボストン・レッズで過ごした。プレイヤー・リーグの解散後、1891年シーズンはシンシナティ・レッズでプレーし、この年に通算300勝を達成した。同年、ラドボーンは現役を引退した。彼の通算成績は310勝194敗だった。
4. 引退後の人生と死去
野球選手を引退した後、ラドボーンはイリノイ州ブルーミントンでビリヤード場とサルーンを経営し、成功を収めた。しかし引退後すぐに、狩猟中の事故で片目を失うという重傷を負った。彼は1897年2月5日にブルーミントンで42歳で死去し、エバーグリーン墓地に埋葬された。死因は梅毒による合併症である。
5. 功績と影響
5.1. 野球における業績と評価

ラドボーンは1939年にアメリカ野球殿堂に選出され、その功績が認められた。1941年には、彼の華やかな墓石の裏側に、彼の輝かしい野球キャリアを詳細に記した銘板が設置された。2001年の著書『The New Bill James Historical Baseball Abstract』では、野球アナリストのビル・ジェームズがラドボーンを歴代45位の偉大な投手と評価している。
5.2. 文化的逸話と歴史的意義

「チャーリー・ホース」(charley horse英語)という言葉は、彼が悩まされた痛みを伴う足の腓返りが語源であると推測されている。この言葉が野球選手が苦しむ「新しい病気」として当時の新聞記事で言及され、ラドボーンがプレーしていた時代に生まれたことは事実である。しかし、この言葉は「チャールズ」が馬にとっての「ローバー」(犬の一般的な名前)のような一般的な名前であったことから、この症状が引き起こす脚の硬直状態を馬に例えたものとする説が有力である。
また、ラドボーンは1886年にニューヨーク・ジャイアンツの選手に対して中指を立てるジェスチャーをしている写真が撮影された、史上初の人物としても知られている。これは、そのジェスチャーを捉えた最古の既知の写真である。
投手としての球種は、打者の手元で浮き上がるような速球である「ライジングファストボール」(rising fastball英語)、ナックルボールのような変化をする「ドライスピットボール」(dry spitball英語)、低速の変化球である「スローチェンジアップ」(slow changeup英語)、打者の手元で横方向に変化する「フェイドアウェイ」(fadeaway英語、現在のスクリューボールに相当)、そして「シンカー」(sinker英語)があったとされている。
6. 詳細情報
6.1. 年度別投手成績
年 | 球団 | 登板 | 先発 | 完投 | 救援 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 打者数 | 投球回 | 被安打 | 被本塁打 | 与四球 | 死球 | 暴投 | 奪三振 | 奪三振率 | ボーク | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1881 | PRO | 41 | 36 | 34 | 3 | 25 | 11 | .694 | 1380 | 325.1 | 309 | 1 | 64 | -- | -- | 117 | 17 | 0 | 162 | 88 | 2.43 | 1.15 |
1882 | PRO | 54 | 51 | 50 | 6 | 33 | 19 | .635 | 1916 | 466.0 | 422 | 6 | 51 | -- | -- | 201 | 23 | 0 | 213 | 109 | 2.11 | 1.02 |
1883 | PRO | 76 | 68 | 66 | 4 | 48 | 25 | .658 | 2540 | 632.1 | 563 | 7 | 56 | -- | -- | 315 | 36 | 0 | 275 | 144 | 2.05 | 0.98 |
1884 | PRO | 75 | 73 | 73 | 11 | 60 | 12 | .831 | 2672 | 678.2 | 528 | 18 | 98 | -- | -- | 441 | 34 | 0 | 216 | 104 | 1.38 | 0.92 |
1885 | PRO | 49 | 49 | 49 | 2 | 28 | 21 | .571 | 1841 | 445.2 | 423 | 4 | 83 | -- | -- | 154 | 34 | 0 | 209 | 109 | 2.20 | 1.14 |
1886 | BSN | 58 | 58 | 57 | 3 | 27 | 31 | .466 | 2162 | 509.1 | 521 | 18 | 111 | -- | -- | 218 | 22 | 0 | 300 | 170 | 3.00 | 1.24 |
1887 | BSN | 50 | 50 | 48 | 1 | 24 | 23 | .511 | 1915 | 425.0 | 505 | 21 | 133 | -- | 14 | 87 | 20 | 0 | 305 | 215 | 4.55 | 1.50 |
1888 | BSN | 24 | 24 | 24 | 1 | 7 | 16 | .304 | 852 | 207.0 | 187 | 8 | 45 | -- | 8 | 64 | 8 | 0 | 110 | 66 | 2.87 | 1.12 |
1889 | BSN | 33 | 31 | 28 | 1 | 20 | 11 | .645 | 1180 | 277.0 | 282 | 14 | 72 | -- | 8 | 99 | 4 | 0 | 151 | 113 | 3.67 | 1.28 |
1890 | BOS | 41 | 38 | 36 | 1 | 27 | 12 | .692 | 1497 | 343.0 | 352 | 8 | 100 | -- | 11 | 80 | 8 | 0 | 183 | 126 | 3.31 | 1.32 |
1891 | CIN | 26 | 24 | 23 | 2 | 11 | 13 | .458 | 963 | 218.0 | 236 | 13 | 62 | -- | 13 | 54 | 8 | 0 | 149 | 103 | 4.25 | 1.37 |
通算:11年 | 527 | 502 | 488 | 35 | 310 | 194 | .614 | 18918 | 4527.1 | 4328 | 118 | 875 | -- | 54 | 1830 | 214 | 0 | 2273 | 1347 | 2.68 | 1.15 |
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はMLB記録。
6.2. 獲得タイトル・記録
- 投手三冠: 1回(1884年)
- 最多勝利: 2回(1883年、1884年)
- 最優秀防御率: 1回(1884年 (1.38))
- 最多奪三振: 2回(1882年、1884年)
- 最多セーブ: 1回(1884年)
- リーグ優勝: 1884年
- シーズン最多勝利数: 60勝(1884年)
- 通算完投数: 488(歴代8位)
- 投手主要5部門制覇: 1884年(史上初)